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ブランク5年の無職が再就職の前に人生を振り返る

罪の告白です。書きながら泣いてしまいました。あまりにも愚かすぎる自分を再認識しました。

思えば、楽な方に逃げてばかりの人生でした。

最初に逃げたのは大学受験でした。
勉強がめんどくさくて、努力が嫌で。
ぬるぬると低空飛行で高校の三年間を終えてしまいました。
当然、受験には失敗しました。
そして、へらへらと浪人生活を一年送り、またも大した勉強もせず、当然のように第一志望には受からず。
そのまま三流私大に入学しました。
期待して、応援して、教育にお金を掛けてくれた両親の想いを、私は十代で裏切ったのです。
親不孝者のクソガキでした。

次に逃げたのは就活でした。
大学の成績はそれなりの結果を出していました。当然です。これまでへらへらと大した努力もしてこなかった私がぬるりと入れた大学です。こう言ってしまうと同学の友人たちには失礼ですが、レベルが低かった。ほんのちょっとの力の入れ方で簡単に成績は付いてきました。
そして私は勘違いをしたのです。自分は優秀なのだと。
大学4年次の夏まで就活をしていませんでした。
心の中では「このまま院に行くのもいいな」「適当に教授に頭を下げれば就職先もすぐ見つかるだろう」と考えていました。
そしてそのままその通り、担当教授に建築系の企業を紹介してもらい、そのままぬるりと就職しました。
将来の展望を何も考えていない子供でした。

最初の就職も逃げました。
建築系企業、現場作業、今までのぬるま湯のような人生の中では出会うことのなかった人たち、対人関係、厳しい環境。
あまりのギャップに恐ろしくなり、すぐに会社を辞めてしまいました。
歯を食いしばり働き続け、しゃかりきに食らいついて勉強すれば、そのまま専門知識と経験を積み上げてプロフェッショナルとして大成する目もあったであろう企業だったにもかかわらず。
覚悟がなかった。仕事の内容もよく理解しないままに就職してしまった。キャリアという概念もなかった。将来設計など微塵も考えていなかった。
甘ったれたボンボンの若者でした。

運の良いことに、次の仕事はすぐに見つかりました。
ハローワークに相談に行ったところ、編プロ・活字メディア系企業の営業の募集があり、すぐに飛びつきました。
もともと、ライティングや編集・出版には興味がありました。その思いを適度に修飾し、入社後にやりたいこと・どのような仕事に関わりたいのかを麗句を以て語ったところ、内定がもらえたのです。
いわば口八丁で取り入ったのです。
50人の応募で1名採用。
なぜ内定がもらえたのか、よくわかりません。
多分、口先だけは上手い若者だったからでしょう。

新卒就職企業の離職、そして再就職、この一連の流れを私は親には伝えておりませんでした。カッコつけだったのです。「親に心配を掛けたくない」などと体の良い意識で動いておりましたが、実際のところ、根性なしと思われるのが怖くて逃げたのだと思います。

新しく入った会社はとても良い企業でした。
完全週休二日、各種手当あり、関東と関西に社を構えるそれなりの規模。職場の人たちは皆穏やかで人間関係も良好。営業といっても厳しいノルマは無し。給料こそ高くありませんでしたが、残業をこなし、各種の手当てと年2回のボーナスを含めればそれなりの額にはなる。
言い換えれば、ぬるい環境でした。
私はまたも勘違いしてしまったのです。
「意外と簡単に内定って貰える」「俺って需要ある人材なんじゃない?」「仕事ってこんなもんか」「案外なんとかなる」「将来のこととかよくわかんない」
ただ若いというだけで許されていたという現実が全く見えていませんでした。
甘い毒でした。
ぬくぬくと働き、それなりの貯金も出来て。しかし給料はほとんど上がらず、役職も付かず。今のままでも問題は無い、近い将来もそのままが続くだろう、その先も大丈夫そうだ・・・しかし遠い将来は?
しかし遠い将来は?
何も考えていませんでした。
今にして思えば、この緩やかな時間を使い資格を取るだとか、見栄えの良い職務経歴を作るために結果を出す仕事を心がけて働くだとか、やるべきことはいくらでもありました。
しかし、しなかったのです。
現状維持を選択してしまったのです。
しかも「この環境は甘い毒だ」と自覚していたにもかかわらず。あまりに居心地が良くて、抜け出すことを拒んだのです。
そのまま5年が経ちました。
そろそろ30代手前、若手とも言えない無能がそこにいました。

大きな転機が訪れたのがこの頃でした。
転機・・・というより、失敗の始まりです。あるいはツケが回って来たのでしょうか。
本社への移動を求められたです。曰く「本社の人員の強化のため」と。
最低限の結果は出していました。口八丁手八丁で表面だけは良く見せる薄っぺらな性格が幸いしたのでしょう。「見限られる仕事ぶり」を下回らないだけの成果を演出することは出来ていたのです。
当然ですが、そのような仕事ぶりでは営業職の本質には至れません。他業界の営業から見れば全く話にならないでしょう。実際、私も「他ではやっていけないだろう」と考えて、だらこそこの環境にしがみついていたのです。
いわば、将来から逃げていたのです。
入社時点で「転勤はない」と言われており油断していました。社会人なら急な配置転換もありえるでしょうに。覚悟がなかった。
悩みました。この頃、父の体調が悪化しており、できれば地元近くから離れたくなかったのです。
・・・ここで甘い毒に蝕まれた思考が顔を出しました。
「なんとかなるだろう」
私は次の就職先も決めず、そのまま仕事を辞めたのです。
貯蓄はかなりありました。趣味らしい趣味もなく、物欲は無く、恋愛にも興味はなく、刺激の少ない環境を好み、金だけは溜まっていく。そんな生活を送っていたからです。つまらない人間です。
この少し後、新型コロナが猛威を振るい始めました。「なんとかなるだろう」の精神で、長めの休暇のつもりで無職生活を送っていた私は、そのまま無職生活を延長しました。
このままでは良くないという思いも一応はありました。ふと不安になることもありました。しかし、何もしませんでした。(5年目には邪な心で株やFXに手を出そうかとも考えて少しばかりの勉強をしましたが、これは無理だと判断して諦めました。人生における唯一の良い判断だったかもしれません)
→追記②に続く

すでに一年近く無職生活を続けていた頃、元々悪かった父の体調が更に悪化、そのまま亡くなってしまいました。
親不孝者です。とんでもない親不孝者です。
あれだけ私に期待を掛け、教育投資に金を惜しまず、愛してくれた父を、なんの親孝行もせず、どころか自らの身を立てることすら出来ていない中で見送ったのです。
父の人生に、愛に、唾を吐きかけ踏みにじったのと同じではないでしょうか。誰か俺を殺してくれ。
→追記③に続く

父を亡くした後、母は急激に心を病みました。つまり激越型うつ病です。
通院に接ぐ通院、そして入院、退院後も通院。
あまりの母の変わり様に、酷い言葉を投げ付けてしまうこともありました。「ちゃんとしてくれ」「いいかげんにしてくれ」「なんでまともにならないんだ」、と。
母は病人なのに!
本人にはどうしようもないとわかっているはずなのに!
自らが恥ずべき人間であるにもかかわらず!
何より恥ずべきことは、「母の世話」を言い訳に無職生活を延長してしまったことです。
確かに、この頃の母をサポート出来る人間は他におらず、フルで働ける状態ではなかったことは確かです。
しかし、やろうと思えばアルバイトでもなんでも出来たはずでした。職歴の穴を埋める努力は出来たはずでした。資格取得の勉強をすることも出来たはずでした。次の就職をスムーズに行うための努力は出来たはずでした。あるいは、そもそも選べば就職だって出来たはずです。
しかし、私はそれをやらなかったのです。
「母の世話」を言い訳に努力から逃げたのです。
働くことが嫌になっていたのです。
ストレスから逃げたのです。
将来のことを考えるのが嫌だったのです。
目の前の問題を言い訳に、もっと大きな問題から逃げたのです。
救いようのないゴミ屑です。死んだ方がよいゴミ屑です。
いつの間にか無職期間は5年も経っていました。
→追記①に続く

ここからが本題です。
私はここからまともな人生を、胸を張って生きていける人生を形作ることは出来るのでしょうか。
貯蓄は150万円を切りました。
ブランク5年、34歳独身、中途半端な職歴が5年半程度。救いようのない経歴の無能な無職がここに一人。
私は父のようになることなど当然できません。しかし、せめて「誰かの役に立っている」「誰かを守っている」という感覚で社会と繋がる実感が持てる仕事に就きたい、人生を歩みたい。
しかしそれすらも贅沢でしょう。とにかく自活しなくては。
出来るのでしょうか?
こんな私にやれるのでしょうか?
今からでも間に合うのでしょうか?

現在、母の病状は完全に安定しており、サポートは必要なくなりました。
「この先、問題は全くない」と確信できるだけの状態になりました。
つまり言い訳はできなくなりました。
就職活動を始めます。
人生をやり直す努力を始めます。


追記。上の文章を読み直したところ「見栄えを良くしたい」という卑劣な欲求が滲んでいたことに気付いたので、書かねばならないことを書きます。

*7/7追記①
まだカッコつけてました。まだ嘘をついていました。
そもそもの話、母には数年に及ぶフルサポートなど必要ありませんでした。ほとんどの期間は週2日程度の様子見で問題なかったのです。たった2日。母はなんとか私を心配させまいと顔をくしゃくしゃに歪めながらも気丈に振舞おうとしていたのに。入院直前の本当に酷い期間以外はなんとかセルフコントロールを頑張っていたのに。私は殆ど労力も掛けていないのに「なんで私がこんな負担を」と傲慢な態度を取っていました。どう考えても資格の勉強やバイトをする時間はいくらでもあった。直近2年など正しく2日のサポートすらいらなかった。少なくとも2年は「自分の選択」で怠惰に無職生活を食んでいた(そもそも最初の1年もそうです)。
もう母は完全に緩解していたのに。むしろ私が母に依存していた。もっと早く就職活動に動くことが出来た。なんでも出来た。
つまり私は、単に私は、無職生活が快適すぎて、ストレスの無さが快適過ぎて、働くことから逃げていただけです。お金が無くなり今焦っているだけです。単なる社会不適合者です。昔から自分でも自身の発達障害の気を疑っていましたが、どうやら間違っていないのだと思います。

*7/8追記②
まだカッコつけていたようなので追加で本音を吐露します。
実際のところ、振り返ってみると無職期間中の私は全く無根拠に「FXで稼げるらしいから大丈夫でしょ」のような考え方をしていたように思います。「ギリギリまで自堕落に生活しても、回帰不能点が薄っすら見え始めたら本気で始めればよい。すぐに立て直せる」という発達障害的な先延ばし癖が加速させた後先を考えない低能な思考で現状に至ったわけです。そして実際に勉強してみて「あ、これは無理だ」と現実を知って本当に焦り始めた、というのが真相なのだと現在は再認識しています。
つまり、今の私が苦しいのは、ノーストレスな無職期間に抱いていた「なんかFXで稼げるらしいし無職でも大丈夫」という意味不明な楽観(それも実際にはやってもいないのに!)と、厳しい現実とのギャップを、心の底では受け入れることが出来ていないからなのでしょう。優雅な無職生活を名残惜しんでいるのです(なんなら夢想していた億り人の生活をこそ「本来あるべきだった私」と心の底ではまだ思っているのでしょう。だから惨めな現状とのギャップが苦しいのです)。そして自業自得にも拘らず「こんなはずではなかった」と泣き叫んでいるのです。そして現実を改めて知り自分の年齢を振り返ったことで「なんで私はこんなにも無駄な時間を過ごしてしまったのだ」と後悔に苛まれているのです。なんという愚か者なのでしょう。私以上の愚鈍がこの世界にいるのでしょうか。

7/8追記③
これを記さないと印象がかなり変わってしまうと思ったので告白します。おそらくは多くの方にとって、唾棄すべき事実です。
私は、仕事を辞めて自堕落を貪っている状況を、その始まりから今に至るまで、親兄弟に伝えておりません。無職生活を好んで過ごしてたくせに、無職を恥じているのです。愚か者と思われたくなかったし、根性なしと思われたくなかった。カッコつけているのです。
つまり、父が亡くなった時、私は無職でしたが、父はそのことを知りませんでした。
つまり、母がうつに苦しんでいた時、私は無職でしたが、母はそのことを知りませんでした。
父の容態の急変を知らされた時、私は焦りながら「有休をとってすぐに向かう」と返答したのです。
父の葬儀の場で、「会社からの香典は断った」と嘘をつきました。
母がなんとかセルフコントロールを頑張っていた時、私は仕事をしているふりをしながら毎週末土日祝に実家に帰っていました。そして平日は自堕落を極めていました。(これで「母のサポートをしていた」などと言えるのでしょうか?口が裂けても言えないはずだろゴミめ)
母が本当に酷くなった時、「有休を使っている」と嘘をついて実家に【長期帰省】しておりました。
入院の手続きや市役所への申請のための時間も「溜まった有休を消化している」と素知らぬ顔で伝えておりました。
その後も仕事をしているふりをしながら金曜合わせて毎週末に【帰省】し、母の様子見を言い訳に自堕落な暮らしを続けていたのです。
嘘つきの無職が、父の仏壇に線香を上げ手を合わせていたのです。
・・・こうして文章にすると本当に酷い人間ですね。嘘を嘘で塗り固めた人型の地層が私です。今になって後悔に苛まれ、しかし人には言えず、こうやって誰も読まないであろう文章をネットに放流して精神の均衡を保とうとしているのです。唾を吐きかけて下さい。石を投げて下さい。
私がいつか惨めに死ぬ日まで、肉親には打ち明けられない秘密として、罪悪感と後悔に苛まれながら一生抱えていくつもりです。
酷い言葉で攻め立ててしまったあの頃の弱った母に、今は亡き偉大な父に、もはや謝ることも出来ない。クズめ。

7/8追記④(③の補足)
私は「働いているふり」のために在職中から借りているアパートの契約を5年強に及んで継続していました。それほど高くはありませんが、安くもない家賃です。つまり「ふり」のために、私は320万円近い「維持費」を掛けていることになります。こうやって数字にすると血の気が引きます。馬鹿なのか?

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