【書評】『学問のすゝめ(筑摩書房)』福沢諭吉
なぜ、かの福澤諭吉は学問を勧めたのか。
例の如く引用を用いながら感想を述べていきます。
「自由とわがままの境目というのは、他人の害となることをするかしないかにある。」
なるほど。
ここ最近ぼくが考えていたことの答が得られた気分です。
つまり
“自由”は節度のあるもの。
“わがまま”はただの自己中心。
このことは奇しくも現代の社会に必要な考えだと思います。
終身雇用が倒れつつあり、YouTuberという職業が生まれて“自由”に生きる気運が高まっているこの世の中で、この2つを履き違えている、もしくは混同している人が多いように思えます。
ぼくも他人事ではありませんが、これからの社会を生き抜くためにこのことはしっかり押さえておくべきことに間違いありません。
「大事なことは、人として当然の感情に基づいて、自分の行動を正しくし、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることだ。」
ここでぼくが注目したのは
「〜人として当然の感情に基づいて、〜」
という部分です。
当書籍は総じてものの合理性を説いているように見えました。
その中でも
このように人間らしく感情を尊重しているというのはとても受け入れ易く、納得のいくことでした。
人間たるもの感情がつきものです。
その感情も、丁寧に扱わないとダメだということです。
「人民がもし暴力的な政治を避けようとするならば、いますぐ学問に志して、自分の才能や人間性を高め、政府と同等の地位にのぼるようにしなければならない。これが、私のすすめる学問の目的である。」
彼が学問を勧めた所以の言葉が出ちゃいましたね。
序盤はひたすらに人民に独立の気概を持つことを叫んでいました。
人民の独立なくして一国の独立はない。
政府に怯えるな、親しく接していけ。
などと。
国の弱体化は国民の弱体化ゆえのもの。
そのための学問だということです。
要するに
学問をし、自ら考えるようになれば豊かになれるということです。(個人も国も)
「世の中の人に先立って、自分自身で事業を興し、国民に手本を示す人物が必要なのだ。」
国民の独立意識が低いことを憂う章での一文です。
これとてもYouTuberぽいなと思いました。
偉大なる書物はいつの時代も筋が通りますね。
「実際に生かせない学問は、学問でないのに等しい。」
この一文からは行動が大事ということがわかります。
インプットで終わりにせず、アウトプットをして初めて学問が生きる。
前田裕二のメモの魔力と同じことを言っています。
「物事のようすを比較して、上を目指し、決して自己満足しないようにすることである。」
知識だけでなく品格も身につけろと説く章の一節。
僕が注目したのは次です。
「こちらの全体と、あちらの全体を並べて、それぞれのいいところと悪いところをあまさず見なくてはならない。」
中でも太字の部分。
良いところだけではなく悪いところも見なければならないと説いています。
たしかに
人の良いところを真似し、自分の良いところを伸ばすというのは重要です。
しかしそれだけでは本当に良くはならないでしょう。
悪いところも見つめることでいいところが生きてくるはずです。
彼はそんなことさえお見通しです。
「人の表情は、家でいえばまず玄関のようなもの。他人と広く交際して、来客を自由に迎えるには、まず玄関を開いて入り口を掃除し、とにかく寄り付きやすいようにすることが緊要である。」
ぼくは人と仲良くなるのに多くの時間を要します。
また最近では同じクラウドファンディングをした友人と比べても、彼のクラファンよりぼくらのクラファンの方が周りに強力してもらえる割り合いが低かったように感じました。
ぼく自身内心ではもっといろんな人と関わりたいと思っています。
しかし思うようにいかず、いつも一人孤立してしまいます。
つまり
こういうことなのだなと思いました。
ぼくの玄関は周りの人にとって入りにくいのでしょう。
自分の玄関を見直す必要があります。
最後には
人間は鬼や蛇ではないのだからハナから傷つけようとして誓いづいてくる人はいないでしょう。だから人とはしっかり付き合おう。
と締め括っていました。
いかにも人間らしいというか、人間だなと思う内容でした。
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