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村上春樹に学ぶ、経営の本質。
村上春樹の長編小説に「国境の南、太陽の西」という作品がある。
主人公の僕(ハジメ)はバーを経営している。
順風満帆の人生だったが、そこに小学生のころに出会った島本さんという女性が現れて、、、という内容なのだが、今回は小説本編のストーリーには踏み込まない。
この作品には、村上春樹の経営哲学が描かれている。
村上春樹は、早稲田在学中に「ピーターキャット」というジャズバーを経営していた。
経営自体は順調だったみたいで、小説家にならなければ今頃経営者として活躍していたかもしれない。
そしてこの作品では村上春樹がどのように思考してジャズバーを経営していたかが、主人公のセリフを通して伝わってくる。
今回はそんな村上作品を通して、経営の本質について学んでいきたいと思う。
※引用文は一部太字と改行を加えている。
「ねえハジメくん、どうしてここのお店のカクテルはどれを飲んでも他のお店のよりおいしいのかしら?」
「それなりの努力を払っているからだよ」と僕は言った。
「努力なしにものごとが達成されることはない」
本質を見極めて投資する。
「たとえば彼だよ」と僕は言って、真剣な顔つきでアイスピックで氷を砕いている若いハンサムなバーテンダーを示した。
「僕はあの子にとても高い給料を払っている。みんながちょっとびっくりするくらいの額の給料だよ。そのことは他の従業員には内緒にしてあるけれどね。どうしてあの子にだけそんな高い給料を払っているかというと、彼には美味いカクテルを作る才能があるからだよ。
世間の人にはよくわかっていないみたいだけれど、才能なしには美味いカクテルを作ることはできないんだ。
もちろん誰でも努力すれば、けっこういいところまではいく。何ヵ月か見習いとして訓練すれば、客に出して恥ずかしくないくらいのものはちゃんと作れるようになる。たいていの店が出しているカクテルはその程度のものだ。それでももちろん通用する。でもその先にいくには特別な才能が必要なんだ。それはピアノを弾いたり、絵を描いたり、百メートルを走ったりするのと同じことなんだ。僕自身もかなりうまくカクテルを作れると思う。ずいぶん研究もしたし練習もした。でもどう転んでも彼にはかなわない。同じ酒を入れて、同じように同じ時間だけシェーカーを振っても、できたものの味が違うんだ。どうしてかはわからない。それは才能というしかないものなんだよ。芸術と同じなんだよ。そこには一本の線があって、それを越えることのできる人間と、越えることのできない人間とがいる。
だから一度才能のある人間をみつけたら、大事にして離さないようにする。高い給料を払う」。
経営者は日々采配をとっていく。
それは今あるリソースの配分を決める作業と言い換えることもできるかもしれない。
主人公は凡人と天才を見極める目があった。
そして価値ある人材を手放さない努力を払っていた。
まずは物事の本質を見極める。
そして必要なところには思い切ってリソースを割く。
そのメリハリをもった経営判断が大切なことなのかもしれない。
顧客のイメージを明確にする。
「(中略)僕は暇があればいつも想像するんだ。もし自分が客だったらってね。もし自分が客だったら、誰とどんな店に行って、どんなものを飲んだり食べたりしたいと思うだろう。もし僕が二十代の独身の男で、好きな女の子を連れていくんだったら、どういう店に行くだろう。そういう状況をひとつひとつ細かいところまで想像していくんだ。予算はどれくらいなのか。どこに住んでいて、何時頃までに帰らなくてはならないのか。そういう具体的なケースをいくつもいくつも考える。そういう考えをかさねていくうちに、店のイメージがだんだん明確なかたちをとっていくんだ」
主人公は店のコンセプトを決める際に、まず顧客を具体的にイメージして、そこから逆算して組み立てている。
顧客のイメージをより具体的にイメージすることがなにより大切なのだ。
またそういった具体的なイメージを「いくつもいくつも考える」というところもポイントのように思える。
2、3パターンくらいの具体的なイメージなら凡人でも持つとは思うが、村上春樹はきっといくつもいくつもその具体的なイメージを持っていたのだろう。
そのような想像力と粘り強さは、村上春樹の小説家としての才能と切り離せるものではないように思える。
空中庭園を創る。
「(中略)僕は今二軒の店を持っている。でもそれはときどき、僕が自分の頭の中に作りだした架空の場所にすぎないように思えることがある。
それはつまり空中庭園みたいなものなんだ。
僕はそこに花を植えたり、噴水を作ったりしている。とても精妙に、とてもリアルにそれを作っている。そこに人々がやってきて、酒を飲んで、音楽を聴いて、話をして、そして帰っていく。どうして毎晩毎晩多くの人が高い金を払ってわざわざここに酒を飲みに来ると思う?
それは誰もがみんな、多かれ少なかれ架空の場所を求めているからなんだよ。
精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、その風景の中に自分も入り込むために、彼らはここにやってくるんだよ」
僕はカフェに行くことが好きだ。でもなぜわざわざカフェに行く必要があるのだろう?
珈琲を飲むだけなら、自宅で十分なはずだ。
料理だって、材料費をかければ自宅の方が豪勢なものをつくれる。
それなのになぜ僕たちはわざわざその場所に行くのか?
人はみな「空中庭園」を求めているという表現は非常に秀逸だ。
そこはあくまで日常と切り離されていなければならない。
映画のワンシーンに入り込むようであったり、架空のドラマに出演しているような体験を多かれ少なかれ人は求めている。
人は日常に高い金を払わないが、特別な体験には高い金を払う。
その特別な体験はまるで映画のセットのような「空中庭園」において演出されるのだ。
人を観察する。
そしてもうひと作品。
「ねじまき鳥クロニクル」という作品において、お店を経営する叔父さんが経営を語っているシーンがある。
「たとえばだね、どこかに店を一軒出そうとする。レストランでもバーでもなんでもいいよ。まあ想像してみろよ、自分がどこかに店を出そうとしているところを。いくつかの場所の選択肢がある。でもどこかひとつに決めなくちゃならない。どうすればいい?」
僕は少し考えてみた。
「まあそれぞれのケースで試算することになるでしょうね。この場所だったら家賃が幾らで、借金が幾らで、その返済金が月々幾らで、客席がどのくらいで、回転数がどれくらいで、客単価が幾らで、人件費がどれくらいで、損益分岐点がどれくらいか……そんなところかな」
「それをやるから、大抵の人間は失敗するんだ」と叔父は笑って言った。
「俺のやることを教えてやるよ。ひとつの場所が良さそうに思えたら、その場所の前に立って、一日に三時間だか四時間だか、何日も何日も何日も何日も、その通りを歩いていく人の顔をただただじっと眺めるんだ。何も考えなくていい、何も計算しなくていい、どんな人間が、どんな顔をして、そこを歩いて通り過ぎていくのかを見ていればいいんだよ。まあ最低でも一週間くらいはかかるね。そのあいだに三千人か四千人くらいの顔は見なくちゃならんだろう。あるいはもっと長く時間がかかることだってある。でもね、そのうちにふっとわかるんだ。突然霧が晴れたみたいにわかるんだよ。そこがいったいどんな場所かということがね。そしてその場所がいったい何を求めているかということがさ。もしその場所が求めていることと、自分の求めていることがまるっきり違っていたら、それはそれでおしまいだ。別のところにいって、同じことをまた繰り返す。でももしその場所が求めていることと、自分の求めていることとのあいだに共通点なり妥協点があるとわかったら、それは成功の尻尾を摑んだことになる。あとはそれをしっかり摑んだまま離さないようにすればいい。でもそれを摑むためには、馬鹿みたいに雨の日も雪の日もそこに立って、自分の目で人の顔をじっと見ていなくちゃならないんだよ。計算なんかはあとでいくらでもできる。俺はね、どちらかというと現実的な人間なんだ。この自分のふたつの目で納得するまで見たことしか信用しない。
理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない。それがどうしてなのかは、俺にもわからない。やろうと思えば誰にだってできるはずなんだけどね」
やはり村上春樹は多くの人を詳細に観察してきた結果、店の経営も小説家としても成功してきたのだろう。
そして自分の目でしっかり見ていくことの重要性。
それは特別なことではなく、誰にでもできることなのに多くの人はしようとしない。
しかし、この誰にでもできることがなぜ皆できないのか?
その問題のひとつに「アカウンタビリティ問題」があるだろう。
現在の企業にはアカウンタビリティが求められていますね。
アカウンタビリティというのは、「なぜそのようにしたのか?」という理由を、後でちゃんと説明できるということです。
では「アート」「サイエンス」「クラフト」と並べてみた場合、後で説明できるのはどれかということになると、これはもう圧倒的に「サイエンス」と「クラフト」ということになるわけです。
サイエンス:様々な情報を分析した結果、このような意思決定をしました
クラフト:過去の失敗経験をふまえた結果、このような意思決定をしました ところが、アートに基づく意思決定というのは、後から説明するのが大変難しいわけです。
アート:なんとなく、フワッと、これがいいかなと思って意思決定しました
過去の意思決定に関して、こんな説明をして「いいね、さすが」と言われるのはかつてのスティーブ・ジョブズくらいのものでしょう。
実績もない経営者がこのようなコメントを株主総会で出したら、即座に解任動議が発動されることになりかねません。
作家の山口周は「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」においてアートの重要性を説いている。
村上春樹は人を仔細に観察し、そこからイメージを膨らませるという「アート」によってジャズバーの経営者としても、小説家としても成功していった。
ちなみにこの通行人を観察するエピソードは、実際に村上春樹自身が「村上さんのところ」において、読者の質問に回答するかたちでも語っている。
店を開く前に、その場所に座って、道行く人々の顔をただじっと眺める。これは僕が商売を始める前に実際にやったことです。土地勘をつかむためには必要な下調べです。通行人の数までかぞえました。それくらいみっちりやらないとお店ってできません。まず綿密に情報を集めること。
店を経営するのも、本を書くのも。
店を経営するのも、本を書くのも、基本的には同じことなんだろうと僕は考えています。自分が納得できるものを、細部まできちんと磨き上げてつくっていって、そこに人を迎え入れ、もし気に入ったらまた来てくださいね、ということになります。容れ物はとても大事です。でもそれと同時に、そこに入れていくものも、容れ物と同じくらい大事です。僕は店を経営することによって、数多くの大切なことを学びました。ずいぶん昔のことになりますが、僕の店が気に入っていただけたようで、とても嬉しいです。
今回は村上春樹の経営哲学について紹介させていただいたが、いかがだっただろう。
店を経営するのも、本を書くのも、なにをするにも、本質的な共通点はかならずある。
村上作品にはものごとの本質をつく言葉が多く詰まっており、僕はその言葉を大切に抱えながら生きている。
そして僕が店を経営する時には、自戒の意味も込めてこの記事を読み返そうと思う。
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