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SUPER★DRAGON 松村和哉くんを好きな理由

松村和哉くん、お誕生日おめでとうございます。

20歳という節目の年をリアルタイムで観測できていることをとても嬉しく思います。年に一度の記念すべき誕生日に寄せるものとして合っているかどうかは正直分からないけど、今日は私にとっての彼の好きなところを書き並べてみます。

私が彼へ持つ感情は「好き」だなんて言葉では明らかに間に合っていないのですが、SUPER★DRAGON・松村和哉というアイドルのファンとして私は好き以外の言葉を贈ることもできませんので、せめてその好きの解像度をできる限り上げたいと思います。

私が彼を好きになった大きな要因となっているものはキラリなので有料コンテンツの内容にたくさん触れることとなってしまいますが、彼の言動をコピペや転載は決してしないことに免じて目を瞑って頂ければ幸いです。



人として

容姿について

なんてったって顔が好きです。私が初めて和哉くんの顔を見たのは2020年に放送されたハイローのスピンオフドラマ『6 from HiGH&LOW THE WORST』なのですが、鋭い顔をした子だなという印象を受けたのを今でも覚えています。目鼻立ちなどの顔のパーツ自体も、口角の上がり方も、眼光も、顔の全てに柔らかい要素が無く、例えるなら傘の先端がこちらに向いているような危険性を孕んだ鋭さがあると感じていました。放送時彼は16歳。春のような蒼さと大人っぽい色気が共存していて何顔とも言い難い。色で言えば紫に見えていたなと思います。それから3年以上経った今、アイドルとして好きになるなんてね。人生何があるか分からない。

好きになった今でも醬油顔/塩顔とか犬顔/猫顔とか、そういう分類はできないなと思っています。よくアイドルを建国顔/傾国顔と言うけど、彼は物語の途中で幹部に入ってくるキャラで、100%信用はできないながらめちゃくちゃ仕事ができるから皆が気を抜き始めたタイミングで情報と手柄だけ奪って勝ち逃げする悪党顔かな、と思っています(なんて?)。

初めて見た時は前述したように柔らかい要素が無いと思っていましたが、好きになってから特典会などで近くで顔を見るようになって印象が変わっているのも興味深いところです。和哉くんの顔って、近くで見ると思っていたより「可愛い」が強い。ちゅるん、きゅるん、って感じ。あの真ん丸の綺麗な目と視線が交わるといつも「うわあ、かわいい…」と内心思っています。顔の造形自体はたしかに大人っぽいけどそこに豊かで無邪気で素直な表情が乗って、時にあざとさすらあるところも本当にかわいいなと思います。

ごちゃごちゃ言ったけど、かわいくてかっこよくて綺麗な和哉くんの顔が大好きです。



人の容姿の中でも特に体型については批判は勿論、褒めることもナンセンスだと分かってはいるのですが、好きなものはどうしたって好きなので言葉に残しておきたい。Wikipediaによれば身長は172cm。筋トレを習慣とする彼はかっこよく筋肉を付けながらも着られる服を選んでしまうくらいに大きくなるわけでもなく、「程よい」という言葉がよく似合うと思います。

ジャストサイズの服を着ればキュッと締まって可愛いし、

231124楽ちゃんのインスタ投稿より
240129 YouTube『SUPER★DRAGON 志村玲於 お誕生日 スペシャル生配信!』より


オーバーサイズの服を着ればちゃんとオーバーサイズになってこれまた可愛い。

240316 和哉くんのインスタストーリーより


230125 YouTube『スパドラTV #108 ゲームで遊ぼうの会 Vol.2 part.1【前編】SUPER★DRAGON TV』より

まあ体型に関してはその人のことが好きな要素になっても要因にはならないので結構どうでもいいですね。次次!




嘘の無い誠実さ

いきなり隙自語ですが、私は最近の好きな言葉及び人生のテーマが「誠実」でして、これは他人に対しても勿論なのですがそれ以上に自分に対してのこと。死ぬまで一緒に過ごすのは結局自分自身なので、自分との約束を破らないことや自分が100%納得できる行動を選ぶことが一番大切なのかもしれないということに気付いて最近は”他人にどう受け取られようと自分自身に誠実であればそれでいい”というような考えを行動の取捨選択の真ん中に置いています。

この点からして和哉くんは本当に自分自身に誠実な人だと思います。絶対に自分に嘘をつかない。デビュー曲「New Rise」の〈真っ赤な嘘に用ない〉は嘘でコーティングして近寄ってくる他人への言葉であると同時に自戒でもあるんじゃないかなと勝手に考えていて、999のビハインド動画で「言わされたと思ったら言わずに生きていきたい」と話してくれたように、自分がやりたくないことは絶対にしない人だと思います。


有言実行の鬼だなとも思うし、私達の前で何か夢を語る時には具体的なビジョンを見据えていて既に水面下で動き出していることが多い気もします。その時点での自分の気持ちに嘘をつかないというのもそうだし、過去の自分の発言をひとつひとつ形にしていく生き様にも惚れ惚れします。きっと自分に嘘をつかない人は他人にも嘘をつかないから、私は和哉くんの発言やリリックの全てを「彼が言うならそうなんだろう」と純粋に信じることができるしそのまま影響されることができる。彼の言葉、行動、ひと、全てに対する誠実さが好きです。



柔軟でありながら節操があるところ

功名心より大切な人たちへの愛を大切に。」「本当に必要で尊いものを見失わないように。」「2023年も愛を忘れずに。大切な感覚が麻痺しないように。」「欲や功名心で、愛情や大切な感覚を失わないように。

合法の参考資料を載せたかったのですべてインスタのテキストから引用しましたが、誕生日やグループの記念日など節目のタイミングで毎年彼の変わらない核の部分を示してくれるところがすごく好きです。私はアイドルに対して不変は全く求めていないのですが、他者(の価値観)への受容力が高いように見える和哉くんが自分の真ん中を絶対に護り抜いていて、それを忘れないように文字に起こしているのがすごく素敵だなと思います。

その反面、何かを拒むことがあまり無さそうだなとも思っていて。例えば配信のコメントに対して”自分はこう思うけどね”と意見することはあっても丸ごと否定することは少ない気がします。交友関係(=外界への関わり)も私には未知数な程に広いので影響を受ける物事も多いだろうし、良い意味で頑固ではないところも彼の好きなところのひとつです。



偏見を持たないところ

誰かと接する時、その人の性別や年齢がどうだとか、タトゥーやピアスがどうだとか、恋愛をするとかしないとか、そんな全てを「それが何?」とでも言ってのけるような、属性や見た目で人を判断しないところがたまらなく好きです。涙が出る程に、好きです。

日常で生きづらさを感じた時にこの人だけはいつも私にとっての味方でいてくれるんだろうなという勝手な安心感すら感じていた。

私が沼堕ちnoteに書いたこの一節。それから少し時間が経ちましたがこの気持ちは変わらないどころかどんどん増しています。特に恋愛に関して、まだまだ恋愛至上主義を無意識に当たり前とする人が少なくないこの世の中で、誰かの悪気の無い一言を聞いてしょっちゅう居場所が無いと感じてはそのたび律儀に息を詰まらせている時、いつも彼の発言が酸素になってくれます。

恋愛に限らず、多数派を執拗に否定するわけでもなく、その上で少数派を「別にいいよね、そっちでも」くらいの軽快さで肯定してくれる彼の言葉に何度心を掬い上げられたか分かりません。彼の偏見の無いものの見方と例外を汲み取る視野の広さが心底大好きです。



想像力に基づいた思いやり

視野の広さと繋がるところではあるのですが、和哉くんの他人を思いやれる想像力のあるところが大好きです。3月6日、平日だったメジャーデビュー当日のリリースイベントにてジャンくんの「仕事休んで来た人?」という問いかけに盛り上がった時、和哉くんが「今仕事頑張ってる人も最高!」というようなことを言ったのを聴いて、ああ、私はこの人のこういうところが好きなんだとハッとしたことをよく覚えています。

アイドルオタクにとって私生活を投げ打って現場に来ることは美徳とされがちで、きっと当日に行かない選択したことを負い目に感じていた人もいるのではないかと思います。そんな中で和哉くんがその場にいない人への言葉をマイクに乗せて放ったのはすごくすごく意味のあることだったのではないでしょうか。

”優しさ”とは相手の気持ちを考えたり自分が見えている範囲から少し視野を広げるような”想像力”であると私は考えていて、この点和哉くんは本当に優しい人だと思います。そしてこの想像力を作り出したのはきっと(本や音楽など作品内のものでも生身の人間のものでも)たくさんの感情を受け止めて向き合ってきたからなのかなとも思って、その膨大な経験値も尊敬しています。外野から見てイカつくて怖いイメージが先行しがちな人だけど(私も最初はそう思っていた)、誰よりも優しいところが大好きです。



達観した考えと知見の深さ

万全に大人になる準備をして大人になった(20歳という世間一般的に大人とされる年齢になった)人だと思います。もっと言えば、大人になるべくしてなった人だと思います。沼堕ちnoteで烏滸がましくも和哉くんと私は似ていると書いたのですが、当然違いを感じる時もあって、そういう時はだいたい私がただの意地っ張りで和哉くんが達観した考えを持っていることが多いです。和哉くんのほうが広くて深い。私の好きな松村和哉像は私のこの小さな胸の中にたしかに仕舞われているはずなのに彼の哲学はどこまでも広がっているので、そうなると、地球が宇宙を内包しているというような矛盾に陥ることがあります。いっそのこと私の心や頭の中でビッグバンでも起こしてほしいかも。

20歳になるにあたって、「20歳になったらより社会的に大人として見られるシチュエーションも増えるので、ちゃんと大人の振る舞いをしたいですし、10代なのにすごいねって言われることがなくなるのは嬉しいです。」(雑誌『SODA』3月号にて)と話していた和哉くん。若さを付加価値にも色眼鏡にもされたくないというのはキラリでも度々話していたことで、大人と関わる場面が一般的な十代より多かったであろう彼にとって、若さというのは武器より枷だったのだろうかと考えたりもします。年齢のせいで、悔しい/やるせない/許せない思いをしてきたことがどれだけあるのだろうかと。そんな中でやっと20歳という大人に分類される年齢に到達して、年齢が中身に追いついた感覚が彼自身にもあるのではないかとも思います。

私も去年20歳になって、もう若さに逃げられない(例えば年齢を聞かれた時に20歳だと言ったら「えー!若いんだね!」とはもうならないし専門や短大に行った同級生も今年から社会に出ているのであって「若いのに働いて偉い」という自己肯定がもうできない)と悶々と考えていた時に読んだのがこのインタビューで、また彼との違いにひりひりするような摩擦を感じたのでした。


彼に対して「人生何周目?」という言葉は絶対に使いたくないと思います。冗談や比喩表現だと分かっていても、それでも使いたくない。誰に対してもですが。彼の持つ広い視野と深い知見は決して天賦のものでは無いはず。神様がたまたま彼に手を施したから初期設定として備わっていたものではなくて、彼の20年分の行動によって創り上げられたものなのだと思います。そんな財産をもったいぶらず共有してくれるところも尊敬しています。きっと和哉くんが曲を書くのはそういうことだと思うから。一周目の人生で掴み取ったものを両手いっぱいに抱えて生きながら、時々それをこちらが拾えるように落としてくれるところが大好きです。




アイドルとして

彼が発信するもの

グループの楽曲制作にも関わる和哉くん。曲の詞から彼の哲学の片鱗を感じ取れるのは本当に有難いことだと思っています。改めていつもありがとう。彼が発信するものには絶対に優しさがあるところが好きです。

最近、音楽なら ヒップホップなら 何を言ってもいいの?ってことが割とあって(それがヒップホップだと言うのなら私は客ではなかったというだけなのですが)音楽は私にとっての救いなのに救いを求めた先で勝手に傷ついたりもやもやしたりということもザラにあって、そんなのはずるいだろうと度々思うのですが、彼は絶対に誰も傷つけない音楽を展開してくれるところに絶大な信頼を置いています。攻めたことを書いていても絶対的な理不尽以外を必要以上に攻撃したり否定したりすることは無いのが和哉くんのリリックの好きなところのひとつ。改めていつもありがとう。


好きになってすぐの頃に見たPersonaの円盤で「音楽でみんなを肯定したい」と話しているのを見て、どうしようもなくなって涙が出たことをよく覚えています。〈どうなるかとか誰も知らないから明るい未来をイメージ〉のおかげで私は自分でも驚くほど楽観的に生きるようになった。〈全て成功の断片さ〉のおかげで今までしてきた選択を、その選択をしてきた自分自身を、信じてあげることができた。〈誰が為の言葉を紡ぐべきか思案を巡らせ己の価値を測る〉を聴くと私ももっと言葉と読み手に対して誠実でなければと背筋が伸びる。

不特定多数へ向けて書いた言葉が実際にひとりの人間の心を救っていること、分かってるのかな。和哉くんの言葉が私のお守りです。改めていつもありがとう。


歌詞の意味を考えてみてほしいと言いながら絶対に答えを教えてはくれないところは少しもどかしく思う時もありますが、自分が魂を込めて書いた歌詞についてこちらに解釈の自由を許してくれるのは一種の優しさなのかもしれないと最近は考えています。和哉くんが込めた意味を知ってしまったらきっと私はもうその言葉に私自身を投影することはできなくなるから。勿論写実的な歌詞にたまたま私の経験がリンクして共感できることもありますが、抽象的な歌詞を抽象的なままにしておいてくれることによって私はその広義な抽象に私なりの具体を充てて私の曲として聴くことができるから。こういう点から見ても彼の音楽は優しくて、私にとって絆創膏でありガソリンであり、海に溺れそうになった時に投げ込まれた浮き輪みたいなものでもあります。

きっと胸の真ん中の深いところにある蓋を少しずらして綴ったのであろうブログでは、まだ膿んでいる傷口を見せたくせにこちらが手を伸ばそうとした瞬間に作品の中に逃げていくようなずるさがある。「まあ残りはいつか歌詞にしますわ」「ここから先のストーリーは歌にするので、曲の中でまた会いましょう。」と言うのなら、私はその真意を理解する為に彼の言葉を噛んでいたいです。


和哉くんの辞書も大好き。彼が時間をかけて練りに練ったのであろうリリックにも、深く考えずに書いたのであろうブログやSNSの投稿にも、同じように救われてどうしようもなく涙が出ることがあります。きっと彼から出てきた言葉自体やそれに込められた意味といった産物より(勿論それもそうだけど)、彼の思考回路すなわち言葉を取り出す過程そのものに惹かれているのだろうと思います。

ジャリ銭とか現ナマとか、そういう俗っぽい言葉がパッと出てくるところも好き。あ、俗っぽいと言えば、言葉からは少し逸れるけど、言い間違えたり噛んだりした時に自分で頬をぺちんと叩くというアニメやドラマでしか見たことの無かった仕草を実際にするところも好きです。それ現実でやる人いるんだ、と思って230529のキラリ配信でやっていたシーンを画録で残してある。めちゃかわいい。


冒頭に書いた「好き以外の言葉を贈ることができない」というのは本当のことで、例えばこの間のリリースイベントを一日だけ和哉くんが喉の不調を理由に欠席した時、私は何と言葉を紡いだらいいものか頭を悩ませていました。「無理しないでね」これは私がアイドルに送りたくない言葉のひとつ。アイドルという職業自体が基本多少なりとも無理をするようなものであるという大前提に加え、たとえ無理をしていたとしても本人が出ると腹を括ったならばこちらは彼/彼女のプロ根性にリスペクトを込めて全力で楽しむのみだからです。そして和哉くんに至ってはイベントに出るか出ないかの自己判断ができないような人間ではないと思うし、出ないと判断したなら私が「無理をするな」なんて言わなくても自愛するのだろうと思うから(これは4月12日のSMASH BEATにて和哉くんが半分ステージを降りたと聞いて確信に変わりました)。

前の章で書いた”彼のほうが達観した考えを持っている”というところにも繋がりますが、私から和哉くんに与えられるものが無いというのはこの時に限らずいつも思っていること。何に関しても「私が言うまでもない」と思ってしまうのが彼を応援する上で難しく感じるところですが、それでも愛情だけはいくらあっても困るものでは無いと思うので好きという気持ちは精一杯伝えているつもりです。


話が若干逸れてしまいましたが、強い優しさが籠った彼の創作物が大好きです。





発言のバランス力

私が度々感動している、彼の自由な発言とアイドル的発言のバランス力について。エビダンを好きになってから驚いていることのひとつが、タレントが持つ言論の自由です。本人達がイベントでの不正行為やマナーなどについて直接言及したりするのは今まで好きになった界隈ではありえないことだったので、未だに見る/聞く度驚いています。中でも和哉くんはファンに対して思ったことを結構言う人だなと思っていて、キラリで居候(和哉くんのキラリ会員の愛称)を咎める場面も度々ある。

アイドルとはいえ”自分がダメだと思ったことはダメだと伝えていい”という意識を持っていることと自分で自分を守る彼の力に私はかなり安心/感心しているのですが、さらに感動すらしているのがその後のバランスの取り方。具体例を出さないとなかなか伝わりにくいと思うのでひとつだけキラリの配信での発言をざっくりと書くことを許して貰いたいです。

230622の配信でお風呂に入るからそろそろお暇に…という流れになった時に来た”一緒に入ろう”という旨のコメントに対して、それはセクハラだよと諭した後に「「「まあでも43°でいいならいいよ」」」というようなことを続けるんです。たぶんこのシーンを初めて見た時は悲鳴を上げていたと思います。勿論一緒に入ってもいいよという内容自体にキャー!と興奮しているわけではなく、ツンデレなどという言葉では安すぎる程に絶妙なバランス感覚にスタンディングオベーションでした。こういうことを言うんですよね、彼は。意図しているのかしていないのか分からないけど(どちらでも凄い)、どちらかに傾きそうになった時に即座にバランスを取る力に私はずっとメロメロになっています。


アイドルという肩書きを持つ以上、現実的なことばかり言っていては興醒めしてしまうファンもきっといると思います。そんな中でこうして等身大の成人男性と非現実的なアイドルの狭間を上手く縫っていく彼の発言力はある種”天性のアイドル”なのではないでしょうか。


特典会等でファンに結婚を申し込まれると断るタイプかと思いきや「おー、しよっか」くらいの返しをするところとか、彼はそれがアイドル的発言だと認識しているのか分からないけど急に甘いことを言うような不思議さにもゾッコンになっています。



ステージでの振る舞い

昨年末の999の時、ステージの和哉くんを見て漠然と”自由だなあ”と思ったことをよく覚えています。軽い身のこなしのダンスも、気まぐれにリズムを刻むラップも、自由自在に音を楽しむ人だと思います。ダンスの上手い/下手はある程度のレベルを超えれば見る側の好みでしかなくなってしまうので褒めるのもナンセンスではあるのですが、彼はダンスが本当に上手くて単純に見ていて楽しいです。あと、キラリに投稿されているレッスン動画などを見てもリズムを遅く取るタイプなのかなと私は感じていて、そんな音をいっぱいに使う余裕も大好き。

色んなところで何度も言っているんだけど、和哉くんのダンスを見ているとダンスって性格出るよなあとしみじみ感じます。体幹が強くて絶対に上半身がブレない反面、枠に囚われない大胆さがあるところは和哉くんの内面を映し出したようだと思います。そして、ダンスが上手いかどうかって結局頭で描いた通りに身体を動かせるか(=考えたことを行動に移せるか)どうかだと思っていて、よく考えよく描きよく行動する和哉くんがダンスが上手いのはそりゃそうだよねとも思います。

ラップをする時のリズムも自由。ラップにはあかるくないのでベラベラ語るのも恐れ多いけど、生で聴いている時にそれが特に顕著だなと思うのは「So Woo」の〈理解しなくていい〉からのあたりや「Pioneer(Keep It Real)」の〈生きるCyber CityでDive〉からのあたり。あと、去年のドラフェスの「ワチャ-ガチャ!」の〈アイドリング合わせ ハンドリングかませ 君の旗掲げ〉は、ノッているこちらがつんのめりそうになるくらい遅い。スパドラのメジャーデビューによせたnoteに「その日の毅くんの音楽はその日にしか無くて刹那的だ」ということを書いたのですが、和哉くんの音楽も負けず劣らずとても自由だと思います。私のような小物には理解できないようなリズムの取り方をするのが、”ああ、これが今日の和哉くんの音楽なんだな”と思えて好きです。



ラッパー「Cuegee」として

”アイドルとして”という章にこの話を入れてよいものか少し迷いましたが、キラリの配信で「アイドルとしてラップをやるという意識を持っている」という旨の話をしてくれたので、ここで触れておきたいと思います。

和哉くんは昨日4月14日、十代最後の日に、ラッパーとしての名義「Cuegeeきゅーじー」を立ち上げ、ファーストシングル「Straight up」をリリースしました。まだ私の中で落とし込めていない部分がたくさんある&書き始めたら倍くらいの文字数になってしまいそうなので作品そのものについてはここには書かないのですが、もしこのnoteでこの曲を知ってくれた方がいたら是非聴いてみて下さい(各種サブスクリプションで配信されています)。

昨日インスタライブの後にやってくれたキラリ配信でアイドルという肩書きを持った自分がヒップホップシーンに参入することによる双方への影響について話しているのを聞いて、きっと彼は自分の行動によって外野から飛んでくる攻撃や既存のファンが持つ不安や自分に降りかかってくる選択の全てを想定して覚悟した上でこれをやっているんだなと考えてじんわり涙が出た夜でした。

曲自体についてもソロデビューについても、忘れたくない感情がありすぎるのでそれについては納得のいくまで咀嚼してから何か書くと思います。改めてラッパーとしてのお誕生日もおめでとうございます!



まとめ

ここまで読んで頂きありがとうございます!急に薄情になりますが、きっとこの先和哉くんやスパドラに興味が無くなる時が絶対に来ます。相手も一般人だったら出会わなかったであろう他人をずっと同じ熱量で好きでいられたことなんて一度も無い。例に洩れずきっといつか彼のことも書かなくなる時が来るし、青い光も手離すだろうし、退勤して真っ先に黄色い画面を開くことも無くなると思います。

それでも、今の私が和哉くんに救われて影響されて変わったという事実は1ミリも変わらなくて、私を私たらしめるひとつのパーツとしてこれからも私の人生の中で光り続けると思います。そして、論理的にはきっといつか失うのだと考えていても、感情的にはこれからも和哉くんとスパドラのことを見ていたいし、これから彼らが届けてくれる音楽や見せてくれるステージが楽しみで仕方ないとも思っています。


最後にここに残す松村和哉くんの好きなところは、好きな気持ちを持ち続けていたいと願うほどの出会いを私の人生にもたらしてくれたところです。








エピローグ ーーそれでもよかった

それでもよかったのだ。

私は貴方を想う時、大抵の場合、それでもよかった、に着地する。

貴方と目が合わなくても、それでもよかった。
この”目が合う”とは貴方のその鋭い眼光、あるいは陽だまりのような優しさに満ちたその眼差しと私の熱狂を隠した恍惚の視線が交わることだけでなく、心がお互いを向いていることも含める。私が貴方を見つめる時、貴方が私を見つめていなくたって、私は貴方を見つめることを辞めたくない。

私の解釈が間違いでも、それでもよかった。
貴方が創った音楽を受け取る時、言葉に込めた意味を私なりに考えていたい。もしそれが、貴方の持っている正解と違ったり、はたまた貴方は私の解釈を必要としないとしても、貴方の脳内を分かろうとすることを辞めたくない。

痛いと思われても、それでもよかった。
久しぶりに貴方に会えるリリースイベントが始まる前、私はヘッドドレスを新調した。ピンクの薔薇のレースがあしらわれた、ハンドメイドの一点もの。たとえ街ゆく人や、現場で居合わせる人や、もしくは貴方にすら、痛いと思われてもよかった。〈あなたが思う”あなたらしく”〉と歌ってくれた貴方に、私が本当に好きだと思うものを身に着けて会いに行きたかった。誰に何を思われても、好きな自分で大好きな貴方に会いに行くのを辞めたくない。


大袈裟だと思われても、それでもよかった。
ここまで全てを読んでくれた貴方(この”貴方”は今この文章を読んでくれている全員のこと)に大袈裟だろうと笑われても、それでもよかった。何故なら、普段なら大袈裟に表現する時に使う言葉のようなことが、実際に私の中で起こっているからだ。あるいは、自分でも無意識に大袈裟な物言いをしているかもしれないと思うからなのである。それほどこの出会いは、私の人生における大事件であり、大波乱であり、大革命であったのだ。



私が貴方を見つけられたという事実だけが不動ならば、その他の条件がどう揺らいだって、それでもよかったのである。


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