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自ら(みずから)の魔法

今朝、駅から学校へ続くま〜っすぐの道を歩いているときに、「お!」と心の動く瞬間がありました。

先日、学校のお祭りに遊びに来てくださった男性が、向こうから歩いてきたのです。

「いつも駅や道でこちらの学校の子どもたちを見かけるので、一体どんな(へんてこりんな)ところなんだろう?と気になって見に来ました」

遊びに来た経緯をこう語ってくださっていました。普段は駄菓子屋&塾を運営されているとのこと。

お名前もばっちり覚えていたので、見つけた瞬間におーい!って手を振って話しかけようと思ったのですが・・・

お嫁さんとおぼしき方と熱心にしゃべりながら歩いていらして、こちらも子どもたちとしゃべっていたので、「まぁいいか」とそのまま通りすぎてしまいました。

強く後悔するほどでもないのですが、あ〜、話しかけてみてもよかったな。面白くなったかもな。って、今では思います。

というのも最近、「覚えているよ」「あなたは大切だよ」みたいなものが、ことばではないものでふいに伝わってくる瞬間が好きなんです。

ちゃんと名前を呼んでもらえるとか、どう思います?って意見を求められるとか。ともすると素通りしてしまいそうなことですが、それって実は、”愛”なしにはあり得ないことなんだよね〜って気づかされることが、なんだかとても多いのです。愛の反対は無関心とは、よく言ったものですね。

この間も、そろそろ3年の付き合いになる14歳男子が、はじめて誕生日プレゼントをくれました。これまで、プレゼントとか気にするような子じゃなかったのに!

ガラスのペンダントトップ

別に、わたしのことが大好きとか、そういう強い想いからではないんです。「毎日顔を合わせているあのセンセ〜が誕生日だ」×「ちょうど手元にいいモンあるからあげよ〜」その程度だと思います。

それでも、もらった側からするととってもうれしい。想いはちょっとでも、そこにアクションが加わるだけで、こんなにも人を幸せにできる!想いが細やかであるほど、もらった本人どころか、その周りにいる人までうれしくなってしまいますね。

こんなにもうれしいのは、”贈る”という行為に自らなもの(自発的なもの)がたくさん含まれているからではないでしょうか。

”贈り物”は、本来、強要したり、奪い取ったりするものではありません。もらう側は、「どうぞ」ってしてもらってはじめて受け取ることができるので、贈る側は、「どうぞ」って相手に橋をかけにいくような仕草を取らなくてはなりません。

そういう意味では、贈るって、実はとても勇気のいることですね。せっかく準備したプレゼントを、恥ずかしくてなかなか渡せない一年生などをみて、さらにそれを実感しました。

贈るの瞬発力を鍛えたい。さくっと橋をかけられる身体になりたい。まずは、あいさつからだな〜。

今回、それが自らのものであれば、想いも労力も”ちょっと”でいいんだってわかったのは、大きな収穫でした。

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