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子どもが産まれた喜びもやがて忘れてしまう

2019年9月、おそらくはありふれた辛苦のあとに、待望の第一子が産まれました。
それから戦々恐々とした6ヶ月が矢のように過ぎ、存在が当たり前になった今、慌ただしさにただ泡のように消えていく想いを書き残したい、いつか見返したくなる日がきっと来るだろう、そんな心持ちで綴ることにする。

思い返せば産まれたあの日、それまでの心身ともに疲弊した、世間の逆風を受ける"妊活”や、妻の身代わりになれたらと思うことしか出来ない妊娠中期間を過ぎ、帝王切開のため立ち会えないまま、ようやく手にした瞬間に沸き起こった感情はただただ安堵と、これが…という戸惑い。

人生の超一大イベントにおいて月並みな表現をするならば「実感」がまるで湧いてこない。世の中に実感を実感した人は居ないんだろう。実感の正体はおそらく記憶の反芻にしかないのだ。

それからは右往左往しながら小さな命の器を守ることで精一杯。え、いくらなんでも泣きすぎじゃない? しゃっくり無限にするやん…大人ならやばいってやつだこれ大丈夫か? 黄色い…。ゲップした! など、その場その場の一喜一憂と、日々更新される新しい局面の対応にまるで感情が追いついてこず、命見守りロボでしかなかった。

それにお恥ずかしながら、SIDSノイローゼ気味になって、だめだ、絶対やばい、危なすぎる、平らなところ、平らなところ…、とすっかり平らフェチになって常に目が離せなかったし、今もコロナが怖い。
そんな日々に、ささやかな喜びも都度感じた感情も忘れてしまう。だってそれまで普段の脳容量だって余裕がなかったのに、普段の暮らしに加えいきなり育児分が有無を言わさず重なってくるんだもの。

忘れないよ、なんて後から記憶をなぞり書きするように輪郭を与えているだけ。何もかもおぼろげに霞んでしまう。だから書く。

すぐに反り返るからミルクあげづらいわ、とか、胎児のころからそういえば反り返ってたな、とか、体重全然増えない…ミルク飲まない…寝ない…ネントレが効かない…どうしようと思い悩んだこと、最初は本当に真っ黄色な猿みたいだったけど、親の面影が見えた気がした瞬間のこと、とか。

6ヶ月を迎え、カバー写真のように思慮を伺わせる目つきになった。リアクションが人間を予感させて、コミュニケーションの萌芽が見えた。

あぁ良かった。本当に。思い返せばそれしかない。そして子どもが産まれた喜びはいつか忘れても、きっといつか、子どもがここに一緒に居る喜び、へと変わっていく。その過程を残せたらそれでいい。

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