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「自分の感受性くらい」この言葉はいつも私を奮い立たせる

つい先日、詩人・茨木のり子さんについて書かれたクローズアップ現代の記事に触れる機会がありました。

そして久々に「自分の感受性くらい」に再会しました。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子「自分の感受性くらい」

今読んでも、私の心の一番奥に剣をどんっと突き刺されたような気持ちになりました。

若い時、あれはいつだったか。
多分、20代前半だったと思います。

私は美術科の大学に通っていたのですが、その時教授に言われた言葉に衝撃を受けていました。

「感性は20歳で止まる」

え?もう、私の感性は止まってしまうの?
これ以上、発展させていくことが出来ないとしたら、どうしたらいいの?
どうすれば、それまでに感性を磨きあげられるの?

そんな迷いや焦りを抱えていた時期、この詩に初めて出会いました。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

今のままではダメだぞ、と叱咤され、
とにかく走れ、全力で向き合え、と奮起させられた
ように感じました。

この詩に再会した時、そんな若かりし日の気持ちと共に、また改めて茨木さんの言葉に叱咤激励されたような気持ちになったんです。

毎日に忙殺され、好きなものや価値観も見えなくなっていました。
そんな私の世界は、なんだかモノクロの世界で生きている感覚でした。

それは、私自身が感情が揺さぶられ、自分自身の弱い部分を直視する勇気がなかったから。
そうならないように選択をしてきたから。

いつもと同じ人に会い、同じ日常を送り、変わりない毎日を過ごすことで心の安定を保っていました。
けれども、それでは心動くことは起こりません。

そのことを、生活するためだから、大人になったから、そうゆう時代だから、と周りのせいにしていたのかもしれません。

そのことを思い出させてくれるために、この詩はまた私の目に触れるところへ現れたのかもしれません。


「あなたのJOYは何?」

そう聞かれて、私は答えることができませんでした。

誰かのためではなく、純粋に、私自身がドキドキわくわくすること。
それって、何なんだろう?

人生を振り返りながら少しだけ見えてきたのは、チャレンジしている時の私。
何かに挑戦し、そこへ飛び込んでいる時の私は、他者を気にせず私自身の心の声を聴いて動けている気がしています。

私の中のJOY=感受性を探す旅は、まだまだこれから。
どんなものが見つかるのかな?
それを楽しみながら、毎日の感情観察を続けていきたいと思います。

そして、JOY=想いはきっと、どんな人にも、商品にも、企業にも。
きっとあるもの。

それを見つけて、必要としている人に届ける。
そんな仕事をしている自分が未来で生きていますように。

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