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~第29回~ 「氷川講の話」

江戸時代は町人(庶民)が文化の主役となった時代でした。
信仰についても同様で、伊勢などに参ることが流行しますが、最たる例が「富士講」でしょう。
「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という教えが庶民に広まりました。
富士講では集落の代表が御師(富士山までの誘導や現地での世話をする修験者)の下で富士山を参詣し、本宮冨士浅間神社に参拝してからも富士講八海巡りなどの修行を行っていました。

氷川神社への信仰も同様で、社家が中心となり武蔵国一円に「氷川講」が結成され、各村々の五穀豊穣・商売繁盛など様々な祈願が行われました。
江戸時代、宝暦年間(1751-1764)には太々神楽奉納が盛んに行われていましたが、自然災害や神主たちの社務繁多により一時衰退してしまいました。
その後、寛政元年(1789)に復興し36座の神楽が奉納され、天保年間(1830-1843)には講が最盛期を迎えました。(『氷川大宮縁起』より)

この太々神楽については、以前、埼玉県立文書館の収蔵文書展「北足立地方の文書1-西角井文書-」で、『武蔵国一宮太々講』(天保3年)や『武蔵国一宮太々御神楽講連名帳』(安政6年)などの資料が展示されており、当時は太々神楽が盛んだった様子を伝えています。

江戸時代の氷川講もまた、氷川神社の悠久の歴史の中のひとつの姿です。

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〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕

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