世界は、ときどき手入れが必要だ。君たちはどう生きるか(感想)
もう見れないと思っていた宮崎駿の新作をみることが出来た。本当は公開して3日目に観に行ったのだが、感想を書くのがだいぶ遅くなってしまった。
最初のシーンが東京での火事で、また太平洋戦争の話?となったが、この映画は、冒険活劇であると宮崎駿が言っていたのを思い出した。
そうだ、今までのジブリの作品でもあったではないか、きっとマージナルマンだと、すこし経ってから思い始めた。
マージナルマン、境界に立ち、出入りする人だ。サツキもメイも、千尋も、ナウシカも、ソフィも、二郎も。
ジブリ映画には、彼岸と此岸、自然と文明、現実と夢など様々なあちら側とこちら側の世界が出てくる。そして、主人公たちは、その世界を行き来していく。
分かりやすいものだと、千尋がトンネルをくぐり、現実から神々の世界へ迷い込んでいく。
一族の変わり者だった大叔父の血を引く、眞人もマージナルマンの素質をもっており、案内人?であるアオサギに招かれて、別の世界に、亡くなった母親のヒサコを、そして父親の新しい妻である夏子を探しに行く冒険に出る。
この映画では、結界や境界が何回も出てくる。墓には、仰々しい金色の門があり、墓に入ってしまうと身体を囲うように結界を張る。机の下で、人形に守られながら寝る。
私たちが、見えないものへの畏怖も含まれているのだろう。宮崎駿が死が近づいてきていることも影響しているかもしれない。
見ていて、ジブリの今までの技法がたくさん散りばめられていた。
千尋のようにトンネルをくぐり抜けて、アオサギが、湖の上を歩くシーンが、もののけ姫のシシ神が歩くところと重なったし、キリコと出会った海の奥には、沈んだ海の参列があった。
紅の豚でも、沈んだ飛行艇の参列が出てくる。主人公のポルコ・ロッソが、第一次世界大戦で、戦闘で訳も分からなくなった時にそうなり、このシーンも生と死の境い目である。
向こう世界とこちらの世界の住民は、リンクしている。これは、以前スタジオジブリがキャラクターデザインをした「ニノ国」というゲームと似ている。
イチノ国が、我々がいる世界で、ニノ国という向こう側の世界があり、同じ魂で繋がっているという設定のゲームだったはずだ。
また、この映画には、宗教的・神話的なメタファーもたくさん出てくる。
ペリカンは、自分の血を子どもに飲ませることから、キリスト教では、シンボル的な鳥である。業を背負った一族というのも、自己犠牲に捧げなければならないという意味も含んでいるのだろうか。
眞人の母親は、その体が火にくるまれている。ハウルやソフィーのことを思い出す。そして、日本神話の中でも、火に体がくるまれる神がいる。イザナミだ。イザナミは、日本列島や様々な神を産んだ母親の神として、日本神話の中で書かれているが、火の神であるカグツチを産んだことで傷つき、病に伏せて亡くなってしまう。
映画の最後で、向こうの世界から、こちらの世界に戻ろうとしたとき、ヒサコに対して、「火事で死んでしまう」と眞人が止める。「火は平気。それに素敵じゃないか、眞人を産めるなんて」と扉を開けていく。
たくさんのメッセージが詰まった映画だと思った。
大叔父が「世界も生き物だ、手入れをしないとカビたり、虫が湧いてしまう。」といったように、大変安直な感想であるが、私たちの世界に対する警鐘だ。
眞人は、疎開や父親が母親の妹を新しい妻にしたことなどに、自分の頭を石で叩き、注目を集める形をとってしまう。あれを眞人は「私の悪意だ」と言った。
確かに、眞人のやり方も正しいものではなかったと思う。そして、少なからず、眞人の悪意もあっただろう。しかし、子どもをそういう風にせざるを得ないようにした周囲の自覚された、あるいは無自覚な『悪意』はどこに消えたのか。どの悪意も、最初は誰のものではないのかもしれない。
世界は、ときどき手入れが必要だ。なんとかやっていきましょう。
生きていくためにも。
エンドロールで、ジブリの新作を見れたということが嬉しくて泣きました。
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