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20年信仰していた自分という宗教から見放されたような、なんとも形容しがたい感覚#就活

6月中旬、私の就職活動は1社の内定を以って終了した。

20年の夢から覚めたような、20年信仰していた自分という宗教から見放されたような、なんとも形容しがたい感覚に、私はずっと包まれている。

前記事に書いた、広告代理店、出版社とは全く異なる業界・職種で来年から働く。

高校時代から夢見た華やかなマスコミ業界とは異なる別業界の一般職だ。語弊の無いように言っておくと、私は内定先を誇りに思っているし、新たな憧れの世界で早く働きたいあまり、その業界に必要な勉強も、頼まれてもないのに3種類も始めた。検定まで申し込んじゃった。

それでもどこか「私の就活なんだったんだ?」から始まる、「私の人生ってここまでなんだったんだ?」「私が認識していた私は間違っていた?」そんな、自分には接点がないと思っていた現実を突きつけられるような、ショックの感覚が離れない。(内定先を誇りに思っているからショックなんて言葉は失礼すぎて使いたく無いけど、それでしか表現できない。)

もしくは、ショックなんていう被害者感情ではなく、私が勝手に自分を信じすぎていただけで、気づこうとしていなかった現実にやっと目を向けられるようになった自業自得の「遅すぎる成長」なのかもしれない。

兎にも角にも、中学生あたり(中学受験の準備から考えると小学4年生から)から思い描いていた自分の未来が、一気に白紙になったという紛れも無い事実だけが私には残っている。

人生ってこういうものなのか。

そんな、「そういうこと言うなよ」と言われそうな言葉が頭に何度も湧き上がる。今までが順風満帆すぎたといえばそれまでである。でも中学受験や大学受験、部活など、自分の力でどうにかできることはどうにかしてきた自分だからこそ、どうにかしきれなかった自分に対する失望がある。

自分の「ブレない芯、信念」と「プライド」を履き違えていたのかもしれない、という気づきがある。

今まで自分が上手にやってきたからこそ、そうでなかった友人知人らが上手くいっていることに嫉妬しているのかもしれない。その人たちに「え、ぬるま湯(私)広告じゃないの?!」と言われ、思われることに対して自分の答えを完全に作りきれていないのかもしれない。

新しい次の肩書きが計画どおりのものでなかったから、プライドと信念を履き違えた自分の愚かさだけが残って、就職活動を終えた自分が、対して綺麗でもない裸を晒すしかないような恥ずかしさ。情けなさ。

自分が自信満々に何年も身につけていた鎧やアクセサリーが、実は良いと思っていたのは私だけで周りは最初から私にお世辞でおだててくれているだけだったんじゃないか、自分が過大評価しているだけで大して自慢できるものでは無かったのかと、自分を客観視できているつもりでまるでできていなかった自分に対する絶望。羞恥心。

これらのあげたらキリのないほんの少しずつだけ角度を変えた感情が私を妙な感覚となって支配しているのだろう。似ているけどでも異なるこれらの感情が、ベン図のように少しずつ共有しながらもまた全く別の感情を連れてくる。だからどんどんややこしくなる。私の感情はいつもこうだ。

自分のスキルを伸ばす、努力する、やらなきゃいけないことはたくさんあるが、私がまずすべきことは、自分が見えていなかった自分の部分とその感情を明確に言葉に表していくことなのかもしれない。ややこしくて、周りは誰もそんなことをしていなくて、それならその行為は必要のないような気もしてくるけど、私はそれをしないと自分を見つけられない。

やらないといけないから私は文章を書くしかない。文章を書くこと一つとっても、文章を書くことが得意だから書くではなく、書かないと自分が保てないから書く。その矢印の方向にさえ「これでも良いんだよね・・・?」と思ってしまうわたしは本当に弱い。

20年信仰していた自分という宗教から見放されたような、なんとも形容しがたい感覚。

私はこの感覚に素直になって、今からでも遅くない成長を過去の自分を報いていかなきゃならない。

今日の自分は、過去の自分も未来の自分をも背負っている。

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