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今野敏の隠蔽捜査シリーズもついに10巻となった。私は、この作品の警察庁キャリア官僚の「竜崎伸也」のファンである。

 今野敏の「隠蔽捜査」シリーズは、私のお気に入り小説のひとつである。 
 この作品の主人公である竜崎伸也は、警察庁のキャリア官僚であるが、この間、不祥事隠しで騒がれている野川明輝鹿児島県警本部長などとは真逆のキャリア官僚で、「国家公務員は国民のために尽くすのが本務である」と大真面目に考え、その通りに行動している稀有な男である。
 現実には、野川鹿児島県警本部長を告発した前本田生活安全部長(本部長によって国家公務員法違反で逮捕された)や森友学園問題で財務省のキャリア官僚である佐川財務局長が決算文書の改ざんを指示したことに抗議して自死した赤木俊夫さんや斎藤元彦兵庫県知事をパワハラで告発したことに対し「噓八百」「公務員失格」と言い切って処分したことに抗議して自死した西播磨県民局長のような人たちがいるが、命を懸けないと自分の道を貫き通せないというのが今の現実の厳しいところだ。
 警察のキャリア官僚でこういう人物を設定したところが、今野敏の小説家としての面目躍如といえるだろう。10巻「一夜」を読んで興味を惹かれたところを引用して紹介したい。
 わたしが、本文中から引用を繰り返していることを捉えて「パクリだ」とか「コピペしているだけだ」と考える読者もいるようだが、何を引用するのかがわたしの表現だと考えられないとしたらそう考える人たちは表現論としてとても偏狭な考えの持ち主だということを申し上げておきたい。

今野敏 「隠蔽捜査 10 一夜」より
(小説家誘拐事件が解決した後で)
 (小田原署の)内海副署長が言った。「これで、捜査本部は終了ですね」
 竜崎はこたえた。
「そうですね。寺島についての検察の判断が聞けたら、その段階で解散できると思います」
「部長とごいっしょできて、いろいろと勉強になりました」
 勉強になることなど、何一つした覚えはない。
「副本部長があなたで、助かりました」
「私は何もしていません」
「いえ。要所要所で支えていただきました。感謝します」

(県警本部で、佐藤本部長に事件の結果を説明に行った際に)
 竜崎は言った。
「残念な結果になりました」
「ん……? 誘拐事件は見事に解決したんだろう? 実行犯も送検したって‥…」
「はい。ですが、警視庁の殺人事件の被疑者が北上輝記でした」
「それだよねえ……」
佐藤本部長が溜め息をついた。「さすがにこたえたね。まさか、こんな結末になるとは……」
「本当にショックを受けておられるご様子ですね」
「そう。ショックを受けておられるんだよ。なんかさあ、夢なら早く覚めてくれって感じだよ」
「お察ししたいのですが、できません」
「え‥‥‥?」
「警視庁の伊丹刑事部長が梅林賢のファンなのです」
「ああ、そうらしいね。阿久津から聞いたよ。……で?」
「あいつは、昨夜、高井戸署から小田原まで梅林賢を送っていくと言い出したんです」
「ファンなら不思議はないな」
「ところが、車中であいつはほとんど会話をしませんでした」
「それでも幸せなんだよ」
「あいつもそう言っていました」
「それがファン心理ってもんだろう」
「わからないんです」
「何が?」
「そのファン心理っていうものが」
「誰かのフアンになつたこと、ないの?」
「ありません」
 佐藤本部長がぼかんとした顔で竜崎を見つめた。
「若い頃にアイドルとか好きになったことはないわけ?」
「ありません」
「好きな歌手とか音楽家は?」
「いません」
「好きな作家は?」
「いません」
「刑事部長、宇宙人じゃないよね?」
「日本人です」
「へえ……。たまげたね……」
「私は何か欠陥があるのでしょうか?」
「どうかね……‐俺、精神科医や心理学者じゃないんでね……‐でもね、欠陥とかそういう話じゃないと思うよ」
「では、どういう話でしょうか」
「関心がそっちに向いていないんだろう。あるいは、まだ出会っていないか……」
「出会っていない?」
「そう。ファンになれる対象と。いい機会だかあさ、北上輝記か梅林賢の本を読んでみたら?」
 しばらく考えてから竜崎はこたえた。
「そうしてみます」
「しかし、不思議だなあ……」
「何がでしょう?」
「さっきまで俺、しょげてたんだけどね。刑事部長と話をしているうちに、なんだか、どうでもよくなってきた」
「そうですか」
「誰かのファンになったことはないと言ったけど、もしかしたら、ファンを作る側なのかもしれないね。周りに刑事部長ファンがいるんじゃない?」
「私は音楽もやらないし小説も書きません」

「そういうことじゃなくてさ」
 竜崎は話題を変えることにした。

(竜崎の息子の邦彦が大学を辞めたいと言ったことについて作家梅林に面会した際に)
 竜崎は邦彦を紹介してから、事情を説明した。
 梅林賢が邦彦に言った。
「ほう。アニメの仕事をやりたくて東大に……。そんな話は初めて聞いたな……。で、早く映画の仕事を始めたいので、大学を辞めたいと……」
 邦彦がこたえた。
「ボーランドの大学に留学をして映画の勉強をしてきました。とても実践的なので驚きまして、今の大学に通い続けることに疑間を持ったのです」
「それで……」
 梅林賢が竜崎に言った。「刑事部長は俺に何を言ってほしいんだ?」
「創作者としての意見をうかがいたいのです」
「物書きと映画関係者はずいぶんと違うよ」
「我々一般人からすれば、どちらも物を創り出すお仕事です」
「じゃあ、結論から言おう。物を創るのに、大学で勉強する必要などない」
 邦彦が言った。
「では、大学を辞めたほうがいいということですか?」
 竜崎は何も言わずに話を聞くことにしていた。梅林賢に意見を聞こうと考えたのは自分だし、大学をどうするかは邦彦が決断することだと本気で考えていたからだ。
 梅林賢が言った。
「まあ待ちなさい。今言ったのはあくまでも一般論だ。小説を書くにしても、映画を撮るにしても、学歴なんぞ関係ない。大学なんて行かなくても立派に小説家になった者はたくさんいる。映画業界でもそうだろう。だがね、小説家の多くは大学を出ている。これも事実だ。
「日本の大学の授業は、実践的ではないので、時間の無駄のように思えるのです」
「時間を無駄にできることがどれだけ幸せかプロになれば痛感するよ」
「時間を無駄にできることが……?」
「大学に通うことの価値って、何だと思う?」
「よくわかりません」
「君はどうして東大を選んだんだ?」
「父に東大以外認めないと言われました」
梅林賢は竜崎を見てから、笑い出した。
「君のお父さんは、本当に面白い人だな」
「言われるままに、たいした考えもなく大学を選んだことも悔やんでいます」
「それ、正解なんだよ」
「え? 正解……?」
「大学に通う価値がよくわからないというこたえも、言われるままに大学を選んだということも。大学なんてその程度のところなんだよ。ただ、俺の実感で言うと、行ってよかったと思う。最大のメリットは、四年間居場所を与えられたことだ」
「居場所ですか」
「立場と言い換えてもいい。何も考えずにいられる四年間というのが、どれほど貴重なことか。別の三百い方をすれば、何でも考えられる四年間だ」

「東大というのは、探せば探しただけのこたえが見つかると、父に言われたことがあります」
「なんだ、意外とつまらないことも言うんだな。こたえなんて見つけなくていいんだ。俺は大学で勉強なんてしなかったし、特に部活に力を人れていたわけでもない。ただ友達と無駄と思える時間を過ごしていただけだ。だがね、その時間があったから俺は作家になれたんだと思う」
 邦彦はしきりに何事か考えている様子だった。

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