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1970年代の散文6  逃亡者


逃亡者

薄暗い部屋で、病に侵されたこの身が息絶えるのを、私は喜びと感じなければなるまい。
何故なら息することの悲哀は、死することへの怖れよりも、はるかに耐え難いものであるから。

 晴れやかな娘たちの笑い声に、私は思わず耳をふさぐ。
私には眩しすぎるのだ。

 暗闇の中で、薄汚れた白壁に向かう日々が幾日となく続く。
 虚ろに開かれた私の眼には、追憶と悔恨しかもはや映らない。

「未来という言葉には、希望という香を感ずる。」と誰かが言った。
 でも私には破滅しか残されていない。

 私の記憶の中に生き続ける、数々の忌まわしき出来事。
 其れから逃れようとこの地に辿り着いたにもかかわらず、時の流れは無慈悲にも私を、過ぎ去りし想いの中に引き戻す。
 この身の自由と引き替えに、精神の自由を、あの冷たい独房の中に残してきた男の言葉などに、誰が耳を傾けようか。

 何故に私はこの地に生まれ落ちなかったのだろうか?

過去に怯える放浪者、・・否々!意気地なしの逃亡者でしかない。

 四半世紀の歩みに、私の両足は膨れ上がり、もはや歩みだそうとはしない。
「地面に腰を下ろしてほんの少し休め。何をそんなに慌てて逃げるのだ」

波立つ私の心と裏腹に、この薄暗い部屋はあまりにも静かだ。
静寂、夜の静けさ、精神の静けさ、死の静けさ、
死が近付いて来ている。

 一陣の風に、この身が宙に舞う。まるで木の葉のように。
 
 感覚がなくなる。
 
 私は あと一言、あと一言何か貴女に言わなくては・・・・・

                     
1974/ à Paris 一陽 Ichiyoh

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