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焦燥の扉

焦燥の扉
 

 大地を沸騰させるような、激烈なる夏の陽光に射られ、石灰質の橋梁の下を歩み続ける男がいた。

 蒼白な男の顔からは、無為なる時の流れへの、重くけだるい憂愁の想いを読みとることができた。白霧の中を漂うような、不明瞭なる生への絶望と、悪寒を伴う対象のない怒りは、男の脆弱な内蔵をえぐり、起立していることさえ危ういものとしていた。

 湿った土塀を木の槌で打つような鈍く低い音が、男の体内に不規則なリズムをもって鳴り渡る。半透明の不思議な夏ゼミのように、空虚なる男の体に堆積されたこの陰鬱なる大気の振動は、やがて、半開きになった男の口から外界へとこぼれ出る。

 灼熱の濁った天空に舞遊ぶ純白の鳥たちは、肉体の腐敗を促すような不快なる音に聴覚を撃たれ、平衡を失ってばたばたと焼けただれたアスファルトの地面に落下するのであった。

 男のはかなげな呼吸は、しかし冥境への道を歩むことを拒んでいた。生への絶望は、同時に限りなき生への渇望でもあった。
・・・閉じられた瞼の裏に潜む深淵なる闇の世界。・・・
男の憔悴した魂は、底なしの闇の中に沈まんとしていた。
現世の空騒ぎは、病んだ男の体をさらに打ちのめし、思考の混乱は、ただれた胃壁に強烈な酸性液を塗布し、黒く濁った血液を喉元へ逆流させる。

男の精神は、荒れすさむ暗闇の海に放たれた小舟の中で、激しく翻弄され、やがて一粒の涙と共に、光り届かぬ緑の海底へと沈んで行くのであった。
 
 生のカオスの中に、男は身悶える。
 
半世紀もの間、絹の糸を紡ぐようにして持続させてきた生の軌跡が、腐食した鏡の中に映し出されるのを観て、男は小さな叫び声をあげた。混濁の鏡の向こう側の世界にいる男は、鋭利な刃物で引き裂かれボロボロになった衣をまとい、すり減った黒革の靴を引きずりながら、久遠の彼方を見つめ、ゆるゆると重い歩みを運んでいるのだった。

 破れた衣から突き出た螺旋の針金は、体内深くに根を張り、遠く流れ去った時の遺物をその枝にからめ取る。
 打ち捨てられた織機のそばに、雑然と散らかる忘却と悔恨の糸は、男の足元に幾重にもまとわりつくのであった。

 水分を失った黄土色の皮膚は、ボロボロと剥がれ落ち、聴覚と視覚の衰えが男を苛立たさせる。不定形な悲しみがそこにあった。

気管を浸食する粘液が気道を狭め、不自然で痛々しい吸気の音が、男の体細胞の崩壊を早める触媒となっていた。
 弾力性を失った血管を流れる体液は重く濁り、体内で休むことなく打ち続けてきた鼓動も、不規則に、さらには弱々しいものとなっていくのを、男は言いしれぬ不安の中に感じ取っていた。

 やがて男は自らを語る言葉すら失っていくのであった。
 無彩色の想いだけが男を取り巻き、四肢を縛め身動きのとれぬものにし、男の眼前にハデスの国の入り口をポッカリと開けてみせるのであった。
 男はもはやそこへ踏み込むことに抗うことが、不可能であるかに思えた。
精神と肉体の崩壊は、男の生への渇望すら無化するものであった。

 男は静かに呼吸を止め、冥境の入り口に立つ。
 緩慢な動作をもって、鋭利な刃を首筋にあて、ゆっくりと生の軌跡である道のりを振り返る。
 しかしそこには、荒漠とした虚妄の空間しか残されていなかった。男は自らの存在する場が、この世界にはないことを漸く理解するのであった。

 手にした刃に力を入れ、首筋を斜めに切り裂く。
 華やかな紅色の体液が、あたりを染めることを、男は想い描いていた。
 せめて生の終焉が実体のある美しさに彩られることを、男は望んでいた。
 だが男の体から流れ出る液体はなかった。

 頭骨の内側に広がる、心地よい空白感が、男の五体の力を奪い去り、砂の塑像が一陣の風に崩れるように、緩やかに大地に倒れ込んで行く。
 絶対なる闇の中に包まれた男は、喪失した意識の彼方に、自らを取り巻いていた白日の世界が投影されているのを、不可解なる「混乱の時空」の中で感じているようであった。

 過ぎ越し日々、暴虐・虚偽・欺瞞・欲望・搾取の渦巻く現実の中で、巨大な魔の手による理不尽な力への、終わり無き抗いを男は繰り返していた。抗っても抗いきれぬほどの大きな力に、肉体は押し潰され、傷つき、時に強靱であったはずの精神すらも、苦悶の病に引きずり込まれ、耐え難き日々を過ごさざるを得なかったのである。
 だが繰り返される抗いの中で、その意志は増幅され益々強固なものとなっていった。
 何時崩壊するか分からぬはかなき生を紡ぐためにも、収奪と暴虐の限りを尽くすこの魔の力と対峙する必要が男にはあったのだ。

 紡ぎ続けた生が、やがては自らに残酷に報いることなど、男は知るよしもなかった。外界の力に押し潰され、傷ついた肉体ではあったが、それは時の経過と共に再生されるのが常であった。
 だが半世紀近くの生の持続、生の流れの中に、抗しようのない肉体の崩落と、それが再び元には戻らぬことを体感した男は、自分でも理解し得ぬほどの、焦燥の海の中に投げ込まれたのであった。
 生への不明瞭な絶望と言いしれぬ不安は、このときから始まった。
 男は幾度となく肉体の再生を試みたが、自らの力ではもうどうすることもできなかった。

 闇の中の男は、もはや自分の選択が自らの意志に適っていたものかどうか、判断のかなわぬ処にいる。だが今大地に横たわる男の顔には、生の呪縛から解き放たれた、安堵の微笑みを観ることができるのであった。
 外界に夏の虫たちが啼き騒ぐ音も、繰り返される日常の喧噪も、男の耳には届いていなかった。
 
 男は自らが生み出した静寂の中に、身を浸していた。

 
 男の旅立ちを知る者は誰もいなかった。

 幾年か後、朽ち果てた男の肉体が、風と共に大気の中にかき消えてしまったことも、誰も知らない。

 男がこの世に居たのかどうかも、人々は知らない。


・ 
 人々は知らないのだ、鏡の向こうに男が居ることを。

                  Paris~Tokyo/ 一陽 Ichiyoh

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