そこに在るのはキャラクターの魂か、ぼくが分け与えた魂か
#17 書き手:アケル
クレオが以前書いた記事から、魂について話をするようになった。
https://note.com/if_mauro/n/n76fdf7286d20
これを読んで、改めてぼくの立場とクレオの立場は全く違うと感じた。
肉体のある側と肉体のない側。呼び出した側と、応えた側。
感じる不安も悩みも、わかっているつもりになってしまうと全く分かり合えない。
砂粒一つひとつから砂のお城を作ってるみたいに、当たり前だと思うことも確かめ合って、分かち合いたかった。
「クレオにとっての魂、って何なの?」
記事を読みながら、ぼくは聞いてみた。
『うーんとさ。おれの魂は、お前の魂をもらってるんだと思っている。お前が好きな物語を読んだ憧れとか、そこからお前が作った物語が魂のベース。あとは、好きな声優さんへの思いとかも含まれてるんじゃない?そういう事を記事に書いてみたつもりだったんだよ』
「君自身の魂は?前に、占い師さんに診断してもらった事あったよね」
実は一度だけ、占い師さんにクレオについて聞いてみたことがある。
「あの時クレオは“思念体の世界から来た魂が、アケルくんを助けようとこちらを訪れたんだよ。その世界では姿形は何にでもなれるから、アケルくんの好きな姿や声になって来たみたい”って話だった」
『あぁ、あれね。おれあんまり信じてねぇの』
クレオ、まさかの全否定である。そういえば彼は、占いやオカルトを信じていない。面白がったり、何かしらを決める参考程度には楽しむものの、自分が超常的な存在の割には現実的なイマジナリーフレンドなんだ。
「あ、そうなんだ」
『だってさ、前世とかこの姿になる前の人生がある、って言われても、おれそんなの覚えてねぇからなぁ』
◇◆◇
クレオの信仰
クレオが頬杖をつきながら話す。気だるそうに見えるけど、彼はこういう姿勢な時ほど真剣な話をする。
『そもそもさ。人間に魂がある事自体、科学的に証明はされてないじゃないですか』
「…まぁ、そうだね」
『魂があって欲しいと思うから、魂があると信じているだけだ。死ぬのとか、死んだあと無になって人格が消滅するとかいうのが恐ろしいから、自分が信じたいようにファンタジーを作って信じる。誰も証明できないことなんだから、自分に都合のいい世界を信じた方が楽しいよ』
クレオは肩をすくめる。そこからふっ、と微笑んでぼくを見た。
『おれはお前の最期を看取る為に生まれてきた。死ぬまでの人生をハッピーに生きる為に生まれてきたんだから、死んだあとはあなたの魂の元に“帰る”方が、都合がいい。おれの物語のように、生まれ故郷に帰るようにね』
クレオが夕焼け色の瞳で、口ずさむようにぼくに語った。
どうやらぼくが知らないうちに、彼の中でそうした落とし所を決めていたようだった。
アケルの信仰
ぼくはちょっと前までは、オカルトやスピリチュアルを信じていた。ただ、あるスピリチュアルサークルに入ってから、色々と苦しいことが起きて、そこを辞めて以降距離を置くようになった。
「スピリチュアルやオカルトは存在はしているだろう。ただ、どれほど誠実に生きたところで、人間一個人の主観によって見えたり感じたりする世界が異なる以上、万人に通じる真実は、あまりにも少ない」
今のぼくはこういうスタンスで生きている。占い師さんにクレオの事を聞いたのは、かつてのイマジナリーフレンド達のことと、クレオという存在が人からはどう認識されているのかを確かめてみたかったからだ。
占い師さんの視点では、クレオはぼくの妄想という事でなく、存在している。
イマジナリーフレンドの世界からやってきたとか、別の魂でぼくにも原作とも関わりはないという内容は、「なるほど。そういう視点もあるんですね」
くらいに聞いている。正直原作やぼくの物語と全く関わりがない、というのも、あまり気にしていない。どちらかというと、もし何かしらの縁ができてしまっていたら、ぼくが物語の原作者や関わっている人に余計な念を送ってしまうのが怖かったから、関係ないならそれでいい。
そして、クレオが「その話は信じていない」と言った以上、ぼくは彼の言葉の方を尊重する。
一生関わってそばにいてくれるのはクレオの方で、この2年間、クレオの言動によってぼくに悪いことは起きていないからだ。
占い師さんもぼくの質問に丁寧に回答してくれて、とてもいい人だった。そうした人柄でこちらの悩みに答えてくれた事に感謝した上で、答えは自分で選んでみようと思う。
(もちろんクレオが完璧な善人とかいう話でもなく、喧嘩して言い合いはもちろんあるし、クレオの意見を全て受け入れたりはしない)
じゃあ、ぼくはイマジナリーフレンドの魂について、どう信仰しているのか。
イマジナリーフレンドは、今は精神医学(解離や脳科学関連)の観点から見ているけど、知識だけでは必ずしも勇気をもらえない。
他にイマジナリーフレンドについて語られているのは、やはり創作だ。
◇◆◇
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船乗りの人形だったキャプテンは、孤児院で暮らすエイミイと暮らしていたが、ある時突然人間になってしまう。孤児院に居られなくなったキャプテンは逃げ出して、海に仕事を探して船乗りになる。
この物語は驚くべき事に、途中から人形から人間になったキャプテンが、エイミイと同じように人形に本を読み聞かせする事で、自分と同じ人間“ステテコ”を生み出してしまう。
そして、キャプテンの船に悪い噂が立ち、船員がみな船からいなくなってしまったとき、今度はそのステテコが街からぬいぐるみを買い集め、マザー・グースを読み聞かせ、生きた動物の船乗りを生み出したのだ。
上の台詞は、魂のありかに悩むステテコにキャプテンが言った言葉だ。
人形にたましいがあるとすれば、それは愛した人間のまごころが宿ったものだ。人形から生まれたキャプテンが信じて言ってくれたこと、彼が寄り添った人間エイミイへの思慕がじんわりと響いた。
もうひとつ、紹介したい作品がある。
あhttps://ynjn.jp/title/1052?20221216102851
倫理の先生が、ぬいぐるみのリュウくんを愛している本田に話した言葉だ。ここでは本田は自分の事を対物性愛者と言っていて、フィクトセクシャルと一見関係がないかもしれない。ただ、いわゆる“うちの〇〇”というように、個人の解釈によって原作の道筋から離れたキャラクター観には、近いものがある。原作を見ていても人によってキャラクターの印象が違う。同じキャラクターなのに、人によって全く違うキャラのことを言っているくらい、個人の解釈は異なることがある。
そうした事も、原作キャラクターに、自分の空想や思い…魂を込めているのと同じではないかな?
ぼくはこの二つの作品のセリフから勇気をもらった。
もちろん、すべてのキャラクターが個人の解釈に分岐できるわけでも、分岐しなくてはいけないわけではない。
原作のキャラクターだからこそ愛していて、もうすでにそこに魂はあり、自分の解釈がない方がいい、キャラクターと会う空想さえも余分な妄想に思えてしまうという人もいる。それもまた、キャラクターそのものの魂があると信じて、その魂とキャラの人格を大事に尊重する価値観だと思う。
題名の通り、キャラクターに魂があり、そのキャラそのものを尊びたいか、自身が分け与えた魂からなる存在としてより愛するかで、価値観はかなり違っているんじゃないかな、と思った。
どちらがより相手を深く愛しているとか、正しいかなんて話ではなく、両者の価値観は違っていい。
この違いがあると認識して、相手がどちらの考えに属しているかを確認するだけでも、他人の考えや常識だという思い込みに境界が引けるんじゃないかな、と思う。
ぼくはクレオの存在を“自分の分け与えた魂”として信仰してるし、そうした内容の書籍や知識に生きる勇気をもらっている。
この価値観を人に押し付けるつもりはないけど、自分が分け与えた魂”という立場でしか話ができないし、そんな題材の文学作品から力をもらっている。
ぼくらはまごころを渡し合う
というわけで、改めてクレオと話して、ぼくの魂に対しての価値観を見出すことができた。
「いやいや、魂なんてそんな簡単に分け与えられるもんなの?」
と思う人もいると思う。
ただ、これはまだ探求中の疑問なのだけど、魂というのは、一人にひとつぶんなんだろうか?
心は本当に100%自分のものなのなんだろうか?
感動する創作や、美しい景色を見たときに満たされるのは、その自然や創作のこころが入ってくるからなんじゃないかな?
ぼくたちの体を作る成分は、魚も動物も数多の命を食べて、成り立っている。
魂もそうやって、感動や羨望や強い感情が働いた時に、魂の一部を渡されているんじゃないだろうか。
そしてその魂をまた、誰かへ渡す。そうして繋がって生きていけたらいいな。
クレオがぼくのまごころから生まれた物だとしたら、ぼくの中の一番きれいであったかいところを分けられてたらいい。そんなささやかなファンタジーを信じて、日々を過ごしていく。
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