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同床異夢のミャンマーの独立

こんばんは。
今日も数ある投稿の中で私の投稿をご覧いただきましてありがとうございます。

今日も3400文字近くになってしまいました。ネット調査によると人間は
1分間は400~600文字読めるみたいですが7~8分かかってしまうかもしれません。💦

今朝、読売新聞を読んでいたら

ミャンマー暴力の応酬

ということで武装市民が親軍を殺害しているという記事が掲載されていました。ほぼほぼ、私が以前投稿した記事の通りだと思いました。

読売新聞の記事によると

「国軍に反発する民主派が樹立した国民統一政府(NUG)の国軍側は『国軍側の不当な虐殺行為に対する自己防衛は必要だ』と主張している」

そうです。
歴史を見る限り、悲しいかな過去からずっと国軍が歯向かう人々には冷徹な対応をとる方針は不変のような気もしています。

ただ同じ土俵にMUGもゲリラ化し一般市民も巻き込みは不可避であり、MUGは軍を持たないため、少数民族の志願兵も巻き込み不安定でより混迷深めてしまいそうです。MUGは軍を持たないため、少数民族の志願兵も巻き込み不安定でより混迷深めてしまいそうです。

前回の続きと補足

予め申し上げますが、今日も何人か登場人物が出てきますが、敬称等は略しておりますのでご承知おきください。

日本は昭和恐慌や天変地異を受けて、非常に困難な状況でした。日本の人口は30年で3,000万人から6000万人となり、本土だけでは抱えきれないほどの多くの人口を抱えてしまい移住できる土地も探しています。
一縷の希望は日露戦争で勝利しロシア(ロマノフ王朝)から譲り受けた南満洲に属するも鉄道・鉱山開発に希望を託していきます。

日本の自作自演の満州事変や中その満州の地を日本からの大開拓団移送のために、強引に武力とお金で買い取ったことによって恨みを買い、現地農民と小競り合いが断続的に起きてしまいます。

満州以外の地でも、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに”支那事変”が中国全土に広がり、中国との兵士の士気と教育・訓練の差があり日本軍の優勢のうちに進み、中国全土を制圧しつつあったようです。

その後も日本の参謀本部は和平を望み、政府・陸海軍は戦争継続を望みますが、無謀にも戦争継続となってしまうようです。

蒋介石が重慶に首都を移し徹底抗戦しますが、重慶は中国全体の工業生産力の6%しかなく本来であれば戦争を継続できる国力はありません。

日本の兵力では中国全土を統治するには広すぎて、各隊持ち場の監視もあるため動くことができず、兵力不足で膠着状態となります。
さらに米英仏ソなどによる軍事経済援助が蒋介石政権を支えていた“援蒋ルート”があったからです。

援蒋ルート

この援蒋ルートは4本あったそうです。ルート名と月間補給量は以下の通りです

1.仏印ルート(フランス領インドシナ西部のハイフォンに陸揚げされた物資を昆明まで鉄道で輸送) 15,000トン

2.ビルマルート 10,000トン

3.中南支沿岸ルート(香港に陸揚げされた物資を鉄道や珠江の水運を利用して、中国大陸内陸部に運ぶ輸送路) 6,000トン

4.西北ルート(ロシアもまたトルキスタン方面からのルート) 500トン 
ちなみに当時は英国はシンガポーインド、ビルマ、米国のフィリピン、オランダの東インド、フランスのインドシナ(インドネシア)と植民地状態でした。


このように複数のルートを使って蒋介石政権を利用して列強の欧州各国が支援してきたのは、既存の中国での利権の確保や日本が東南アジアへの進出をしてくるのを警戒していたのではないかと言われているそうです。

援蒋ルートの遮断

日本は援蒋ルートの遮断に努めます。
「1.仏印ルート」は仏が独に占領された機会に日本軍により遮断されたそうです。
「3.香港ルート」は広州が日本軍に占領され遮断されます。
「4.西北ルート」日本とソ連が日ソ中立条約が締結され中止になります。

そして問題の2.ビルマルートです。

ビルマの夢

ビルマはイギリス領インド帝国の一州でしたが、1935年にビルマ統治法が制定され、インドから切り離され、進歩穏健派のバー・モウを首班とした内閣と議会がありました。しかしイギリス人総督の拒否権は全統治に及んで、傀儡(かいらい=操り人形)政権となります。軍事部門への現地人の関与は少数民族であるカレン族だけです。

1930年代半ばに

秘密結社で反英民族独立運動の中心団体であるタキン党

が結成されます。このメンバーの一人がやっと出てきました、

アウンサンスー・チーのお父上アウンサン

です。

日本の希望

日本は支那事変を早期に終結させるために援蒋ルートのビルマルートを遮断させ、さらに日本が英国との戦争時のビルマ進行を想定し

日本軍に協力的な現地人組織を作りたいためタキン党を支援します。

支援の一環として、

アウンサンら30名を当時日本が統治していた海南島(ハイナントウ)に秘密裏に亡命させ軍事訓練を提供し、帰国後は武器等の提供をします。

実際に帰国後、アウンサンらはタイを拠点にビルマ独立義勇軍を編成するそうです。

志願兵を募り、途中から日本人将兵が指揮系統から外れ軍事顧問になる頃には総兵力は

27,000人

と大人数なります。

ビルマ自治政府の設立

日本はビルマに軍政をひき、前述進歩穏健派のバー・モウを首班とする自治政府の整備を行います。

加えてビルマ義勇軍を縮小させます。
理由は規律のとれた組織にすることとアウンサンらが民衆の支持を集めて日本の占領統治の妨げになる可能性があるからだそうです。

このビルマ義勇軍が解散になったことに伴い、ビルマ防衛軍が設立されます。これは日本軍の補助部隊という立場でビルマ幹部候補生隊もあったそうです。
1943年に日本の指導下で首班をバー・モウとして独立し、ビルマ国民軍(BNA)に移行します。アウンサンも国防相に就任し独立義勇軍初期のメンバーが中核になります。

ビルマでの抗日組織

ビルマで自治政府が設立されたものの、独立した自治政府が形式上であったことに不満を持つ軍幹部が多く、これを境に抗日組織が軍内部に構成され、日に日に増大していきます。

その後、日本軍が劣勢になるとビルマ国民軍も抗日組織「反ファシスト人民自由連盟に合流し、当初イギリス側だったカレン族等の少数民族も加わり、連合国とも連絡が密になり、公然と日本に対して反乱を起こします。
そして遂に1945年3月にアウンサンがビルマ国民軍にバー・モウ政権に対する反乱を命じ、ビルマ国民軍は日本軍への全面攻撃を開始するようになります。

同年5月連合国軍の指揮下に入った旧ビルマ国民軍は、ビルマ愛国軍(PBF)と改称し連合軍側として戦います。旧ビルマ国民軍兵士からは5個大隊が編成された。再編後の軍に残れなかった旧ビルマ国民軍将兵の多くは、アウンサンの指導下で民兵である人民義勇軍として温存されます。

最終的に日本に勝利したものの英国は約束を反故にし、ビルマの完全独立を許されず再び英国の植民地となります。
それによってアウンサンは軍を去って反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁に就任し、イギリス政府との交渉をはじめとする独立問題に専念します

アウンサン将軍の暗殺

1947年にアウンサンとイギリスのアトリー内閣の間で独立協定に調印、国内の諸勢力の統合を進め、1948年1月、イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成しこの組織が現在の軍事政権下のミャンマー軍へと繋がります。
アウンサンはその直前の1947年12月に、政治的に対立していたグループによって暗殺されてしまいます

このように日本は中国の完全統治と南方進出する足掛かりのためとはいえ、
ミャンマーの独立運動の中心団体を鍛え、武器まで与えて育成しながら、自治政府を形式上に傀儡政権にしてしまい、蔑んでいたことにより反感を買い、最終的にその軍に倒される悲劇の結果となります。
ミャンマー軍に銃を向けられた時の気持ちはいかばかりかと察してあまりあります。

本日はここまでにしたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。

このテーマはかなり重い内容ですがまた次回の記事で会いましょう!
今週も皆さんにとって良い日でありますように!


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