さまよえる百人一首~紫式部(57番)/4670文字
・以前設定を思いついた現代×百人一首ファンタジー
・「57番」は百人一首の番号
・史実の登場人物の性格は、史実通りになっていません。
・読み切り前提で続きは不明です
ドライヤーでお風呂上りの髪をかわかした森村鈴子は、リビングの真ん中で宙に浮いている十二単の女の人と目があった。
人生35年経過してからこのかた「霊感」などというものを自覚したことのない鈴子は、「これは夢だ」と直ちに割り切る。
ここ最近、仕事が忙しすぎるあまりに、夢を見ているのだろうと。
そうとわかれば遠慮はないとばかりに、鈴子はその人に「あなたは誰ですか」と声をかけてみた。
女は「自分が見えるのか」と驚く。夢なら何でもありだから、と言う鈴子の目の前に、急に迫ってくる女。
「頼みます。そなた、私の名前を読んでください」
「へ?」
急にせまってきた、女の人――お姫様ってよりは年いってそう、30歳くらいかなーとか思う鈴子にかまわず、女は訴える。
「さあ、早く。紫式部と、呼ぶのです。お願いですから」
「へ? あ、あなた、紫式部、さ――きゃぅ」
突然、がくんと体に強い力がかかった。痛いわけではなかったが、あまりの圧の強さに鈴子はその場にしりもちをついた。
「ふう。……ひとまず、場をしのげたようですね」
しりもちをついた鈴子が顔を上げると、十二単の人――自称、紫式部が愛想のない静かな顔でこちらを見ていた。
「そなた、礼を言います。おかげで助かりました」
「はあ、どうも」
熱の冷めたドライヤーのコードをくるくる巻いて、実家から持ってきた鏡台の引き出しにしまいながら、鈴子はしげしげと「紫式部」を眺めた。
自分の夢の中だというのに、主役であるはずの鈴子を差し置いて、この「紫式部」は随分と存在感があった。はっきり言って、お礼を言っているにしては妙に堂々としていた。
(まあ、無理ないかあ。この人、中宮様に使えていて、主上(天皇)にも褒められた超エリートだもんねえ)
小学生のころの鈴子は、冬休みに泊りがけで行った母方の田舎で、いとこたちと花札やぼうずめくり、百人一首をしていた。それに加えて軽度の歴史オタクでもあり、「紫式部」のことはよく知っていた。
源氏物語の作者で、藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた子持ちの才女。
元々の身分は低かったけれど、その才能を認められて「中宮彰子の家庭教師に」と引き立てられた、エリート中のエリート。
最も当人は、引き抜かれるまではずっと邸の奥で暮らしていた貴族で、人見知りと言うかあまり社交的ではない穏やかな人だったというのが通説だった。
しげしげと眺めている鈴子を気に掛ける様子もなく、紫式部はきょろきょろと首を回している。鈴子が借りているこの部屋は、ごく一般的な1Kだが、備え付けのエアコンも明るいLED照明も、平安貴族から見れば理解不能の物体なのだろう。
「ええと、それであのー、紫式部さん? あなた、私の家で一体何をしているんですか」
「それは、……ああ、そなたの名はなんと申される?」
「あ、はい、鈴子です。森村鈴子」
「では、鈴子殿。あらためてそなたに頼む。私をしばらくこの家に置いて欲しいのです」
立ち上がっていた紫式部が、突然その場に腰をおろして、三つ指をついて鈴子に頭を下げた。
ぎょっとした鈴子も、慌ててその場に正座をして手を振った。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。そんなこと急に言われても」
いくら夢とはいえ、ここで「いいですよ」と言ってしまうのは、非常にまずい予感がした。
夢とはいえ、この人はいわば幽霊なのだ。霊感は全くない鈴子だが、家の中に常に幽霊がいるという状態は精神衛生上大変によろしくない。
「置かせてもらえるだけでよい。なるべく目立たぬようしております」
「目立たぬっていっても、家に幽霊がいつもいるなんて落ち着きませんし」
「幽霊――?」
顔を上げた紫式部が、ことりと首を傾げた。意外なことを聞いた、という顔に、鈴子はさらに畳みかけた。
「そもそも、なんだって幽霊のあなたが私の家にいるんです。私はあなたの子孫さんとかじゃない、縁もゆかりもない人間ですし」
いくら軽度の歴史オタクで漫画版の源氏物語愛好家であっても、限度がある。幽霊と同居などという事態は断固拒否しなければならない。
「……なるほど。そういえば、そなたは私の事情を知る由もなかったのですね」
面倒だと言わんばかりのため息をついて、紫式部は居住まいを正して真正面から鈴子を見返した。
「長い話になります」
「……あの、短めで」
じっと見つめ返されて、鈴子はひゅっと肩をすくめた。
かくてこの家の主である鈴子は、突如現れた「自称、紫式部の幽霊」のお話を、背筋伸ばして正座して、こんこんと聞かされる羽目になった。
そもそも、太古の昔から言葉には魂が宿る。
その言葉が強い思いを込められていたり、または多くの人々に語り継がれれば、強い力となる。それが言霊といわれるもの。
そうして私たち、歌人の歌――現代の人々に「百人一首」と呼び慣らされれている我々もしかり。しかも我々は広く長く世に知れ渡っているため、その力は強い。
とはいえ、我々は神仏ならざるただの人。この世のことに手出しなどするようなことなど、まして人前に姿を現すなどありえぬ話。
われらはただ静かに一枚の札としてそこに在った。
だが、ある日不意に、このようにして意志を持つに至った。詳しい経緯は知らぬが、どうにも欲深い邪な悪意を感じた。
これは宮仕えをしていた時に、よく感じていた感覚と似ているもの。察するに、我々の持つ言霊の力を己の私利私欲のためにと願ったものがいたのであろう。いつの世も、そうしたものは絶えぬもの。
「でも、だとすると、紫式部さん、その誰だかにつかまっていたんじゃ?」
「それもまた詳しい経緯がわからぬが、「逃げよ」と言われたのです。意志が芽生え、何やら悪意あるものに縛り付けられ身動きできずにいたのが、……そう、縄を解かれたとでも言えばいいのか」
理由はわからずとも、少なくとも、邪な悪意のそばで身動きできずにいるよりはよいと判断した紫式部をはじめとした百枚の札は、一斉にその場から立ち去った。
しかし、そこで問題が生じた。
「鈴子殿は幽霊と言ったが、我々はいわば付喪神に近いもの。そなたら人が作った百人一首の札に宿ったモノ。そのような人ならざるもの、人の世界で自由に動き回れるわけではない」
身動き出来ずにとらわれていた場所は、人ならざる百人一首が意志を持てる場であったようなのだが、ここは違う。
数枚の札は由緒ある寺院に避難をしたようだが、紫式部が逃げてきたこのあたりには、そんな寺院はない。だから紫式部は、自分をつなぎとめてくれる「依り代」を探して鈴子の家にやってきたのだ。
「よりしろ?」
「紫式部を、よく知るもの。その思いが、私がこの世にとどまる依り代となる」
軽度の歴史オタクで、百人一首に馴染みのある鈴子は最適だったわけだ。
「つまり、船でいうところの碇ってわけですか。それでさっき、名前を呼べって言ったんですね」
名前を呼ぶというのは、それは「知っている・知られている」と言う事実の最たるものだろう。「名前を呼んではいけない」とか「名前を預ける」という「名前」の重要さは、オカルトから陰陽道まで、洋の東西問わずに共通の事項だ。
「おかげで、薄れかけていた意識もはっきりしました。改めて礼を言います」
「いえ、それはいいんですけれど。でも、ここに居たいっていうのは何でです? その、ご自分の力を悪用されたくないっていうなら、このまま消えてしまった方がいいんじゃありませんか」
「鈴子殿の言うとおり、我らの力が消えるというのであれば問題はないのですが、どうもそうはならないのです」
依り代がない状態で逃げていた最中、意識が薄くなったがそれは「眠りにつく」ような状態であり、ただの一枚の札となるようなことにはならなかった。
「つまり、我々の持つ言霊の力はそのままに、我らの意志だけが失われている状態。我らを利用しようとせん邪な者が近づいても逃げることも逆らうこともできぬ」
「そして悪用されてしまうと」
そのとおり、と紫式部は力強く首を縦に振った。
「でも、だったらこれからどうするんですか? そのヨコシマな者を倒すとか、もっと遠くへ逃げるとか」
言いながらそりゃ無理だよなあ、と鈴子もわかっていた。
例えば言霊の力とやらで倒すにしたって、そもそもこの人は「ヨコシマな者」が誰だかもわかっていない。おまけに逃げるっにしても、鈴子がその逃避行につきあうなどありえない。そこで力尽きればさっさとつかまるだけだろう。
「倒すなどということはしない。我々が力を失い、ただ一枚の札に戻ればそれでいいこと。力なき我々など、邪な者とては用はありますまい」
「そりゃそうですけれど、どうやって戻るんです? 力尽きただけじゃダメなんですよね」
「それには策があります。我々は捕らえられていた間、わずかとはいえ、互いの意志を通ずることはできました」
邪な意志を持つ者に、我々の言霊の力を使わせてはならない。
我々としての意志が消えて傀儡にされてはならない。
我々はその機会があれば逃げ出そう。
そして邪な者の手を逃れたところで再び集い、力をあわせ元の札に還ろう。
「たとえ一枚でも札が残っていると、それを手がかりとしてまた呼び出されてしまう。ゆえに百枚、誰一人かけることなく元に戻らねばなりません」
「じゃあつまり、紫式部さんや皆さんは、どっかへ逃げたお仲間さんを探して、協力してお札に戻るってことですか」
「そのとおりです」
鈴子はどっと疲れた。仲間を探して目的の場所へたどり着くなんて、どこのゲームだろうか。しかも百人一首のお札が。
いくら軽度の歴史オタクで百人一首で遊んだ小学校時代があるとはいえ、自分の夢であるところの脳内は大丈夫なんだろうか――と、そこまで考えて、鈴子は壁に掛けられた時計を見上げた。
「げっ」
気が付けば、時計の針は午前一時まであと十分。風呂上りから一時間以上経過していた、
「うわ、やっば。いくら明日休みでも、もう寝ないとっ!」
正座で痺れた足がふらつくが、鈴子はお手洗いをすませて、さささっとパジャマに着替えた。これ以上の夜更かしはまずい。連日の夜更かしがたたって会社を三日も休んだのは、つい先月のことなのだ。
そんな鈴子に構うことなくと言うか、そもそも時間という感覚がないのか、紫式部は何も言わずに鈴子を眺めていた。
ベッドに入る前、明かりを消そうとした鈴子は、自分を眺めている紫式部に目があった、
「あの、これから眠るので、部屋の明かり消しますけれど」
「気にせずともよろしい。私も意識を閉じます。さすがに邪な者とて、他者の家に無暗に踏み込むことなどせぬでしょう」
なんだかもうすっかり、鈴子の家に居座ること確定しているようである。鈴子は紫式部には聞こえないように気を付けながら、特大のため息をついた。
「……じゃあ、その、私寝ますから、おやすみなさい」
紫式部が何か言ったらしいが、よく聞こえない。鈴子は明かりを消して布団にもぐりこんだ。
夢なんだから、どうせ明日になればこの記憶もうろ覚えになって忘れているだろう。追い出すことも協力することもできないのが、中途半端でいかにも自分らしいが。
そう、思っていたのだ。
これは夢に過ぎないのだと。
目を覚ました翌朝、宙に浮いた十二単の人がじっと鈴子を見下ろしていた。
それは寝起きの頭でもはっきりと認識できるほどに、鮮やかな現実として鈴子の上空に鎮座していた。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲隠れしに 夜半の月かな
紫式部
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