伝わることばを探すバランス感覚。それを手仕事で。
昨日は、手仕事の授業でした。今学期はじまって二回目の授業です。
担当しているのは、小学4・6年生の合同クラス。手仕事に慣れていない編入生も結構いて、手とり足とりのてんやわんやな雰囲気です。軌道に乗りはじめるのは、まだまだ先でしょうね〜。
担任してない子に手仕事を教えるのは初めてなので(しかも高学年に)、いろんな意味で、まだアウェイ感があります。自分の様式を出すことに謎の遠慮も出てきたりしますが、こんな時期だからこそ、思い切ってトライするべきですね。
来週こそは!
身近に感じていただきく
手仕事教育の原点を確認するため、海外のテキストをちびちびと読み進めています。
参考にしているのはこちら
翻訳が目的ではないので、読んで感じたことを自分のことばでまとめています。
◆前回の記事・・・手仕事における「色」の話
◆前々回の記事・・・手仕事が呼び醒ますもの
今回の話はなかなか壮大でした。訳すのが難しいっていうよりは、このnoteでの伝え方が難しかったです。情報の横流しは簡単ですが、それだとシュタイナー教育Loveな人にしか届かないので・・・個人的な問いから出発することで、できるだけ身近に感じていただけるよう心がけてみました。
「生活に必要なもの」をつくるのはなぜか?
手仕事教育には、「実用的なものを、芸術的な方法で」というコンセプトがあります。
「芸術的な方法で」というのは教育全般に言えることなので、まぁそうだろなと思うのですが(後述参照)
「実用的なもの」にこだわるのはどうしてでしょうか。その意味をもう少し深掘りしておきたいと思いました。今回読んだチャプターⅡには、まさにそのようなことが書かれています。
「美」に導かれたい時期
手仕事教育を考える前に、そもそも教育全般はどのような方向性を持っているでしょうか。以下、シュタイナーが子どもの教育について語っていることを、簡単に確認します。
つまり、わたしが関わっている子どもたちとの授業は、「美しくあれ〜」ということです。「とりあえず技術を身につけさせましたー」「使えるものをつくりましたー」では、いまひとつなのです。←いまここ
美にストイックすぎる問題
こうやって書くと、シュタイナー教育の人たちはさぞ「美」にストイックなのだろうと思われるかもしれません。(わたしはそういう偏見を持っていました。笑)(そして、そう期待されるのは辛い)
何かを盲目的に信じるって、ちょっと危うい感じがしますよね。美でも宗教でもなんでも。
美しさを求めることは大切。自分の世界を持っていることも大切。でも、それが独りよがりなものであったら?この社会で生きていくには、微妙なあり方なのかもしれません。
どんなに世の中がくだらないと感じても、わたしたちはその社会の一員です。社会のお世話になりつつ、自分もその社会の一員として少なからず貢献することが求められます。そのとき、鍵になるのは、違う立場の人にも通じることば、目の前の人とつながる道を選ぶことではないでしょうか。
役に立つ・通じる・届くものであると同時に、美しく・自分らしく・やさしくあることも忘れない。この両立する感覚を育むのが、手仕事です。意外や意外、手仕事なのです。
平和的な解決を生み出す技量へ
ここで、シュタイナーが「美的教育」について語っていることを見てみましょう。
遊びから仕事へ至る前に、美を経由する必要性。おもしろいですね。
手仕事の授業では、「生活に必要なもの」をつくります。目の前の具体的なニーズに応えた経験、美しい方法で人の助けになる経験を、こつこつ貯えていきます。
人の助けになる喜びが、やがて「目の前の要求に応えたい」「この問題にわたしがギフトできるものはなに?」ーー聴く耳を持ち、課題と自分との間につながりを見出す力へ。
子ども時代の手仕事の経験が、平和的に社会問題を解決する技量へと成り代わるなんて、なかなか壮大な話ですね。これが本当であってほしいです。
あとがき☆彡
「人の助けになること」を「美しいやり方で」
この記事が、そのままそれを体現したものになるように心がけてみました。(できましたかね?)
知っていることとできることは違う。習うことと発揮することも、また違う。だから、とにかくやってみようと思いました。
隙あらば素振り。わたしは日々、こんな具合に格闘していますよ〜ということが、少しでも伝わっていたら幸いです。
サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡