2024 冬、函館
仕事が落ち着いて、お休みをもらった。
ひとりでおばあちゃんの住む函館へ行った。2018年以来。
paper shootっていう台湾のトイカメラを持って行ったから、その写真を載せるね。
おばあちゃんの家は、神聖な場所。すみずみまで清潔な空気。なにかの力でいつも守られている。神様に見守られている気持ちになる。わたしはクリスチャンではないけれど、なにかを感じずにはいられない。こころ休まる場所。でも、こんなこと言ってはいけないけれど、すこし息苦しくなってしまう。
だからお散歩に出掛けたんだ、トイカメラを持って。
冬の函館はだれもいない。都心で育ったわたしは雪用の靴なんて持っていない。何度も滑ってころんでしまった。泣きたくなった。
歩きながら北の国からを聴いた。時間がゆっくり流れていく。つめたい風を吸い込むたびに、からだに清潔な空気が行き渡っていく。わたしの名前、北の国からの螢。父が北の国からを愛しているから。わたしはそんな父のこと、ほんとうに愛している。
しずかな夜。
親友に写真を送って、ゆっくり寝た。
つぎの日の朝、わたしは引き寄せられるようにひとりで教会へ行った。だれもいない。聖歌だけがとおくから聴こえてくる。きよらかな光に満たされていく。泣きながら、ひとりで祈った。
おばあちゃんには言っていない。だれも知らない。
おばあちゃんと、カール・レイモンのウィンナーを買いに行く。
お昼は朝市の親戚のお店で海鮮丼を食べた。わたし、函館のひとの話し方ってほんとに好き。やわらかい、静かな話し方。
おやつは千秋庵のどら焼き。夜ご飯はおばあちゃんが作ってくれた、生姜焼きと南瓜の煮物。
その夜、おばあちゃんの家を出て、見送ってもらいながらお別れをした。
わたしが坂を下って見えなくなるまで、暗い中ずっとずっと立っていてくれた。
疲れちゃうからね、おばあちゃんも…もっとゆっくりいらっしゃい、疲れちゃうから…といっていた。
次の日、わたしはトラピスチヌ修道院へ行った。聖ミカエル様の前で泣いた。わたしを導いて、と思った。わたしの前には現れてくださらないのですか、導いてくださらないのですか。
帰りの飛行機は2時間遅れた。時間をつぶすために、なんとなく『マチネの終わりに』を買って読んだ。わたしの偏愛しているブラームスの間奏曲118−2が出てきて、運命だと思ったし、御多分に洩れずわたしのための本かと思った。やっぱり出会うべき本は出会うべきタイミングで自分のもとにやってくるものなのだ。
クラシックギターを聴きながら帰る。
iPhoneで撮った写真を載せて終わりにします。
ここまで読んでくださってありがとう。
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