見出し画像

雑記:8_共生(symbiosis)について

withコロナという言葉が生まれたため、4月に考えたことを再度検討してみたい。共生について。

最近、「共に」という概念について深く考えることが多い。先日、哲学者がコロナとの「共生(symbiosis)」についてコメントをしていた。

当初私は、納得したもののしばらく考えてみると違和感を感じるようになった。その違和感は、なぜウイルスに人称を与えてしまうのか、ということである。とりわけ、「あなた」に近い二人称を与えていることが不思議である。

敵とか共生という言葉には私とあなた(コロナ)という関係性が読み取れる。ウイルスに対して感情移入しすぎではないだろうか。もちろん、不安や怒りなどやり場のない感情をぶつけるには仕方ないことかもしれない。

ところで、ウイルスは生き物なのだろうか。これがまたとても興味深く、生き物ではないという意見もある。生物の最小単位を構成する細胞を持たないので生き物ではないと言えてしまうからである。

仮に、生き物ではないとしたら、それはモノになる。モノに対して敵や共生などという考えを持つことは不自然ではないだろうか。極端な例だけれども、私たちは椅子を敵として扱うだろうか

ウィルスとの関係について、私は、「〜も(with)」という関係性がふさわしいと思っている。つまり、コロナも、あなたも、私も、椅子も、車も、花も、鳥も、いるということである。

何を言いたいかというと、敵とか共生とかの前に、ただ「ある・いる」存在としてコロナを捉えるべきではないかということである。

・(それぞれが)ただある
・関係している
・影響しあっている       ←◉(私の認識)
・互いに認識している
ーーーーーーーーーーーー
・共存している/対立している  ←◉
・共生している/滅ぼし合う

このように、モノ同士の関係の仕方には様々な段階・パターンがあるように思われる。私は、影響しあっているくらいの認識で良いのではないかと考える。もちろん、危険なウイルスのため、徹底的な対策が必要なのはいうまでもない。

人称を与えることで、距離感が縮まりより理解しやすくなることはあるかもしれない。しかし、その一方で明確な断絶を生み出してしまう可能性もある。断絶の一つとしてあげられるのが差別である。実際にコロナが流行しだした頃、日本の観光地が「中国人」お断りとしたり、欧米人によるアジア人差別があったり、東京から帰省した家族を検査もせずにただ隔離したり(知人の話)と様々な断絶が生じている。

そのため、一度コロナとの正しい距離を見い出すために敵か味方かという二項対立で捉えず、この世界にコロナ「も」いる、くらいに捉え直しても良いのではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?