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天国はまだ遠く【本紹介】

またまた、とても好みの小説に出会ってしまったので、紹介したいと思う。
今回読んだのは、瀬尾まいこさんが書いた、「天国はまだ遠く」という小説だ。

「天国はまだ遠く」
瀬尾まいこ著 新潮文庫

まず、ざっくりとしたあらすじを紹介しよう。

仕事も人間関係もうまくいかず、毎日辛くて息が詰りそう。23歳の千鶴は、会社を辞めて死ぬつもりだった。辿り着いた山奥の民宿で、睡眠薬を飲むのだが、死にきれなかった。自殺を諦めた彼女は、民宿の田村さんの大雑把な優しさに癒されていく。大らかな村人や大自然に囲まれた充足した日々。だが、千鶴は気づいてしまう。自分の居場所がここにないことに。心にしみる清爽な旅立ちの物語

文庫本の裏表紙より

私はよく行く本屋の小説コーナーで、この本を手に取った。
あらすじを読み、すぐに買うことを決めた。
歳が近くて、色々なことが上手くいっていなくて、死にたい気持ちを抱えた主人公。
数年前の自分と重なり、この本を読まずにはいられなかったのだ。

※以下、ネタバレ注意

主人公の千鶴は、どうしようもない「生きづらさ」を感じていた。
その日1日を生きることで精一杯。
なんとか自分を奮い立たせ、本音に蓋をし、会社へ行って仕事をする。
家に帰ると、心の底からほっとする。
休日も、仕事のことを考えてしまって全く休めない。
ただただ流れていく日々を、ただただ上手くやり過ごしていくような生活。
私も同じだった。
私も過去、そんな日々を過ごしていた。
他の人にとってはどうってことない問題でも、千鶴にとっても私にとっても、それはとても大きくて、重たかった。

なんとかなる。適当に流しておけばいい。きっと大丈夫。物事は私が心配するほど、悪化しないものなんだって。このくらいのこと、ちっともたいしたことはない。笑っておけばいいんだ。
いつからだろうか。私は自分にそう言い聞かせるようになっていた。朝、布団の中で。出勤前の玄関で。仕事の合間にトイレで。食欲のない時、寝付けない時。そうやって自分に暗示をかけないと、動けなくなっていた。

本編11、12ページより

そんなふうに過ごしていると、ある日突然、動けなくなる日がくる。
まだ大丈夫、なんてことない、と誤魔化していたツケが回ってくる。
そのうち、暗示も効かなくなり、「もう限界」と身体が悲鳴を上げる。
そして千鶴は、「死」を意識し始めた。
日本海側の山奥で、誰も自分のことを知らない場所で、ひっそりと死のうと決めるのだ。

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自殺は失敗に終わった。
電車を降り、駅からタクシーに乗り換えて山奥へと向かった千鶴。
辿り着いた小さな村の古びた民宿で、最期を迎えることに決めた。
睡眠薬を大量に飲んで、もう私に明日は無いのだと覚悟を決めて布団に入った千鶴だったが、結果的に、丸一日半眠ってしまっただけで、いつもと変わらない朝を迎えたのだった。
鬱々としている時は、「ぐっすりと眠った」という実感がなかなか得られないので、32時間も眠った後、すっきりと目覚める千鶴に少し笑ってしまった。

山奥の閉ざされた村にある年季の入った民宿と聞くと、いかにも老夫婦が営んでいそうなイメージだが、そこにいたのは若い男だった。
髪型もボサボサで、身なりも上下スウェットという、むさ苦しいその若い男は、田村といった。
自殺に失敗したことで、ある意味1度死に、生まれ変わったような千鶴。
あれほどあった死にたいという気持ちが、どこかへ行ってしまったのだった。
それから田村と共に、「木屋谷(きやだに)」という村での穏やかな生活が始まる。

村には何もないが、全て揃っていた。
いやそれどういうこと、と思うかもしれない。
文字通り、店はほとんど無いし、マンションや公園や学校も無い。
車が無ければ生活出来ないような閉ざされた場所にある。
しかし、そこには大自然があった。
海も山も、手に余るくらいあったのだ。
民宿を営みながら、田村は野菜を育てたり、漁に出たり、鶏の世話をしたりと、穏やかに暮らしていた。
田村はそれらをいとも簡単そうにこなしていて、若い年齢とのギャップが感じられる。
車で街に降りて、野菜や鶏肉を売って暮らしているようだった。
1人で生きることを、1人で完結させている生き方だった。
普段、何でも揃っている街で暮らす我々からすると、その自由気ままさに、ある意味少し羨ましくなるかもしれない。
しかし、田舎に憧れて移住する人は多いが、実際に生活するとなると、かなり大変なのが現実だろう。
便利な生活が当たり前になっているな、と感じた。

「死のう」という気持ちがどこかへ行ってしまった千鶴は、村で過ごしていくうちに少しずつ変わっていく。
好きな場面があるので、ここでいくつか触れたいと思う。
1つ目は、田村と早朝に釣りに行く場面。
海が怖い千鶴を、「大丈夫やって」と田村がぐいぐい引っ張り、千鶴は人生初の釣りをすることに。
ボロボロの船の上でガサツに動く田村に不安を感じながら、船酔いで何度も吐く千鶴。
「乗らなきゃよかった」と後悔していた千鶴だったが、日が登る瞬間を船の上から見ることが出来たのだ。
どうやら田村はこの景色を見せたかったようで、田村の不器用な優しさがとてもあたたかいと感じた。
千鶴は、あまりに美しい日の出に感動しながらも、また海に向かって吐くのである。

2つ目は、近隣の村合同で行われる飲み会へ参加する場面だ。
千鶴は、会社での付き合いの飲み会で少し飲むくらいで、飲み会に良いイメージを持っていなかった。
居心地が悪いし、気を遣わなければならず、楽しめない。
しかし、この村での飲み会は違った。
何より、ご飯が美味しいのだ。
海も山も存分にある村で、それぞれの家から様々な料理が並ぶ。
どれも肉や魚、新鮮な野菜や果物がふんだんに使われている。
村のお母さんたちが作った卵焼き、コロッケ、煮物などの家庭料理から、おはぎなど甘いものまである。
千鶴は食べたいものを食べたいように食べた。
そして、気さくな村人たちに酒を勧められ、気分のいいままに飲みまくるのである。
そして、帰りに田村の運転するトラックに乗るや否や、「吐きそう…」と再び吐くのであった。
「こんな短期間で 3回も吐く人見たん、俺初めてやで」と呆れ笑いながらも、田村は車を止めて千鶴の横に腰をおろす。
(千鶴は先日、田村が鶏を捌くところを見て吐いているので、実はこれで3回目なのである。)
吐いてすっきりした千鶴は見事なまでの酔っ払いで、妙に楽しくなってしまい、田村に歌を歌おうと持ちかける。
シラフの田村は呆れながらも、千鶴と一緒に讃美歌や吉幾三を一緒に歌うのだ。
私はこの場面が特に好きだ。

歌っているのと気持ちがいい。誰もいない山の中で、大声で歌うのはたまらない開放感だった。
なのに、私はどんどん寂しくなってきた。歌えば歌うほど、寂しくなった。(中略)
すてきなものがいくらたくさんあっても、ここには自分の居場所がない。するべきことがここにはない。

本編157ページより

千鶴は酔っ払いながらも、この酔いもいつか冷めてしまうこと、現実に戻らなければいけないこと、これからのことを考えなければいけないということを、どこか冷静に考えている。
けれど今この時は、車ひとつ通らない道路に寝っ転がり、ささやかな抵抗として、歌を歌うのだった。

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様々な新しい体験をしながら、村で過ごすのも20日ほど過ぎた頃、いよいよ千鶴は、ここを離れることを決意する。

「私が帰るのって、田村さん、悲しいですか?」
「あんたって、ほんま幸せな人やなあ」
「悲しいの、悲しくないの?どっちですか?」
「そりゃ、悲しい。あんたやなかっても、人が来て去っていくのは悲しいもんやろ。」

本編179ページより一部抜粋

他の誰かではなく、「千鶴」が帰ってしまうことに対して、素直に寂しいと言えない田村は、やはり不器用なのだなと思った。
この本を読み進めるににつれて、初めは素っ気なくただただガサツな印象の田村が、本当は家族思いで、世話好きなあたたかい人間なのだとわかった。
荷造りしていると、「街へ戻ったら、なかなかええもん食われへんやろ?」と村での美味しい食べ物を紙袋両手いっぱいに持たせてくれるのだ。
やっぱり優しい。
千鶴も、1人暮らしのアパートで死にたさを抱えていた頃よりも、村に来てからどんどん本来の姿を取り戻していくようで、私も読みながら心がほぐれていった。
旅立つと決めてから、田村と別れるまでの場面は胸がぎゅっとなり、もどかしい気持ちになった。
千鶴自身、あともう少しここで暮らしていたら、もっと確実に田村のことを好きになっていただろう、そう思うのだ。
けれど千鶴は村を出て、帰るべき場所へ帰るのであった。

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読み終わった時、心の温度がぐっと上がり、とてもあたたかい気持ちになっていた。
辛い時、少し疲れた時、癒されたい時、少し立ち止まって休みたい時、またこの小説を手に取って読もうと思う。
千鶴と田村のやりとりに癒しのようなものを感じられるし、田舎ならではのご飯の描写も楽しい。
私にとってお守りになりうる、そんな素敵な小説に出会えて、とても良かった。

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