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文科省のやる小手先の対策は、今の学校のつらい現状を全く解決しない!!!

 上記の新聞は、24年5月14日付朝日新聞だが、教員の残業代を支払わない50年前の悪法「給特法」の4%上乗せ額を10%にするという「小手先」の対応は、今の学校の現状を全く解決しない。なぜ、彼らがそういう対応しかしないのかを

内田樹さんは、近著『だから、あれほど言ったのに』の中で次のように喝破しているので、以下引用する。

 ウスビ・サコ先生との対談を中心にまとめた『君たちのための自由論―‐ゲリラ的な学びのすすめ』(中央公論新社)という本を出版した。サコ先生は日本ではじめての「アフリカ出身のムスリムの学長」である。
 多様な出自の人々を同胞として迎える心構えにおいて日本社会はまだまだ十分な成熟に達していないと私は思うが、それでもサコ先生のような人が登場してきたこと、サコ先生の言葉に耳を傾ける人がしだいに増えてきたことは、日本の米来について私を少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれる。
 私が日本の水米について「楽観的になる」ということはほとんどないが、サコ先生は私にその「ほとんどない」経験をさせてくれる稀有の人なのである。
 この共著の中で、私たちは主に日本の学校教育について論じている。それは学校教
育が私たち二人の「現場」だからである。
 私はもう定期的に教壇に立つということはなくなったのだが、今でもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「いま何が起きているのか」はある程度わかっている「そして大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどない。
 大学教育は制度としてはどんどん劣化しているし、研究教育のアウトカムはどんどん低下している。それも加速度的に。
 その原因は「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものであるいは「諸悪の根源」というような激しい言葉をあまり使いたくないが、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いない。
 だが、不思議な話ではあるが、「統御し、管理しようとする欲望」は「秩序」をもたらし、「効率」や「生産性」を向上させることをめざしているはずである。しかし、それがまったく逆の結果を生み出してしまった.なぜだろうか。
 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからである。「管理」がどういうものであるかはほとんどの人が知らているが、「創造」がどういうものであるかを知っている人はそれに比べるとはるかに少ない。
 

日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれている、彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができる。
 だが、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはたいてい興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しない。だから、資源分配の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずない。したがって、自分の出世しか興味がない会社員が組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすばらしいものになる。


 というのは、「管理」が大好きな人たちはあらゆる仕にに先立って「まず上下関係を確認する」ところからはじめるからだ。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬話を使い、誰にはタメロでいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのだ。
 この集団はそもそも何のためにあるのか、いかなる「よきもの」を創り出すために立ち上げられたのか、メンバーたちはそれぞれどういう能力や希望があるのかということには副次的な関心しかない(それさえない場合もある)関心があるのは「上下」なのである。
 だから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」である。日下の人間にまず屈辱感を味わわせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する.そんな集団が効率的に機能するだろうか。
 朝の会議で上司が部下に「発破をかける」ということが日本の会社ではよく行われるが、あれは今日する仕事の手順を確認しているわけではない「誰が「叱責する人間」で、誰が「黙ってうなだれる人間」かを確認する儀礼だ。そんなことを何時間やっても、は1ミリも先に進まないのに。

 だが、管理が好きな人たちは、その因果関係が理解できない。しっかり管理しているはずなのに、トップダウンですべての指示が木端まで示達されているはずなのに、なぜか組織のパフォーマンスはどんどん下がる。
 なぜ、仕事がうまくゆかないのか,そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織をL意F達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする.
 もちろん、そんなことをすればするほど組織のパフォーマンスはさらに低下するだけだが、その時も対策としては「さらに管理を強化する」ことしか思いつかない。

 軍隊には「督戦(とくせん)隊」というものがある。前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて「前線に戻つて戦い続けろ。さもないと撃ち殺す」と脅すのが仕事だ。軍隊の指揮系統を保つためには必要なものかもしれないが、もし「半分以上が督戦隊で、前線で戦っているのは半分以下」という軍隊があったとしたら「管理は行き届いているが、すごく弱い軍隊」だということは誰にでもわかるだろう。
 

今の日本の「ダメな組織」は、この「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ている。学校現場もそうである。
 教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗した,だが、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めなかった。すべて「現場のせいだ」ということになった。
 指示した政策は正しかったが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになる。
 そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、木巨定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪した。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずだった。だが、やはり何の成果も上がらなかった。

 この失敗も「現場が無能だからだ。現場が反抗的だからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった・・・というのが日本の現状である。

 現在の学校教育現場で、最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということだ。
 毎年、教員採用試験の受験者が減っている。さらに倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。そのことによって病欠したり、離職したりする教員も多い。
 これまで教員たちから権利を奪い、冷過し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけだから、こんなことは当然予測された結果のはずだ.だが、おそらく文科省も自治体の首長も決してそれを認めないだろう。
 繰り返すが、「管理」と「創造」は相性が悪い。


 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスである。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるが、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことだ,
 やっていることは見た日には「いきあたりばったり」だから、「管理」する側から「何をやっているんだ」と問い詰められもうまく答えられない やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるが、それが「どういう目的地」なのか、企行程のどのあたりまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできないて「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものだ。
 

 完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」時の実感である。



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