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浮遊する男

浮遊する男
 
 大都会の大きなカフェに座っていた。

 もうどれほど其処に座っているのだろうか。自分を取り巻く風景も、街路を忙しく行き交う人々も、彼の網膜には曖昧な陰影としてしか、映し出されてはいなかった。

 意識は其処に無かった。何かまとまりのない想いが頭の中をグルグルと駆け回り、自分自身を、なにやらはっきりとしない、頼りなげなものとしてしか感じられていなかった。

 男は、断片化された時間の流れを、不連続につなぎ合わせた日常の中に生きていた。その為、いつも自己不在の感覚に押しつぶされそうになっていたのだった。
何かを考えようとすると、次から次へと止めどなく想いが転換していく。
まとまりのない思考の断片が、あちこちへ撒き散らかされ、振り返ってみると、結局何も考えていなかったことに気付かされるのであった。

 自分が何者であり、何を為そうとしているのか・・・。

 何一つ解らぬままに、漠然と自問する日々が幾日と無く続く。しかしその問いすら、本当に答えを出そうとして問うているのか、男には解らなかった。
 
 思考の隙間に睡魔の媚薬がふりまかれ、まどろみの世界へいざなわれる。
 椅子の背もたれに体をあずけ、重い瞼を閉じる。すると、今まで聞こえていなかった遙か彼方の車のエンジン音や、樹々にさえずる小鳥の鳴き声が、不意に耳に飛び込んでくる。
 しかし、それ以上は何も起こりはしなかった。やがて、カオスの中から偶然に抜け出したかのような静寂に、己の身が包まれていくのをおぼろげに感じながら、薄れていく意識の行き先を、追い求める。

 どのくらいの時が経ったのであろうか。とてつもなく永い時を経たのか、あるいは一瞬のことであったのか。

 夢幻の中に目覚める。

 肉体は地面を離れ、店の中を浮遊する。
 だらしなく椅子に抱かれて眠る姿を、浮遊する男は、冷ややかに眺めた。

 斜め前に座っている、白い腕を露わにした美しい娘は、宙に浮かぶ男を見ても少しも驚くことはなく、優しい笑みを投げかける。
彼は少し気恥ずかしく、曖昧に微笑み返すと、カウンターの近くへと体を移動する。
 エプロンをした女主人が、カウンター越しに客と大きな声で話をしているのだが何を話しているのか、少しも理解することができない。

 天井を見上げると、其処にはにぎやかな天界の図が描かれており、天使達が飛び交っている。
 天界に舞い遊ばんと、天井に近づく。するとたちまち天井は消えて無くなり、壮大な蒼空が広がるのであった。

 空に向かって上昇する。

 カフェの中の人々が全て見渡せる処まで昇り、一度大きく輪を描いて旋回し、さらに天空の彼方へ向かって上昇を続けた。
 街全体を見下ろすことのできる高さまで昇りつめ、一気に下降する。
 
 突然、男は椅子から立ち上がった。
 ふらふらとおぼつかない足取りで、テーブルの合間を歩む。椅子の脚に躓き、思わず娘の足下に倒れ込む。娘は真っ白で華奢な手を差しのべるが、それにも気付かず、のろのろと立ち上がり、まるで酔っぱらいのような足取りで、カフェの出口へと進み、喧噪の街中へと、身を滑り込ませて行ったのだった。

 男のことなど、誰の記憶にも残っていなかった。いや、端からこの男のことなどに、誰も興味は示していなかったのだ。
 
彼の男の去ったカフェでは、彼とは無関係に、いつもと何も変わらぬ時が流れていくのであった。
 
à Paris-Tokyo 一陽 Ichiyoh

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