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善悪という、揺らぎ

「正義の味方」に惹かれたことはない。

周りの子供たちがヒーローものや戦隊ものに熱を上げていた子供時代にすら、白々した眼差しを向けていた。

どことなく、「正義」なんてつくりものだよ、という想いがあったからだろう。

心寄り添わせるのはいつも、「悪者」とされ、退治される側の方だった。

たとえ悪行を働いたのだとしても、何が彼らをそうさせたのか気になった。


最近、気になって見聞きするメディアには共通のテーマがある。

それは「普通って何?」ってこと。

そして、みんなが信じてる「善悪」ってホントに正しいの?ってこと。


古来、「鬼」「鵺」「土蜘蛛」といったあやかしの名で呼ばれたものたちは

「まつろわぬ民」=時の政権からみて異端、脅威とされた異民族

だったという。

政権側と異なる文化、思想を持ち、恭順を示さないものたちは

全て「人外」の名で呼ばれ、討伐の対象となった。

優れた技術や富を持ち、繁栄していればいるほど脅威とみなされ

悲惨な末路を迎えた。


西洋では、教会が認めた「正当な」キリスト教以外はすべて異端とされ

古来から伝わる自然信仰や多神教を奉ずる者は全て迫害の対象だった。

「唯一絶対の神」以外を認めては教会の権威が揺らぐし、人々を支配しずらくなるからだ。


また、「異端」の存在は支配者側にとって非常に都合がいい。

天災や疫病など、ありとあらゆる不都合をすべて彼らのせいにできるから。

罪を着せて、殺してしまえば支配者側のとりあえずの体面は守られる。

不都合が続くようならまた別の誰かのせいにすればいい…。


恐ろしいことに、こんな下種の極みのような行為が、当時は「善」とされた。

そして「悪」とされた側には拷問や処刑などの悲惨な運命しかなかった。

行いの善悪ではなく、支配者側の人間かそうでないかという立場によってのみ、善悪は規定されたとっていい。


そしてこの構図は今もずっと、社会の根底に根好き続けている。

現行の社会にとって「害」もしくは「脅威」であれば、

倫理的な価値観はさておき、「悪」であり

逆に現行の社会秩序の維持に「よい」か「脅威ではない」ことは

「善」とされる。そこにも倫理的な価値観は介在しない。


だとするならば。

「人としてこうありたい」という美意識の中にしか、各々の行動の規範となりえる正義は存在しないのではないだろうか。

社会的な善悪はいつの時代も揺らぎ、移ろう。

それに左右されて下した判断に、果たして後悔せずにいられるだろうか。

難しいと思う。

だとしたら私は、私たちは

それぞれが自分の中にある善悪の基準に従い、悔いなき選択をする以外やりようがないのではないだろうか。


“正義は武器だ。誰かを傷つけることはできても、救うことはできない”

昔とあるアニメできいたこのセリフが、今も耳に焼き付いている。


この世をよりよく生き抜くために。

自身の感性を研ぎ澄まし、美意識を持つ。

其れだけが、道しるべ。

そんな風に、思った。


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