鏡飆〈かがみ〉の技代記〈テクノクル〉
天涙はいよいよ極まってきた。横殴りにざあざあと叩く滴は、撥水加工を施した飛貂のコートの上からでも痛みを伴う程で、イカィツ・ウメアはその瑠璃色の瞳孔をきゅっと細めた。
視覚でも〝歯〟覚でも、視える世界は漆黒の高密度な泣雲の塊で、ウメアに対してこっちに来るなと哭いて拒絶をするのだった。
この泣雲海を、横断する。
それも飛行機で。
空前にして、これから続く全ての飛行機乗りへと繋がる大業績になるだろう――もし成功したならば。
蒸気船による泣雲海横断は百エカントの昔に達成されており、現在に至るまでの唯一の交易手段だ。つい10エカント前に発明されたばかりの新しい乗り物でこの荒れ狂う雲海を渡るなど自殺行為だと周りの人間は口を酸っぱくしてウメアを諌めた。
――翼持つ人類が、這うように雲上を進むのは、ウメアには神聖な何かに対する冒涜に思えて仕方なかった。最早飛ぶこと叶わぬ翼を持つ身にとっては、特に。ウメアは身震いをして飛沫を散らすと、第五肢と第六肢を折り曲げて飛膜を器用にコートの中に仕舞い込む。
傍らの愛機を見上げる。辰砂色の機体。玻璃の風防が光精を反射して闇の中燦めいている。ウメアは耐水黒炭のペレットを発動機に投入した。大気に充ちる水精を空気と共に呼吸して、黒炭に眠る熱精に吹き付ける。水が沸騰し、蒸気がピストンを回転させ、エンジンが始動する!
ドルンドルンドルルル……!
ウメアはナビゴーグルを装着すると、タラップを上りコックピットへ収まった。
眼前は、夜を煮溶かしたかの様な幽暗。
呑まれるな。臆するな。眼と歯を信じて、ゆけ。
膨大な蒸気を吹きながら、今、真紅の翼が闇に挑む。
遥か西の都、霧の都倫敦で起こった蒸気革命は瞬く間に世界を席巻した。
光精を玻璃の瓶に閉じ込めたランプに代わって瓦斯燈が家々を照らし、石炭は工房を工場へと変えた。
後世の人々は、この熱気溢れる時代を指してこう呼ぶ――『黒煙が黒雲に打ち克つ世紀』と。
【続く】
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