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アテトーゼ型脳性まひの老化を経験する


始まり

その始まりは、50代に入って間もない頃だったと思います。
私は脳性まひの重度障がいがあり、1日あたり10時間以上の介助を受けて生活しています。
外は電動車椅子で移動していますが、家の中は膝歩きや四つ這いで過ごしていました。床にクッション性の高い敷物を敷いて、膝を痛めないように工夫して動いていました。
ある日、いつものように動こうとすると、動くと意識してから足を動かすまで数秒かかるという現象が起こりました。
今までならば無意識に動けていたのに、脳と体が繋がらなくなっていくような違和感でした。
介助の方々にも動くが鈍くなったことを話してみましたが、はたから見ると何も変化はないということでした。
念の為にCTを撮ってみたのですが、異常はないとのことで、ほっとした自分がいました。
その後、体の違和感は続きましたが、体の機能自体は変わりなく動きました。なので、これが老化していくということなのだろうと思い、あまり気にすることもなくなりました。

コロナにかかって

初めの違和感から6年ほどたった2023年の夏、私は初めてコロナにかかりました。
症状はかるく、熱は2日目にはすぐ下がり、他の症状はそれほど出ませんでした。発症した時に足が動きにくくなり、他の病気を疑ったりしましたが、機能はこのときはすぐにもとに戻りました。
(ちなみに後遺症の咳は2ヶ月ぐらい続きました)
コロナあとには体が動きにくくなると伺っていたので、少し気になってはいました。
でもしばらくは体の調子もそんなに悪くはなかったように記憶しています。

電動車いすの運転

コロナにかかったその年の秋ごろ、ちょうど後遺症の咳が治まった頃に、いつも無意識にできていた電動車いすの運転に変化が出てきました。
私は私鉄に近いところに住んでいますが、その関係で徒歩圏内に踏切がいくつかあります。
いつもなんなく通ってきた踏切でしたが、ある日から運転する左手がジョイスティック(電動車いすの操作部分。片手や足で押したり回したりして操作します。)を離してしまうようになったのです。
19歳から電動車椅子に乗り続け、40年近くの間本当に無意識に自然に運転できたものだったので、手が離れてジョイスティックを持ちづらくなってしまったことはとてもショックな出来事でした。
一度手が離れてしまうと、次回もまたそういうことが起こるのではないかと感じて、踏切のところに来ると手が離れてしまう現象が頻繁に起こるようになりました。そして踏切だけでなく、横断歩道や、電車に乗せてもらう時の昇降用スロープの途中でも手が離れてしまうようになりました。
幸いなことに介助のかたがたが電動車椅子使用者へのサポートに慣れている方ばかりだったので、運転がおぼつかなくなってきていることを打ち明けて、危ない時にはサポートをお願いすることができました。

アテトーゼが弱くなる

この時期あたりからおなかの緊張が弱くなってきたことに気がつきました。
アテトーゼ型脳性まひは、強弱は人それぞれですが、全身に不随意運動(アテトーゼ)の症状が出ます。自分の意思とは関係なく、筋肉が動いてしまうのです。休みなく動いたり、音や触覚に過敏に反応して体が動いてしまったり、自分でも思いもよらないような体の動きを体験してしまったりします。ずっと動き続けてしまったりもするので、筋肉の痛みが出たり、体に力が入った状態が続くことで呼吸が浅くなったりもします。私も軽い方ではありましたが、記憶がある時からずっとアテトーゼがありました。
それが、お腹がある日とても楽になり、体が震え続けたり力が入り続けたりすることが途切れるようになりました。呼吸も幾分深くできるようにもなりました。
アテトーゼの症状が弱くなることは、いいことばかりではありませんでした。
お腹の緊張が弱くなったことで、体幹が弱くなっていきました。車椅子の乗り降りもだんだん難しくなったりしました。
自分の筋力が弱くなっていくことを体感しながら、アテトーゼが実は私の筋肉を無意識に鍛えてくれていたことを知ったのです。
絶えず無意識に筋肉が緊張している状態というのは、痛みも疲労も伴い、時には骨を痛めてしまうこともあります。眠っている間は不随意運動は出ないと言われていますが、起きている間はずっと痛み等の感覚を味わうことになります。なので、アテトーゼの症状がなくなったら体は楽になるのだろうとずっと思っていました。
でも実際症状が弱くなってみると、それまで四六時中不随意に動いていた筋肉はみるみる弱くなりました。当初は原因がわかりませんでしたが、体重は2年ほどかけて3キロぐらい徐々に減っています。アテトーゼが筋肉を自然に鍛えてくれていたのだと、この時期に気がついたのです。自分でその分を鍛えようと、呼吸から見直していったのもこの頃です。この時期はまだ体が思うように動いていたので、簡単に物事を捉えていました。少しの呼吸法でどうにかなると思っていたのです。

トイレで転ぶ

年が明けて、2023年1月、ふと油断してトイレで転び、お腹を強く打ってしまいました。幸い骨折はしませんでしたが、ひどい痛みがしばらく残りました。
おなかをいためるとしばらく動きづらくなります。以前に一度お腹を痛めた時は、自分でトイレに行けなくなり、夜はしばらく紙おむつをして過ごしました。
私は自立生活を始めて三十余年になりますが、夜の宿泊介助を定期で考えたことはありませんでした。骨折など体が動きにくい時は、おむつをすることでしのぎました。
今回もお腹を痛めたことで数日、夜はおむつで過ごしたように思います。
トイレで転んだのは、今思うと少しずつ機能が落ちていったことが原因だと感じています。アテトーゼが出なくなったことで、体中の筋力、特に体幹の筋力が弱くなっていっていたのだと思います。

訪問リハビリを受ける決心をする

体の機能が変わっていくことをひしひしと感じたこの月、本格的にリハビリを受けようと決心しました。
実はこの年から2年前の2022年、体調の変化を感じて専門的な検査がしたくなり、幼児期にお世話になった東京都北療育医療センター(旧北療育園)で検査を受けました。ここを選んだのは、小さい頃過ごしたところということと、家から比較的近く通いやすいことでしょうか。脳性まひの知識についても、他の病院よりもあるのではないかと思っていました。
とはいえ、退園してから50年以上経っていることで、当然ですが私の過去の医療記録は残ってなく、新規の扱いになったのはいうまでもありません。
その病院は最初は内科から診察を受けることが決まりのようでした。私は内科も担当している脳神経内科の先生を希望しました。
この年、血液検査、首、肺、お腹のレントゲン、頭のct、心電図、尿検査をしました。結果は少し意外で、腸の機能が落ちていることと、嚥下障害が出始めているという指摘でした。嚥下等の問題を軽減するために訪問リハビリを勧められたのです。
この頃の私はごく普通に家の中を這いずり回っていたので、訪問リハビリの話はあまりにもピンときませんでした。
そのようなことから、リハビリではなく、訪問看護を月一ペースで受けることにしたのです。
約一年半お世話になったのですが、この期間にコロナにかかり、少しずつ体の変化が起こることになりました。知人の勧めもあり、リハビリを得意とされる訪問看護ステーションを探し直してもらうことにしたのです。
実際には知人が勧めてくれた事業所とは契約が叶わず、他事業所と契約することになりました。
新しく契約した訪問リハビリの理学療法士のかたとは相性が良く、相談できるかたができたことに感謝しています。
私が受ける訪問リハビリは週一回40分間です。ストレッチとその時必要な運動、普段の動きについての質問に答えていただいたりしています。
私は、リハビリの時間内で運動することも必要なのかも知れませんが、日常生活の中でどのように体を動かすかが大事なのではないかと考えていました。お世話になっている理学療法士のかたは、そこのところを理解してくださって、私の質問や確認にも付き合ってくださっています。

機能低下

2024年3月下旬ぐらいから、また徐々に機能が変化していきました。
訪問リハビリは2月から始まり、その1ヶ月はまあまあ、まだ体が動いたのですが、3月下旬ごろから機能低下が加速していき、4月になると一気に動けなくなりました。
膝歩きをするとすぐに前につんのめり、転んでしまいます。両手は思うように動かないので、つんのめると顔や頭を打ってしまいます。どこに倒れるかわからないので防ぎようもありませんでした。両手が上に上がってしまうので四つ這いではうことはできなくなりました。膝歩きで部屋を歩こうとすると、5m行くのに20分以上かかります。
一番困ったのは、転んだ後に自分で起き上がることが難しくなったことです。腰がたたないのです。一度転んでしまうと、うつぶせから四つ這いになるまで10分以上かかり、起き上がれる経緯もまるで偶然というか運としか思えないようなかたちで起き上がると感じてしまうほどになかなか難しくなりました。
正座になっても少しの刺激で倒れてしまいます。
両足は力が入りにくくなり、まるでタコの足のようにゆるゆるになってしまいました。なので電動車いすに乗るのが難しくなりました。
幸い、電動車いすを壁に垂直に近い形でおくと、壁に手を突っ張ることで車いすにのれることが、長年お世話になっている車いす屋さんからのアドバイスでわかり、練習すればスムーズに乗り降りできる可能性をもらいました。
体の機能がすっかり変化してしまったことで、私は否が応でも自分の体、自分の生活と向き合わなくてはいけなくなりました。長年生活してきた流れも、介助のあり方も、これからどう生きていくかということも、全て考え直していくことが必要になりました。

思い出の2ヶ月間

2024年4月、5月は、変わってしまった体とどう付き合うか模索する時間になりました。
まず、私が考えたのは、介助の方々にもう少しだけ深く関わってもらうことでした。
できないことは介助のかたに頼んでやってもらいながら生活してきたこの30余年でした。人より制限のある体ですが、自分でできそうなことはできる限り自分で言っていたところはあったようです。なのでいざ自分の体が思った以上に動かなくなった時に、何をどう介助のかたに頼めばいいのかわからなくなってしまいました。
実際体が思った以上に動かないので、少し体に触れてもらう介助が多くなるのですが、いつもと違う介助を頼むたびに、「この介助を頼むことで、この人の体は傷まないだろうか」という思いを持ってしまうのです。そう思うと、頼まなくてはいけない介助を口にするのがとてもしんどくなってしまうのです。
3月まではそれでも体がある程度動いたので、まだできることが多く、自分でやってみるという気持ちを貫くことができたのですが、4月に入ったこの時はもうそううまくいかなくなっていました。なので気持ちを少し変えて、あえてたくさん介助をお願いしてみることで、もう少し手を借りることを増やしてみようと決めたのでした。
私が一人でできにくくなったのは、部屋の中の移動と、転んだ時の起き上がり、電動車椅子に乗る時、電動車いすの運転中に利き手がジョイスティック(運転するレバー)から頻繁に離れてしまうことでした。外出先で多目的トイレを使うことも、介助のかたにどう関わってもらったらいいかわからなくなってしまいました。
利き手の左手があまり動かなくなったので、さまざまな作業が自分でできなくなりました。携帯の充電から夜のトイレの作業まで、できないことはたくさんありました。

介助のかた一人一人と話す

私が戸惑ったのは、今私の介助をしてくださっているかたがたに身体介護を頼んだ時、対応してもらえるのかということでした。
今までの私の介助は、体を抱えたり持ち上げたりという、実際に体に触って力をもらう介助は少なかったのです。お風呂で頭や体を洗ってもらったり、着替えさせてもらったり、トイレ等で車いすから移動する時に腰を抑えて支えてらうことはありましたが、体が動く部分が多かったのです。
介助のかたが対応できるかという意味は、「介助の作業でその人が体が痛くならないか、無理をしないか」という意味です。私はそこがとても気になってしまったのです。
なので、一人一人の介助のかたと話していく、確認していくことにしました。
例えば、転んでしまった時に起き上がることを助けてもらうには、うつ伏せになった私の腰を持ち上げて正座になることをサポートしてもらうことが必要でした。
また、床を膝歩きで移動する時の時間を短縮するには、両手を引いてもらうことが必要になりました。
一人一人に頼んでみると、難なくできるといった人と、私が望むやり方ではできない、またはできにくいと感じた人に分かれてしまいました。電動車いすに乗る時のサポート方法も、腰を支えてもらうことをお願いしてみましたが、サポートの際、中腰になることの大変さが浮き彫りになったりしました。
また、人によってはその人の体の弱い部分に負担がかかってしまうこともわかりました。
体の機能が落ちてしまった現実の中で、どのように一人ひとりの介助のかたに介助を頼んでいったらいいか考えていくことが、私の課題になりました。
私は介助で関わってくださる数人の人たちに、一緒に考えてほしいということを伝えて、意見交換をしながらその人と私の中でのいい方法を考えようと努力しました。みなさん協力的で、とてもありがたかったと思っています。

日々の考え方を変える

毎日自分の体に向き合っていく時に、どう考えて生活していくか、体が動かなくなった時に少し考えて生きることにしました。
まず、人生の最期を迎えるまで、できることなら少しでも部屋の中で自分で動きたいと思いました。
寝返りでもなんでもいいから動ける部分があったらどんなにいいかと思いました。
次に、毎朝起きた時に、「今日が一番障がいが軽い日」と思い、その日できることはできるだけやろうと心がけました。しばらくは体と付き合うことに精一杯ではありましたが、その日の予定はこなせるように時間配分をいつも考えていました。
介助のかたに求めることを次の三つにしました。

 清潔にしてもらうこと/
 左手が使えなくなったということで、夜は紙オムツで過ごすことが日常になりました。臭いのこともあるので、洗濯等は以前より頻繁になりました。

 美味しく食事をとりたい/
 私は食べることは大好きなので、これは自分で意識しなくてもちゃんとできるとは思ったのですが、体が思うようにならないことで食べることを怠らないように気をつけようと思いました。

 より簡単な介助の仕方を一緒に考えてもらう/
 思うように体が動かなくなったことで、介助をどうやってやってもらえばいいか、見直さなければならなくなりました。今までの生活は、小さい頃から変わらない障がいを前提に、生活の仕方や体の動かし方を考えて、介助を頼んでいました。障害が変化するということは、私自身も自分の体の状態がわからなくなるといことを知りました。私自身も初めての経験だったため、何がより良い介助のやり方なのか見失ってしまったのです。そのため、私の視点から介助のやり方を考えるだけではなく、介助のかたからの目線で介助を考え直すことも必要だと考えたのです。

これらのことは自分の心の中で決めたことなので、このことについて、直接はあまり話した人はいなかったのですが、たまたま話した介助のかたは、「いいと思います」といってもらったように思います。
簡単な介助を考えていくことは、私にはとてもとても難しいことでしたが、毎日どのような介助がより良いやり方か考えていくことが、自分の体の状態に集中することよりもずっと良かったのではないかと今は感じています。そして、意見や提案をしてくださるかたがいてくれたことにとても感謝しています。

苦しかったこと

物心がついた時には、私の体には脳性まひという障がいがありました。60年近くこの障がいと生きてきたことで、さまざまなことを体験し、いろいろな感情を味わいました。障がいがある体で経験できることは全て味わったと、たかを括っていました。
今回、体が思うように動かなくなったことで、この障がいのある体でもまだ味わっていない感情があるんだと思い知ることになりました。
今まで動いていた体が突然動かなくなっていくということは、本当に悲しく、悔しく、辛いものなのだと思いました。つい最近まで、制限がありながらも無意識に体が動き,叶っていたたくさんの日常がありました。その時間が本当に幸せな時間だったことを知ったのです。
動かない体をゆっくり動かし、どうしたら動きやすいか、体と向き合っていくことは、とてもイライラして、意地がやけるものでもありました。真夜中にベッドの前で転んでしまった時は、自分で起き上がってベッドに横になるまで5時間かかったこともありました。その時の気持ちは、とても悔しいものでした。少し前までは難なくできていたことなのに、という気持ちがどうしても込み上げてくるのでした。

気がついたこと

この2ヶ月間で、気がついたことがありました。
まず、これまでの私の体は、本当によく動いてくれていたということです。
確かに、脳性まひという障がいは、私の体のさまざまなところに制限をかけていたので、障がいのない人と比較したら自分でできないことがたくさんありました。
でもよく考えてみると、無意識に動かせる体の機能はなかったわけではありませんでした。部屋中四つ這いや膝歩きで動き回っていたし、電話の受話器も握ることができたし、携帯の充電も何も考えずに繋ぐことができていました。私は日々無意識に体を使ってできることをしながら、体以外のいろんなことで悩むことができていたのです。それはなんと幸せな時間だったのだろうと思いました。無意識に体を動かせる経験をしてきたことに、本当に感謝しました。私は本当に自由な日々を過ごしてきたのでした。
次に、障がいが重くなっていくこと、日々自分の体の様子が変わっていくことの悲しみを、私はわかっていなかったということです。自分が障がい者でありながら、身近な人たちがその悲しみに苦しんでいるかもしれないということを本当に知らなかったんだと思いました。知らないゆえに無神経なことをしたり、言ったりしてきたかもしれないと思いました。
体の機能が落ちて、以前とは違う動きをする自分を知ることは、本当に悲しく、その悲しみがとても苦しく感じられました。私は今回の機能低下は老化の一種だと自己分析していたので、ある程度冷静にはなっていたと思います。でももしももっと若い時に今回のことのようなことが突然起こったら、地道に向き合えたかどうか自信はありません。
子どもの時からさまざまな障がいある友達に会ってきたのに、私はちっとも目の前にいた友人の気持ちを知ろうとはしていなかったのだと気が付きました。
ほんの少しでも今回知ることができて、新しい感情を感じられたことは、本当に良かったことなのだと感じています。

プロテインと栄養サプリ

体の急激な機能低下が起こってから1ヶ月以上経った2024年5月中旬以降、この頃はまだ本当に大変な時期でした。部屋からトイレまでの5m弱を移動するだけで20分以上かかるため、時間を考えながらトイレに行くようになっていました。週一回の訪問リハビリは続いていましたが、リハビリの前にトイレに行くと部屋まで戻れずへたってしまって、リハの先生に助け起こしてもらうこともしばしばでした。
介助のかたが帰られた夜に玄関の鍵をかけに行くこともすごく時間がかかるため、スマートキーに切り替えました。私の家はリビングに使っている部屋と寝室とふた部屋あるのですが、トイレに近い寝室で多くを過ごすようになりました。体を動かすことも大事なのですが、動くと体力も使うようでした。なので、むげに消耗させないことも必要でした。必要な動きはしても、省略できることも考えながら、どう体を動かせば動けるか、その時その時の介助のかたに何をどのような方法で関わってもらうか、頭の中はそのことばかりでした。
そんな日々を送る中、ある晩、夕飯を食べた後の方が食べる前より動きやすいことを発見しました。空腹の時にお腹に力が入らなくて動きづらくなることは自覚していました。夕飯に肉類を食べると比較的動きやすいことにこの日初めて気がついたのです。
この時、ふと、数年前に年配の介助のかたが「タンパク質は多く取った方がいい」とおっしゃっていたことを思い出しました。もしかしたらこのかたも、私ほどではないとは思いますが、ご自分の体の動きを気にされていたのかも知れないと感じました。
次の日から食事を見直し、卵やお肉、魚、大豆製品をより多く取れるように考えるようになりました。
これまでは野菜を主に摂取してきたので、卵やお肉をたくさん食べることはとてもしんどく感じました。なのでふと、プロテインを飲んでみることを思いつきました。
私は2023年の夏から、家の近くにある整形外科にも週一回通い、リハビリで肩や首のマッサージをしてもらっています。そこのリハビリの先生にプロテインのことを教えてもらって、手頃な値段のホエイプロテインを飲んでみることにしました。
最初は既定のスプーンに一杯のプロテインを水に溶かして朝食前に飲み始めました。
飲んでも最初はそれほど体の変化はなかったのですが、月一度私の体を気功などを使って施術してくれる友人に話すと、
「タンパク質を摂ると体が動くとわかったならば、そしてプロテインを飲み始めたなら、規定量の三倍飲んでみたらどう」
と提案してくれました。
翌日から、規定量の三倍を水に溶かして飲むことにしました。
プロテインの他に、2年前から飲み続けている栄養サプリがあります。
un'sボディケアというものです。
その頃少し調子を崩して、栄養が足りてないとわかり、習い事のお師匠さんから、「少し高いけれど試しに1ヶ月だけ飲んでみたら」と教えてもらったのです。
規定量を1日一回飲むと、数日で体調が改善ました。
ただ確かに高いので、計量スプーンを小さいものに変えて、1ヶ月分を3ヶ月間にのばしてちびちびとケチくさく飲み続けていました。
そのサプリを思い切って規定の量飲むことにしました。
プロテインと栄養サプリを真面目に飲み始めると、数日でお腹に力が入るようになりました。不思議なくらいフワフワしなくなりました。
歳をとるとタンパク質が必要になるとよく言われます。まさにそれを実感した出来事でした。

回復していく機能

2024年6月上旬、プロテインを既定のスプーンに三倍量、栄養サプリを規定量、朝食前に摂取することで、体は少しずつ動くようになりました。
納豆や豆乳、豆腐製品、ヨーグルト、肉魚。体質的に食べられるタンパク質含有製品はなるべく口に入れるようにしました。プロテイン入りの栄養補助食品もいろいろ試してみましたが、食品類はあまり私にはピンと来なかったようです。
この月、特別なことはしていませんが、思いつく限り書いてみます。

  1. 週一回の訪問リハビリ

  2. 週一回の整形外科リハビリ(マッサージとホットパック)

  3. 週一回のプールスクール

  4. 毎朝の入浴

  5. 毎日の電動車いす乗り降り

  6. 毎回の部屋の中の移動(膝歩きと四つ這い)

できる限り入った予定は断らないように、そして、今の体力に見合った予定を考えていました。
この文章のはじめの方にも書きましたが、私が持っていた心持ちは、「今日が一番障がいが軽い」というものです。「今日が一番若い」をもじったものです。
そしてできるだけ、今日会う人のこと、関係する人のことを考えるようにして、自分の話をすることを抑えました。(それでもたくさん話してしまったとは思います。皆さんにはたくさん話を聞いてもらいました。)
上記書いたことは、特別なトレーニングではなく、普段やっていた体の動きをそのまま継続して取り組んだだけだったのですが、総合的に良かったのか、私の体は徐々に筋力のバランスがまどってきて、月末には昨年までの動けていた頃と比べて20%ぐらいは動けるようになっていました。
脳性まひのアテトーゼの症状が緩和されたことで体幹が弱くなったかも知れないという仮説は消えなかったので、訪問リハビリの先生が持ってきてくださるバランスクッションをネットで購入し、動画などを楽しんでいる時間にクッションに座り、「ながらリハビリ」をすることをやってみました。思った以上の効果があり、体の動きは7月下旬にはあと1割ほど上乗せで戻った気がします。
この間関わってくださった介助のかたや、マンツーマンでついてくださるプールスクールのかたがたに「あの1ヶ月の出来事はなんだったの?」と言われるぐらい、私の体は動くようになれたのでした。


現在ーー30%から40%にする生活

全てが総合的に機能回復に繋がった、この原因の中に、毎日の「介助を受ける生活」があったと思います。
毎日違うかたが介助に入ってくださる生活をしていますが、先にも書いたように私の介助は以前からあまり身体介護のない介助内容だったようです。
トイレ介助も食事介助も入浴介助も着替え介助もしっかりあるのに関わらず、体を持ち上げたり直接体に触れる介助が少なかったのです。
今回私が悩んでしまった一つに、どうやって、どんなふうに身体的な介助を介助のかたに頼んでいこうかということでした。
私の介助に入ってくださっているかたがたは、同年代のかたが多く、人それぞれ弱いところを持っていました。身体介助がその人その人にどの程度体の負担があるのか、未知数でした。
私が一番動けなくなった時にやってもらいたかった介助は、膝歩きの時に前から手を引いてもらうことと、転んでうつ伏せになった時に正座の体制に体を戻してもらうことでした。それ以外にも、腕を引っ張って便座からおろしてもらったり、電動車いすから手動車いすに乗り換える時のサポートなどが必要になりました。
介助が大丈夫なかたもいらっしゃいましたが、自分の体に負担を感じる人もいらっしゃいました。
一人一人の方と話し、体の無理はないか、どういう方法ならば介助できるか、一緒に考えてもらいました。一人一人状況が違うため、私もその日によって体の動かし方が違いました。
それが結果的に良かったのではないかと今は考えています。もし私の望む身体介助を全員ができてしまっていたら、互いの試行錯誤の時間はなかったからです。
もともと自立生活センターの介助は、「一番いい介助の方法は本人が知っている」という考え方で「本人がやり方を伝える」という介助だと認識していました。今回、私はその自分の考え方を試された気がしています。
本当に体がきつい状態になった時、それを冷静に観察して自分一人で分析して介助の仕方を伝えることは、本当にしんどいことなんだということもわかりました。
今回少し私が折れて、介助のかたからの提案を少しでも受け入れられたことは、本当に良かったと思っています。
そして今回は、介助のかたの体の都合でできないことも受け入れたことで、では今の自分がどのぐらい体を動かせるかということを毎日考えながら動いていました。
もう一つ大事なことは、体か動かなくなって毎日一つの行動にものすごく時間がかかるようになりましたが、私は誰からも急かされず、誰からも他の病院などを勧められたりしなかったことでした。
あるかたは後になって「自分で考えていると思ったから」と教えてくれました。
私の人生は理解されているのだと感じました。
一番動けた少し前の体から比べて、私がいま部屋の中で動けるのは30%です。これを40%までは戻したいと考えています。後10%体が動いたら、私も楽だし、介助も楽になるだろうと考えるからです。
でも、今回の障がいの変化は老化現象だとも思っているので、無茶なことはせずに地道に日常生活を続けていこうと考えています。


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