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下町のあったかさに触れた朝。

ある晴れた日の午前中。夕食の買い出しに出かけるため見慣れた街を歩く。この街で生まれ育ち人生のほとんどを過ごしてきたけれど、平日の午前中にただ歩くなんてことはこれまで数えるほどだったと気づく。知っているはずの街の知らない店や風景に出会えるとなんだかうれしい。

肩にさげているエコバックはメルボルンのオーガニックスーパーで買ったものでマチもあり、ビニール袋なんかより何倍も頑丈で気に入っている。特売のたまごや農家から直送された野菜をメインに買い物をすませ、重くなったバッグを抱えて歩いていると、昔からあるけど最近は閉まっていることの多い喫茶店が今日は開いていた。
”スペシャルブレンド豆 100g 220円”の看板がまぶしい。コーヒー豆が100g 220円で買えるのは大阪人から見てもなかなかお得だ。

レースのカーテンがかかっているため外から店内の様子は見えないけれど、常連さんの会話がやさしく漏れている。レースのカーテンをくぐると店内にいたのは80歳はとおに越えたであろう白髪のおばあさんと中年の明るい女性だけで(その二人で店を切り盛りしているそう)、常連客の会話と思ったのはテレビの音だった。

「スペシャルブレンド100g豆のままください」と言うわたしに、「そんなんあったかな?」と おばあさん。「看板の一番上に書いてあるやつです」 「ああ、あの看板もう10年くらい前のやねん。もうそれないわ〜ごめんね。看板から消しとかなあかんな〜」 ないものは仕方ない。
代わりに、”ホットコーヒー 100g 280円”をお願いした。「看板書き換えとかなあかんな〜」と何度も繰り返すふたりに、なんだか笑ってしまう。「220円ってえらい安いと思ったんですよ〜」とわたし、みんなで笑う。


きっと体調のいい日や晴れた日だけ気まぐれに店を開けては馴染みの顔だけが集まり、同じものを飲んで帰るんだろう。何十年も前に書いた看板のことなんてふたりとも覚えていない。ただいつもどおり看板を出し、今日をはじめただけのこと。 

袋を手渡しながら「200円でいい!とりあえず飲んでみて」と言うおばあさんは、「あかんあかん!280円払います」と断る私の手の中から200円だけ取り、にっこり笑った。 お礼を言い、また来ると約束して外に出ると、いつもどおりの街にいつもと同じ風が吹いている。わたしの心はいつになくあったかい。

誰かの思いがけないやさしさに触れたとき、自分の中にこびりついた負の感情がさっと溶けてなくなっていく。顔も知らない誰かに、また会うかわからない誰かに、自分もいつか無条件でやさしさを与えられたらいいな。


100gにしては多いと感じた豆は160gで、直前に挽いてていねいに淹れたコーヒーはきちんと美味しかった。

うれしいです。がんばります。