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未来の学校を想像してみよう

やっぱり黒板はあるのかな

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明治5年の学制以来、もしかしたら学校のイメージはそう変わっていないのかもしれない。校舎があり、校庭があり、各学年の教室があり、教室には黒板と机があり、同じ年齢の子どもたちが前に立つ先生の授業を受けている。

この黒板、学制と同時にアメリカから持ち込まれたらしいが、文字通り表面は黒でブラックボードと呼ばれたものを日本語直訳して黒板になったらしい。今の黒板は色は1954年のJIS規定から緑に変わったらしいが、なぜか黒板といわれているし、誰も緑版とはいわない。なんかここのあたりが学校らしい。

最近は移動教室あたりはホワイトボードが増えてきたが、教室のメインにホワイトボードが利用されている学校はほとんどないだろう。

確かテレビで、東京のどこかの学校が全面電子黒板みたいな環境の学校を造ったというニュースを見たことがあるが、予算面で全国に普及するのはまだ先の話だろう。

でもお隣韓国ではホワイトボードと電子黒板は10年以上前から導入されているみたいなので、日本はまだまだ遅れているのかもしれない。

日本では黒板で授業をするというのはなかなかなくならないのかな。確かに電子黒板を利用する先生方は増えてきているが、黒板を使って授業するという、先生の子どもの頃のイメージがなかなかそれを変えることができない要因ともいえるんじゃないかな。

先生はプロヂューサーになれるか

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明治5年の学制以来、学校では先生なるものが、教壇にたって前を向いている多くの子どもたちを教えるという形は150年たった今でも普通の姿だろう。

確かに学びの主体を子どもにというスローガンが出されて久しいが、現実にはまだまだそこにはいたっていないように感じる。ICT支援員として学校に入って思うのは、やっぱり先生って教えたい存在じゃないのかなって思う。

タブレットが学校に入ってきて、本当なら劇的に学校を変える環境になったのかもしれないのに、その波はまだまださざ波なのは(学校によっては違うだろけど)、タブレットの使い方がわからないとか、授業のどの場面で使ったらいいかわからないということだけではなく、根本として授業の主体が子どもに移って、自分が授業をしているという感覚が薄れることのおおげさに言えば恐怖心がそこにあるんじゃないかとふと思ったりする。

ICT支援員の自分も、かつては教師だった経験から思うことは、教材研究を行って、授業を組み立て、その流れに子どもたちが乗ってきて、今日の授業は面白かった、よく分かったって言ってくれた時には、ああ教師っていい仕事だなって思ったりしたこともあった。

でも、冷静によく考えたら、やっぱり主体は教師だし、何人かの理解できる子どもたちがそう思ってくれただけで、分からない子どもたちが本当に満足できる時間だったのかと思うと決してそうではなかったはず。

本当は、もっと子どもたち同士が教え合う時間が必要だったり、もっと子どもの可能性を引き出す授業が必要なはずなのに、そうした授業を組み立てるより、自分が前に出て教えるほうがある意味楽だし、自分自身が授業したという実感を感じられる方を選んではないか。

うーんちょっと筆が止まってしまった。

こうした授業がタブレットの利用で変えることができるんじゃないか、それも幻想なのか、やっぱり、未来の学校も同じなのかな。

ちょっと自分の中で消化しきれなくなったので今回の文はここで終わり。また整理できたら追加します。

中途半端やな。

とりあえず夏休みに入って、無給なのに何とか夏を楽しみたいと思っている今日この頃。

次回、ちょっとICT支援員として学校に入った中でのちょっとした出来事なんかを話だってみたいと思います。(続く)


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