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ホラー小説 怨音


第一話「端倪」

 鈍色の雲が今にも落ちてきて、世界を潰してしまいそうな、そんな空模様だった。
男は鞄からピルケースとペットボトルの水を取り出し、震える手で薬を口の中に放り込んだ。そして、ペットボトルの水を勢いよく喉に流し込み、男は深く息を吐いた。
「早かったな。待ったか」
 男が振り返ると男の友人が挨拶代わりに光らせたペンライトを振っていた。
「まぶしいよ」
「いやー、気持ちが抑え切れなくてさ。お前もそんな陰気臭い顔してても案外楽しみにしてんじゃないの」茶化すように男の友人は言った。
「楽しみってわけじゃないけどさ」
「けどなんだよ」
「誘ってくれてありがとな」
「なんだよ、改まって。水くせなぁ。お前のその痩せ細った身体とあんな生活見てたらなんかできねえかなって思っただけだよ」
「それで、アイドル」
「そうだよ。アイドルは病んだ心に刺さるぞー。俺も幾度となくアイドルに助けられたもんだよ。アイドルは薬みたいなもんだな」
「薬ねぇ」男の頬に一粒の雨が伝った。

 外からアスファルトを砕くような激しい雨の音がしていた。ライブハウスの中はすでに多くの客で埋め尽くされていた。男と友人は前方に行くことを諦め、ライブハウス後方の壁に寄りかかっていた。
「そういえば、今日のライブってなんてアイドル」
「あれ、言ってなかったっけ。ソルシエールってアイドルだよ」
「ソルシエール。有名なのか」
「ある意味有名ちゃ有名だな」
「ある意味ってどういうことだよ」
「お前最近テレビとかネットとか見てないもんな。このソルシエールってアイドルのメンバーはさ、いろいろあった子たちが集まったアイドルグループなんだよ」
「なんだよ、いろいろって」
「俗に言うスキャンダルを起こした子だったり、メンバーの中に病気の子もいたりしてさ。そいう子たちが集まって再出発しようっていうコンセプトで始まったアイドルなんだよ」
「へぇ、そうなんだ。曰く付きのアイドルなのか」
「言い方よ。曲聞いたら絶対お前も人生変わるぞ」
「んな、大袈裟な」
 辺りを見ると身動きが取れないほどの客がライブハウスを埋め尽くしていた。どこか異様な雰囲気が会場に流れるなか、会場は暗転し、低音のよく効いたSEが流れ始めた。客たちはそのビートに合わせて手拍子を始めたり、メンバーの名前を叫んだり、歓声があちらこちらで上がっていた。男の友人も飛び跳ねながらペンライトを振り「あいかー! 」と叫んでいる。
 やがてSEが止まり、それと同時に客の歓声も消え、静寂が辺りを包んだ。男の耳の奥底で残響が蠢いていた。
 スポットライトがステージを照らすと、ステージ袖から静かに女の子たちが現れた。静寂は保たれている。残響は続く。
「ソルシエール、始めます」真ん中に立つ女の子がそう告げると、スピーカーからディストーションの効いたギターイントロが会場を響かせた。そこに、ドラム、ベースが重なり、最後にサイケデリックなシンセサイザーが疾走感のあるメロディーを鳴らした。
 客たちはお互いに体をぶつけ合い、叫び、ペンライトを振り回している。
 ステージ上の彼女たちは髪を振り乱し、激しく、可憐に舞っていた。そのアイドルの中のひとりに男を蠱惑す眼差しを向ける女の子がいた。男もじっとそのアイドルを見つめていた。
 一曲目の演奏が終わる。
「いいだろ、ソルシエール」友人のペンライトを握る手に力が入っていた。興奮しているのだ。
「なんか思ってたのと違って驚いてる。なんかもっとアイドルアイドルしてるのかと思ってた」
「だろ。このギャップがいいんだよ」
「じゃあ、早速次、新曲行きますね」そうアイドルの子が告げると、客たちは太い声を会場に響かせた。
「この曲は九十年代のメロコア 、スカコア、ハードコア、ミクスチャーが盛り上がっていたその当時に活躍されていたバンドの方が書き下ろしてくれた曲です。その当時の想いや、そういった音楽が廃れてしまった哀しさ、そして、私たちの再起にかける想いがこの曲に詰まっています。それでは聞いてください」アイドル全員がマイクを口元に近づけ、息を吸い込んで言った。
「真夜中に咲くガランサス」
 スラップベースからのイントロ、そこへ四つ打ちのバスドラムが加わる。さらに、ハイハット、そしてスネアのリズムが客たちの体を揺らす。そのまま、囁くような彼女たちの歌が乗っかる。重なる音がループする。
 男はぐるぐると会場が回っているように感じた。
 十六小節それが続き、十六小節目の最後、突如音が止まり、二分休符が入る。
 パンと破裂音が鳴った。何が破裂したのかわからない。実際に何かが破裂したのか、自分の頭の中の何かが破裂したのか、男は混乱していた。
 客たちはお互いに体をぶつけ合ったり、肩を組んだり、手を上げて身体を揺らしたり、あちらこちらで咆哮があがっている。
 男は口を大きく開け、眼は白目を向いていた。友人は男の様子に気づかず踊り散らかしている。
 男は次第に手が震え出し、頭を左右に大きく振り始めた。そして、奇声を発し、ステージ目掛けて走り出した。男は客たちを突き飛ばし、柵を乗り越え、アイドルの前に立ちはだかった。男は一瞬だけ口角を上げ、そして次の瞬間、男はアイドルの首元に噛みつき、首の皮を噛みちぎった。アイドルが持つマイクが首の皮が引きちぎられるぶちぶちぶちぶち! という耳障りな音を拾った。
 アイドルはなにが起こったのか分からず、暖かく感じる首元に手を当てた。その手を見ると、手は赤く染まり、首から肩、胸元へ温かい血が流れ落ちた。
 男はアイドルを見つめながら口を大きく動かし、彼女の首の皮を咀嚼していた。
 彼女は我に帰り、「いやー!」と叫んだ。マイクがそれを拾い、キーンとハウリング音が客たちの耳に突き刺さった。
 音楽が止まり、他のアイドルたちの叫び声が連鎖する。マネージャーらしき男がステージ袖から駆け出してきて、男に飛びかかった。マネージャーと男はステージ上に転がり、揉み合っている。それに寡勢しようと客席にいた客たちが次々と柵を越えてステージに上がってくる。男は客たちに羽交締めにされて身動きが取れなくなっているが、笑みを浮かべながら咀嚼を続けていた。
 首の皮を噛みちぎられたアイドルは他のメンバーに連れられて楽屋に運ばれていた。彼女の意識は朦朧としていた。タオルで止血をするが、すぐにタオルは赤く染まっていく。客席の方で「救急車」だとか「警察」だと叫び声が聞こえる。他のアイドルたちは血で染まっていく彼女をただ見ているしかなかった。
「おい、おまえなにやってんだよ!」男の友人が取り押さえられている男に近づき言ったが、男には彼の声が届いていないようだった。
 彼は取り押さえられ、それを振り解こうと必死にもがく男を静観するしかできなかった。
「きゃー!」楽屋の方から複数の叫びが聞こえた。それと同時に楽屋で何かが倒れる音や「やめて!」「来ないで!」と叫ぶアイドルたちの声がステージ上まで聞こえた。
 その叫び声が推しのアイドルのものだと気付いた男の友人は反射的に楽屋へと駆け出していた。
「あいかちゃん!」楽屋に入るや血の臭いなのだろ、それが彼の鼻の奥を突いた。
 フロアには首から血を流し倒れている女の子がいた。その血でフロアが血の沼のようになっている。その女の子は陸地に打ち上げられた魚のようにビクンビクンと身体を痙攣させていた。
「あいかちゃん!」彼は彼女が自分の推しだということに気付くと、すぐに駆け寄り、うつ伏せになるあいかを抱き上げた。
「しっかりしてよ、あいかちゃん」彼女の首の肉は抉られ骨が見えていた。そこから止めどなく血が溢れ出る。
 彼は周りを見回した。楽屋の隅で怯えている女の子たち、そして彼女たちと対峙してステージ上で男に首を噛みちぎられた女の子があいかの首の肉を咀嚼をしながらじっと彼女たちを見つめていた。
「どうなってんだよ」彼は目の前の不気味な光景に震えが止まらなかった。


第二話「怯懦」

 学生たちの夏休みが終わり、昼間の高円寺はいつもの何を生業にしているかわからない連中たちが成虫になる次期を間違えた蝉のごとく湧き出てきて、駅前のロータリーでミンミンと騒いでいた。
 高円寺駅のパル商店街から脇道に逸れた路地の雑居ビルの二階に北米で仕入れた古着や雑貨を売りにした古着屋「ロッテンドーナツ」がある。そこは、元バンドマンの元橋玄と学生アルバイトの長瀬誠が悠々閑々と店の切り盛りをしていた。
「見たか、ニュース」元橋はレジカウンターに肘を突きながら今朝のニュースを思い出していた。
「店長、世の中にどれくらいのニュースが垂れ流しになってるか知ってます」長瀬は客が無造作に置いていった古着を丁寧に畳み直しながら言った。
「お前は知ってんのかよ」
「知りませんよ、そんなの」
「なんだよ、それ」
「あれでしょ、アイドルがライブ中に襲われたってやつでしょ」
「知ってんじゃねぇかよ。それだよ。なんでそんなことが起こるんだろうな」
「恨まれてたんじゃないですか。例えば、そのアイドルに彼氏がいて、それを知ったファンがアイドルなのに何事じゃーってキレて襲ったとかそういうことじゃないですか」
「さすが心理学を勉強してるだけありますね、長瀬先生」
「そんなもん誰でも想像できますよ。店長はポカーンとし過ぎなんですよ」
「なんだよポカーンて。まるでおれが何も考えてない馬鹿みたいじゃねぇか」
「みたいじゃなくてですよ、店長」
「なんだこのやろ! 時給下げるぞこのやろ」
  店の中に客がいなくなるといつもこうしてふたりで戯れて時間を潰すのが日常茶飯事だった。そして、いつもの時間に店にやってくる女の子がいる。
 カランカランとドアベルが鳴ると、反射的に長瀬は前髪を整えた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」新里摩耶は長瀬と元橋に会釈をすると、いつものように入口から入って右の棚から順に古着を一通り眺めていくのだった。
「今日はなにか見つかった?」新里が一通り棚を身終えたところで元橋が声をかけた。
「うーん。今日も散歩がてらふらっと来ただけ。すみません、いつも見てばっかりで」
「そんなこと気にしなくていいのよ。買いたいものが見つかったら買えばいいんだから。今度またカナダに買い付けにいくからさ。いいの見つけてくるよ」元橋はそういうと力瘤を作り、そこをパンパンと叩いて、できるバイヤーアピールをした。
「また買い付け行くんですか。この前行ったばっかりじゃないですか。よくそんなお金がこの店にありますね。」
「いろいろおれも考えてんだよ。いちショップ店員にはちょっとそこはわからんだろうな」
「あー、そういうそのいちショップ店員ていうの差別になりますからね。SNSでアップしちゃって炎上させちゃおーっと」
「やめとけ、長瀬。炎上は店を潰すぞ」
「いつも賑やかでいいですね、ここは」新里はコロコロと笑いながら言った。「楽しみにしてます、新しい古着。カナダかぁ。いいなぁ。行ってみたいです」
「バンクーバーの南にリッチモンドってところがあるんだけど、そこにいい仕入れ先があるんだよ」
「へぇ。初めて聞きました、リッチモンド。古着で有名なんですか」
「いや、古着で有名とかではなくて、昔の仲間がそこに住んでて、そこに泊まらせてもらいながら掘り出し物の古着とか雑貨とか探すわけよ」
「宝物探しみたいで楽しそうですね」
「まぁ、最初は楽しかったけど、今はどちらかといえばビジネスで行ってるって感覚の方が強いかな」
「よく言いますね、ビジネスなんて」
「なにがだよ」
「旅行みたいなもんじゃないですか。いつだったか忘れたけど、予算の半分以上をライブ見たりお酒飲んだりしてた時ありましたよね」
「あん時はバンクーバーでグリーンデイとかニッケルバックとか、さらによ、シンプルプランもライブがあるっていうだから行くしかないだろ。そのお陰でまだ日本じゃ買えないグッズを仕入れてここで売ったらSNSでもバズったろ。やっぱおれのここよ」また力瘤を新里と長瀬に見せ、できるバイヤーアピールをする元橋であった。
「じゃあ、わたしそろそろ行きますね」新里は愛想笑いを作り、店を出ることにした。
「また暇な時においでよ。冬に向けてカナダのイケてるアウター揃えておくから」
「新里さん、これから高円寺散歩するの」
「うん、これからサンカクヤマに行って古本見てくる」
「じゃあ、鈴香さんによろしく。バックトゥザフューチャーのフィギュア入荷してたら連絡して」
「オッケー」新里はフルーツ系の甘い香りを店に残して出ていった。
「おまえ、いつのまにあの子の連絡先聞いたんだよ」
「別にいいじゃないですか。あ、そろそろ大学行かなきゃだ」
「お、もうそんな時間かってまだまだじゃねぇかよ! 詳しく教えろこのやろ!」

 長瀬誠は明和大学大学院の心理学研究科に夕方から通っている。社会人向けの研究科のため、授業や研究会は昼間働いている社会人向けにカリキュラムが組まれているのだ。学生の大半は会社勤めをしている人や教員をしている人、昼間は主婦をしている人もいる。各々、将来をイメージして、その将来の自分に繋がる心理学を学んでいる。長瀬の場合は、スクールカウンセラーになるという目標に向けて教育心理学や学校心理学などを授業で学び、学校心理学を専門にしている板垣教授の研究室に所属して、修士論文の執筆に二年間取り組むことになっている。
 研究室にはすでに学生たちが揃い教授が来るのを待っていた。しばらくすると板垣教授がなにやら深刻そうな表情で研究室に入ってきた。
「全員、揃っていますね。では、今日の研究会を始めましょうか」板垣はそう言うとロの字にセットされたテーブルの上座に腰を下ろした。表情は硬い。
「本日は、飯田智子さんの聴覚過敏に関する研究結果の発表がメインですが、その他で修論の進捗を話したい方や学会発表を控えている方がいらっしゃればディスカッションに追加しますが」博士課程3年の久保田聡が学生たちを見回し言った。
「飯田さんの発表が長くなりそうなので、いなければ今日は飯田さんの発表だけにしましょう」板垣は飯田が事前に渡しておいた資料に目を通しながら言った。
「それでは、感覚過敏学会に投稿する予定の論文をまとめましたので、発表させていただきます」飯田はそう言うと事前に準備していたプレゼンテーション画面をスクリーンに映した。
「この研究では、聴覚過敏があると診断された人がその人用にカスタマイズされたイヤーフィルターを使用することでQOLが上がるかということを調査しました。結論から言いますと、聴覚過敏がある人たちがこのイヤーフィルターを使用するとQOLは上がるということがわかりました」
 イヤーフィルターというのは、聴覚過敏がある人専用の耳栓である。聴覚過敏がある人は市販されている耳栓やイヤーマフを使えば、聴覚過敏を抑えられるのかと言えば、そうではなく、個人にあったフィルターを通すことで、その人が苦手とする音の周波数をカットし、聴覚過敏を軽減させることができるのだ。
 明和大学の相談室には、聴覚過敏に悩む人たちが訪れ、カウンセリングやこのイヤーフィルターのフィッティング、例えて言うのであれば、眼鏡を作る時に度数を合わせる作業のようなものを、このイヤーフィルターを作る時に行うのだ。
フィッティングの作業は、聴覚過敏がある人にイヤフォンを付けてもらい、そのイヤフォンから様々な周波数の音を聞いてもらう。その聞こえた音に対して不快だと感じたものがあれば、手元にあるスイッチを押してもらい、検査者はその人が不快と感じる音を集めていく。そして、集められた不快に感じる音を通さない構造のフィルターを設計し、イヤーフィルターを完成させるのだ。
 飯田の発表が終わったが、板垣は硬い表情のまま、何か考えている様子だった。
「以上です。なにかご質問等ございますでしょうか」一方で飯田の言葉にはこの論文の出来に対する自信が籠っているようだった。
「ひとついいですか」手を挙げそう言ったのは浦沢彩月だった。彼女は今年の四月からポスドクとして研究会に入ってきた。板垣教授とは共同でてんかん発作に関する研究を行っている。
「浦沢さん、どうぞ」司会役である久保田は「今夜は長くなりそうだ」と思いながら浦沢に意見仰いだ。
「以前に発表した時のデータと今回のデータで齟齬が見られますが、これはどういったことでしょうか」
「はい。以前、皆さんにお見せしたデータはエビデンスとして不十分だったと考え、更にデータ数を増やしました」
「データ数がこれだけ増えたということは統計的な解析方法も変わってくるかと思いますが、見たところ、解析方法は変わっていないようですが、これは大丈夫ですか」
「そうだね。ここはマンホイットニーよりもt検定で解析した方がよさそうですね」飯田が答えるよりも早く板垣が答えた。
「そうしてください、飯田さん」
「承知しました」
「他になにかありますか」久保田は「もうこのくらいのしておいてくださいよ」と心の中で呟きながら言った。
「あともう一点」だけ、浦沢は板垣の顔をまっすぐ見つめ言った。
「以前、この研究をしていた新里亨さんの名前が著者欄にないのですが、それはどういったご配慮があってのことでしょうか」
 板垣と飯田は表情を変えずに浦沢の問いを聞いていたが、新里という名前を聞いたとたん研究室にいる学生たちはどこか居心地が悪くなったような様子に変わった。
 長瀬は研究室の空気が変わったことに気付き、隣に座っている学年がひとつ上の牛久隆二に筆談で「にいさととおるってだれ?」と聞いた。
「あとで教える」と牛久も書いて答えた。
 長瀬は新里と聞いて、アルバイト先の古着屋の常連である新里摩耶の顔を思い浮かべていた。
「この研究を主でやっていた方が亡くなったら、この研究を引き継いだ方と教授の名前だけが論文に残るんですか。それはあんまりじゃないですか。この研究の成果、つまり、手柄はお二人だけのものというそういうことですか」浦沢は言葉を強めて言った。
「飯田さん、新里くんの名前を消したのはなぜかね」
「申し訳ありません。私の勝手な思い違いもり、新里さんのお名前を消してしまいました。そうですよね。新里さんが元々やられていた研究ですものね。確かに新里さんのお名前がこの論文にないのはおかしいと思います。そんな手柄を横取りするようなそんな真似をしたわけではありません」
「してるじゃないですか。新里さんの名前を消したってことはそういうことですよね」
「いえ、本当にそんなつもりはなかったんです」
「じゃあ、新里さんの名前もちゃんと入れましょうよ」
「そうですね。新里くんの名前は入れるべきでしょう。浦沢さんの言う通り、この研究は亡き新里くんの研究でしたからね。それを引き継いで現在は飯田さんがやっていますが、彼の名前はここに入れるべきですね」
「すぐに新里さんのお名前を入れ直しをし、論文投稿の準備をさせていただきます。それでよろしいでしょうか」
「いいですかね、浦沢さん」
「そうですね。その方が報われるかと思います」
 研究会は飯田の発表が終わると、特に議論するテーマもなく、いつもよりも早く終了となった。飯田と板垣はふたりで研究室を出て、板垣の部屋で神妙な顔付きで何か話しをしているようだった。
「牛久さん、さっきの教えてくださいよ」長瀬は新里亨に関することはここでは大っぴらに触れてはいけないことだと察し、小声で言った。
「場所を変えよう」
 ふたりは研究室を出て、人気のない場所へと移動した。
「新里さんが亡くなったのは俺が去年この研究室に入ってすぐのことだったんだよ」牛久はこれからあのことを話すのかと思うと気が重たくなった。
 新里亨は当時、ポスドクとして研究室に在籍していた。牛久が初めて研究室で新里を見た時の印象は「存在感のない人」であった。研究会中も発言することはほぼなかった。牛久が久保田に新里のことが気になり、根掘り葉掘り聞いたことがあった。
 自殺後、新里亨は自殺するまで鬱で苦しんでいたことがわかった。大学内で自殺者が出たことで調査委員会が設置され、板垣を初め、研究会のメンバーに聞き取り調査が行われた。その後、調査委員会から新里亨は鬱による自殺ということが研究室で報告された。しかし、なぜ鬱になったのかは明らかにされなかった。
 久保田が言うには新里はとにかく優しいお兄ちゃんのような存在だったという。誰にでも優しく接し、困っている者がいれば自分を犠牲にしてでもその人を助けるような人だった。しかし、言い方を変えれば、都合のいい人とも言われてもおかしくはなかったという。というのも、頼まれれば笑顔で引き受けることが続くことで、いつのまにか、面倒なことや他の人は嫌がることはすべて新里が引き受けてくれると周りが思うようになっていったのだ。
 研究に関しても、新里は元々聴覚過敏の研究はしていなかった。元々聴覚過敏の研究をしていた学生が退学してしまい、板垣から半ば強引に聴覚過敏の研究をするように言われたのだそうだ。
 新里は大学院に入る前は中学校の教員をしていた。教科は英語で、発達障害がある子どもたちに教鞭を取っていた。
 ある時、新里は発達障害がある子どもたちへの指導で行き詰まってしまい、改めて発達障害がある子どもたちの指導について学び、更に発達障害がある子どもたちに適した授業の開発をしたいと大学院へ入学したのだった。
 大学院入学当初、新里の研究テーマは「発達障害がある生徒に適した英語の授業の開発」であった。大学院では修士論文を書く手順として、まず修士論文のデザインを発表する場が学生たちに設けられる。新里は勿論そのデザイン発表会で自分の望んだテーマで発表を行った。彼は大学院の修士課程を出た後は教員に戻り、大学院で学んだことや研究したことを発達障害がある子どもたちに還元したいと思っていた。しかし、デザイン発表会後に板垣に呼び出され、今日から聴覚過敏の研究をしろと言われたのだ。研究テーマを変えたことで、彼の心に靄がかかったように思えたが、聴覚過敏で困っている人がいるなら僕がやるしかないと、余燼が燻るも、彼は引き受けることにしたのだ。
 新里は修士課程が終わったら教員に戻ろうと考えていたが、聴覚過敏の研究を続けてくれと板垣に言われ、自分の気持ちをぐっと抑え、博士課程へと進むことにした。教員に戻ろうと思ったのは、その当時、結婚を考えていたからであった。しかし、学生生活を続けながら結婚生活はできないと、結婚も諦める結果となってしまった。
 その頃からだろうか、新里がどこか塞ぎ込むような様子が見られるようになったのは。研究会でもぼーっとしていたり、発言を求められても言葉がうまく出せない様子が見られた。そんな状態でも新里は三年で博士課程を修了した。それから、ポスドクとして大学に残ることになったが、ある日突然、新里は自ら命を絶ってしまった。その後、新里の研究は後輩の飯田聡子にいつのまにか引き継がれていた。

 牛久の話しが終わったちょうどその時、長瀬の携帯が震えた。携帯の画面を見ると新里摩耶からのメッセージを知らせるものだった。新里亨の話しを聞いたばかりだった長瀬は新里亨と新里摩耶の関係を気にせずにはいられなかったが、そんなことを簡単に聞ける間柄でもなく、長瀬はメッセージを確認し、いつものように返信をした。
『あったよ。鈴香さんが今買わないとすぐなくなるよ、なんて言うから買っておいたよ』メッセージの後にバックトゥザフューチャーのマーティーとドクがセットになったフィギュアの写真が送られてきていた。
『まじか! ありがとう! 新里さん! 今、大学終わったんだけど、今どこにいる? 高円寺にいるなら速攻で取りに行きたいところだけど』
『いま、ファッツにいるからおいでよ』
『おっけー! すぐ行くね!』長瀬はメッセージを送ると牛久にまた来週と告げ、高円寺にあるハンバーガー屋ファッツへ向かった。

 高円寺駅北口のロータリー広場はいつものように大道芸でも行われているのではないかと思うくらい賑やかであった。そこからたくさんの音が聞こえてくる。弾き語りの音、ラップの音、笑い声、怒鳴り声、サイレンの音、この音が高円寺駅前の音なのだ。
 中通り商店街に入るとまた、音が変わる。お沖縄料理屋から三線の音か漏れ、風俗店の前を通り過ぎる時にはいつも「どうですかーかわいい子いますよー」と野太い声が心をざわつかせ、居酒屋の中からは客と店員の声が外まで漏れていた。
「いらっしゃい」長瀬がファッツの扉を開けるとカウンターを挟んだキッチンから店主のジェイクが長瀬を迎えいれた。
「お久しぶりです」
「オー、ヘイ、マコートげんきだった」
「元気元気。ジェイクはまた大きくなったんじゃない」
「ユートゥーメーン。ウチのハンバーガーはうまいからねー。太るよー。ははは。ハバシー」
 店内はカウンター席しかなく、新里はカウンターの一番端でこっちと手招きしていた。
「いやーほんとありがとね」
「鈴香さんもラッキーだって言ってたよ。長瀬くんからバックトゥザフューチャーのフィギュア探してるって聞いてたのを仕入れの時に思い出して、買ったんだって。言っておくもんだね」新里は鞄からフィギュアを取り出した。
「おおおおお! これだよ! 夢に見ていたこのセット! すげぇ。本物じゃん。いくらだった」
「十二万」
「え、じゅ、十二万」長瀬の血の気がさーっと引いていった。そして、動きが止まり、フィギュアをじっと眺めた。
「ぶ、分割で払ってもいいかな」なんとか長瀬は言葉を絞り出して言った。
「冗談だよ。一万二千円だったよ。ほら、レシート」そういうと財布からレシートを取り出して長瀬に見せた。
「一、十、百、千、万、一万二千円。一万二千円だ! ちょっとー! 新里さん!」
「ははは。ごめんごめん。でも分割て。やっぱ相当好きなんだね」
「好きとかもうそういうレベルじゃないから、ほんと」
「ヘイ、マコート、ユーハングリー」キッチンからジェイクが顔を出して言った。
「あー、イエス、ハングリー」
「ワドゥユウォン、トゥナイ」
「えーと、ハンバーガーバンズにパテ200ダブルで、ソースはテリヤキで、アボガドと目玉焼きとマッシュルームをトッピングで」
「ワラバウトドゥリンク」
「ドゥユーハバブルームーム」
「ヤ」
「ブルームームプリーズ。新里さんはなに飲んでるの」
「ドクペ」
「好きだねードクぺ。よくさ、ビレバンで買って飲んでるでしょ。この辺だとあそこでしか買えないドクぺがあるじゃん」
「密かに見られてたか。小さい時から好きでさ。駄菓子屋さんでよく飲んでたの。そこの駄菓子屋さんの飲み物はさ、全部ビンで、なんかおいしんだよね、ビンで飲むと。ビレバンには時々、ビンで置いてある時があって、あれば即買いだよね」
「駄菓子屋さんがある地元っていいね。新里さんて地元はどこなの?」
「町田。知ってる?」新里は首を傾げながら言った。
「えーと、確か小田急線の割と遠めのとこだよね」
「ここからだとそうね、遠いかな」
「なんかいろいろ聞いちゃうんどけど、新里さんて今高円寺に住んでるんだよね」
「うん。小杉湯のすぐ近く」
「あの辺なんだ。なんでまた町田から遥々高円寺へ」
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ沈黙があったことを長瀬は何かを察したようだった。
「お兄ちゃんが元々そこに住んでて、出ていっちゃったから、じゃあ住むかってそんな感じ」
「そっか。お兄さんいるんだね」
 また一瞬の沈黙がふたり包む。その一瞬、長瀬は新里亨と彼女は兄妹なのだろうかと考えていた。
「はい、テリヤキサニーサイドアボガドアンドマッシュルームバーガー」キッチンからジェイクがハンバーガーを長瀬の前に置いた。
「うまそー!」
「アンド、ブールムーンね。エンジョイ」
「サンクス。では、いただきます」
 長瀬は紙の袋に包まれたハンバーガーを手で少し潰してから、頬張った。噛んだ瞬間に肉汁がスープの如く溢れてくる。口の中に旨味という幸せが広がる。幸せの味を咀嚼した後に飲むブルームームもよく合った。長瀬は食べ出すと一言も喋らず完食をした。
「おいしかったー! ご馳走様でした」長瀬はパンと両手を合わせた。
「見事な食べっぷりだね」
「よく言われる」長瀬はナプキンで口を拭きながら言った。
「今日は最高の日になったよ。フィギュアも手に入ったし、うまいハンバーガーも食べられたしさ」
「よかったね。あとは寝るだけだね」
「そうだね、帰ってシャワーだけして寝ようかな。新里さんはこの後どうするの?」
「私はちょっとどけ散歩してから帰る」
「この辺り」
「うん」
 沈黙。
「少しだけ一緒に散歩していいかな。最近、体重が気になってさ。もうすぐ三桁行きそうで」
「え、あ、いいよ」
「無理なら全然」
「いいよ。いつもひとりで歩いてるからたまには人と歩くのもいいかも。行こう、散歩」
「じゃあ、行きますか。俺も散歩とかして少しは痩せないと」
 長瀬は今日のお礼だと言い、会計を済ませた後、ふたりは店を出た。
「散歩コースとかあるの?」
「特にないかな。気ままに歩いてるって感じ」
「じゃあ今日もそんな感じで行きますか」
 ふたりは中通り商店街に出て、パル商店街の方へ歩きだした。
 時刻は二十三時をもうすぐ回ろうとする頃だった。すでにパル商店街の店はシャッターが降りているところが多く、人通りも昼間と比べると圧倒的に少なかった。高円寺駅に向かう人たちとは逆にふたりは歩いていた。遠くで弾き語りをしている歌声が聞こえる。
「高円寺っていいよね」唐突に長瀬が言った。
「そうだね」
「大学が近くだから高円寺に住み始めたけど、面白い街だなって思うよ」
「どんなところが?」
「高円寺ってメインの商店街が五つあるでしょ。商店街から違う商店街に入ると雰囲気が変わるって新里さんも感じない?」
「わかる」
「でしょ。もうすぐパル商店街が終わってルック商店街に変わるでしょう。僕はこの緑道が国境だと思っててさ、ここを越えると別の国っていつも思うんだよね」
「ここね。確かに国境みたいだね。お店の雰囲気も変わるしね」
 商店街の歩道を挟むようにある緑道には酔い潰れた若者たち、物憂げにタバコを吸う中年男性、外国のお酒を片手に寄り添い合う男女がいた。この時間帯のいつもの風景である。
「この前さ、遂にここでファイヤーキングのマグカップ買ったんだよね」
「へぇ。どんなの買ったの?」
「これこれ」長瀬はスマホをポケットから取り出しファイヤーキングのマグカップが写る写真を新里に見せた。
「ふたつ買ってんじゃん」
「一目惚れして狙ってたやつでさ。バイト頑張って買った」
 ひとつは七十年代中後期から八十六年に製造されたもので、ゴーストバスターズのロゴがプリントしてあるものだ。
「これもファイヤーキングなの」新里はもうひとつのカップを指差し言った。
「これはアンカーホッキング製でバックトゥザフューチャーの」
「出ましたね、バックトゥザフューチャー」長瀬の説明途中で新里は茶々を入れるように割って入った。
「ちょっと、最後まで聞いてよ。ドクの研究室にこのアンカーホッキング製のマグが置いてあるんだけど、これも念願のってところだね」
「好きだねぇ」そういうと新里は嬉々とした笑みを長瀬に見せた。
「八十年代の映画とか音楽とかなんか好きでさ」
「うちのお兄ちゃんも好きで、その影響もあって、私も実は好きなんだよね」
「なんだよ、言ってよ。じゃあ、バックトゥザフューチャーも?」長瀬は、お兄さんは今どうしてるの? と聞きたいが聞く度胸は持ち合わせていなかった。
「見てるよ」そういうと新里は今度はどちらかと言えば憐憫の笑みを見せた。
「ちょいちょい、もうバックトゥザフューチャーの話のもういいよみたいな感じ出さないでよ」
「あれ、バレた。さすが大学でカウンセリングをしてるだけあって、表情を読むのが上手だね」
「バックトゥザフューチャーの話はもうこの辺にしておこう。映画だったら何が好きなの」
「断トツでグーニーズ」
「何回も観たよ。あの洞窟スライダーにめっちゃ憧れない」
「それね。小さい時から思ってる。私もあんな冒険してみたいなってグーニーズを観る度に思う。でもさ、そういう想いがあっても出来ないって思っちゃうと悲しくなるよね」
「あー、確かにそんな風に思うこともあるね。映画を観終わった後の高揚感もあるけど、それと同時に悲愴感も生まれるっていうかさ」
 そんな話しをしている間にふたりはルック商店街を抜け青梅街道まで来ていた。青梅街道を通る車はまばらである。
「ここからはどうするの?」
「いつもならここを右に曲がって住宅地を通って高円寺に戻る感じかな」
「じゃあ、そんな感じで戻ろう」
 住宅の殆どは灯りが消え、今日が終わったことを知らせていた。
「住宅地の散歩って好きでさ、たまにひとりで散歩することあるんだよね」長瀬は住宅を眺めながら言った。
「なんか意外。いつも、賑やかなところにいるイメージある」
「ははは。そんなイメージなんだ」
「人がたくさんいるところにいるイメージ。なんで住宅地の散歩好きなの」
「単純に家を見るのが好きなんだよ」
「どうして?」
「この家にはどんな人が住んでいて、どんな暮らしをしているんだろうなとか、それでさ、どんな人生を歩んでこの家を建てたんだろうとか、なんでこの家にしたんだろうって想像しながら散歩するのが好きっていうかさ。それと例えば凄い豪邸とかお洒落な家を見つけた時に、将来自分もこんな家に住んでみたいなって思って、そうするために今頑張んなきゃって思わせてくれるっていうかさ」
「なるほどね。将来か」
「新里さんはそういうのないの。こういう家に住みたいとか。結婚したらこんな生活をしてみたいみたいな」
「結婚かぁ。まぁ、人並みかな。でもお洒落な家には住みたいかも」
「最近さ、小杉湯のとなりに小杉湯となりっていうのができたじゃん。あれが自宅だったらいいよなぁって思う。新里さん、あそこ入ったことある」
「あそこって会員制らしくて、会員じゃないと入れないんだよ」
「へぇ、そうなんだ。今時って感じだね」
「でも、いいよね、あの建物。一階にキッチンとリビングっていうのかな、お洒落なテーブルと椅子があって、二階はワーキングスペースなんだって。で、三階は和室とテラスがあるらしい」
「最高じゃん。会員になろうかな。ワーキングスペースってそこにパソコン持ってきて仕事とかするんでしょ」
「字の如くね」
「家とかうちの大学の研究室とかよりも論文執筆、集中できそう」
「長瀬くんてどんな研究してるの」
「テーマは、小さい頃に虐待された人のその後の人生についてっていうので、今、インタビューとか取ってるところ」
「なんでそういうテーマにしたの」
「それは長い話しになるけど」長瀬は大友正樹の顔を思い出していた。
「中学の時の友達が親から虐待されてて、結局そいつ、自殺しちゃったんだよね。結構仲良かったやつで、正樹だからマーティーって呼んでてさ。ちょうどバックトゥザフューチャーを観た頃だったからすぐにマーティーってあだ名にしたんだよね。本人は嫌がってたけど。それでも、結局マーティーも一緒になってバックトゥザフューチャーにハマって休み時間とか放課後等とかよくあーだこーだ話したの楽しかったな。でもさ、いつも家に帰る時間になるとマーティーの表情が暗くなるんだよ。僕もマーティーの家庭のことは知ってたよ。父親がマーティーに暴力を日常的に奮ってたんだよ。僕はその現場を見たことはなかったけど、学校に来るとさ、顔にあざを作ってくることもあったんだ。どうしたって聞いたら父親にやられたって。でも、僕は助けてやれなかったんだよ。僕もマーティーの父親は怖かったんだ。小学校の時にさ、地域の小学生たちがほぼ強制的にソフトボールやらされるんだけど、そのソフトボールチームの監督がマーティーの父親だったんだよ。僕たちもそうだけど周りの大人からも鬼監督って言われててさ。ある時、僕たちもマーティーも守備でミスを連発したことがあって、それにキレた父親がマーティーをネットに縛り付けにしたんだよ。そしてさ、縛り付けられたマーティーに向かって思いっきりボールを投げたんだ。マーティーは身動きが取れないから、物凄い速いボールがマーティーの腕とか腹とか足とかに当たるわけ。それを見せられた僕たち他のメンバーはビビっちゃってさ。それ以来マーティーの父親には逆らえないって思うようになっちゃって、マーティーが日常的に暴力を振るわれてるってわかってても、僕は助けてやれなかったんだよ。そして、マーティーはある日突然死んだんだ。マーティーが自殺した後にさ、結構ニュースとかにもなったんだよね。児童相談所や学校の対応はどうだったんだって。児相も学校もそりゃあ悪いよ。でもそれ以外の僕も含めた人たちもマーティーの自殺を止められなかったんだよ。それ以来僕はマーティーが自殺したことを一日足りとも忘れたことはなくて。ある時、もしマーティーが生きていたら、虐待を受けたまま大人になったらどんな人生を歩んでたんだろうって思うようになってさ。そう思ったのが高二くらいの時かな。マーティーが自殺した当時、学校でスクールカウンセラーとの面談っていうのがクラスの全員に組まれてさ、その面談の時にマーティーがそのスクールカウンセラーには心を開いていろんな話をしてくれたって言ってて、僕が知らないマーティーの顔っていうかさ、そういうのを教えてくれたんだよ。僕は助けてあげられなかったけど、近くにそういう大人がひとりでもいたのかって思ったら、ちょっとだけ気持ちが楽になって、スクールカウンセラーっていいなってその時思ったんだよね。まぁそういうこともあって、虐待を受けた人がどんな思いで人生を送っているのか、どんな辛さがあるか、僕はどんな支援ができるか、そんなことを考えるようになって、今があるって感じかな」
 新里は前方を見つめたまま、表情ひとつ変えず歩いていた。
「新里さん、聞いてる」長瀬は新里の肩をトンと叩いた。
「え、あ、うん。なに」
「ごめん話し長かったね」
「ううん、大丈夫、大丈夫。あ、もうこんなとこか。わたしこっちだから。長瀬くん家あっちだよね」
 ふたりは住宅地を抜け、また中通りに戻ってきた。高円寺駅へ向かむ人は皆無で、駅からこちらへ向かって歩く人たちがちらほらいる程度だ。
「そう、うちあっち。大丈夫、ちゃんと帰れる?」
「帰れるよ、すぐそこだよ。じゃあまたね」
「うん、また」
 長瀬は新里が憂色を隠し切れていないことに気付いていた。
「また、散歩一緒に行こうね」
「オッケー」新里は振り返らず右手だけ挙げて高円寺駅方面に歩いていった。
 新里亨は新里摩耶の兄なのだろうか。だとすれば新里摩耶は想像もできない悲しみや苦しみを抱えて生きていることになる。そう思うと長瀬は心臓をギュッと握り潰されるかのように苦しくなった。そして、彼の中で新里摩耶に対する庇護欲が増すように感じた。


第三話「怨嗟」

 秋野裕一は妻の仁美に身体を摩られながらソファーにもたれていた。3歳と5歳の子どもたちはリビングで無邪気に遊んでいる。
 妻が「大丈夫?」「どうしたの?」「お風呂入ってもう寝ようか」と問いかけるが、秋野は妻の声は聞こえているが、言葉がうまく出せなかった。それに加え、ソファーと身体がくっついてしまったかのように身体がひとつも動かせなかった。秋野は口をだらしなく開き、一点を見つめ、「このまま死ぬのかなと」考えていた。

 二年前、秋野は十五年勤めていた障害者施設を辞め、地元である高円寺で地域に住む障害がある人や高齢者のサポートをしたいという想いで訪問介護の事業所を立ち上げた。事業所を立ち上げてすぐに、地元の知り合いから訪問介護サービスを利用したい人がいると紹介を受け、開業をしてすぐに記念すべき最初の利用者が決まった。
 その後、秋野の人柄と丁寧で痒いところに手が届くような介護サービスの提供のおかげで秋野の事業所の評判は利用者だけでなく、利用者と訪問介護事業所を繋げる役割を果たす相談員たちにも広がっていった。それに伴い、売上も上がり、自分の報酬を出せるまでになった。ここまで秋野はひとりで事業所の切り盛りをしてきたが、いよいよ利用者の数も増え、事務的な作業も追いつかなくなり、秋野は新しく従業員を雇い入れようと考えていた。そんな矢先、元職場の同僚であった新谷美鈴から連絡があった。話を聞くと、一緒に訪問介護をやりたいと秋野には願ってもいない嬉しい話しであった。秋野は新谷のことは一緒に働いていた頃から一目を置いていたこともあり、彼女となら事業所は更に大きく成長できるだろうと大いに胸を膨らませた。しかし、そんな期待も数ヶ月で泡のように消えていった。
新谷が事業所に入ったことで、利用者は増え、アルバイトの従業員も増えていった。しかし、新谷と一緒に働きだして数ヶ月が過ぎる頃、利用者からのクレームが増えるようになった。クレームの内容は「ヘルパーのケアが雑だ」「家のルールを守ってくれない」「タメ口で話されて気分が悪い」「遅刻することがある」「ヘルパーが不機嫌な時がある。その時のケアは不快」などというものだった。他にも週に一度や二度ではない。毎日のようにクレームが入る週もあった。このクレームが入った訪問先に出入りしていたのは新谷だった。秋野はクレームが入る度に謝り、そして新谷に注意をした。しかし、クレームが減ることはなく、利用者がサービスを受けたくない、契約を解除したいと申し出るケースも出てきてしまった。訪問の仕事だけでなく、新谷には事務の仕事も任せることがあったが、「訪問で忙しくてできませんでした」などと言い訳をし、期限のある書類などを〆切のギリギリにそうして申し出るため、秋野が夜遅くまで残り、仕事をすることが増えていった。
その頃からだろう、秋野は仕事上のミスが多くなっていったのは。例えば、予定していたことを忘れてしまったり、期限ギリギリまで仕事に手をつけられなかったり、スケジュールをうまく立てられなかったり、やるべきことを先延ばしてしまったりと、自分だけでなく周りのひとたちにも迷惑をかけてしまうことが多くなっていった。そんな中、相談員さんのひとりに謝罪をしていた時に、その相談員さんに「失望しました」と言われた時に秋野の頭か心かわからないが、なにがプツンと切れたような感覚があった。そして、そのプツンと何かが切れた後に秋野が見ていた色のあった世界が灰色になってしまったのだ。帰宅し、ソファーに座ったまま動かない秋野を見た妻の仁美はすぐ異変を感じた。
 次の日、秋野は妻と精神科クリニックに受診をした。そして、鬱病だということ、更に注意欠如多動症だということを告げられたのだ。
医者からの助言もあり、しばらく会社を休むことにした秋野はそれを従業員に伝えると同時に、自分の病気について伝えるべきか悩んでいた。会社の代表が鬱病で発達障害を持っていると知ったら従業員たちは不安に思わないだろうか。誰が会社を運営するのか。この会社は今後大丈夫なのか。潰れたりしないだろうか。そんな風に従業員たちは思わないだろうかと不安になった。しかし、秋野は従業員たちに自分のことをしっかりと話し、自分の苦手とする部分は助けてもらいたいと正直に伝えようと考えた。それは会社を存続させ、利用者に介護サービスを提供し続けるためと考えたからだ。
秋野は、従業員たちに一斉メールを送った。内容は自身の病気のことと、これからの会社の体制のことだった。しかし、返信は誰からもなかった。一週間経っても返信はなく、時間が経つにつれて、不安も大きくなっていくばかりだった。事業所のことも心配だった。事業所は新谷に任せるしかなかったからだ。
何か不安なことや心配事があると秋野は元同僚のひとりである吉見武に相談していたことを思い出し、メールを送ることにした。そのメールの中に一緒に働いてくれないかということも書いた。間も無くして、吉野から返信が届いた。
『久しぶりだな。なんか大変らしいな。誘いもありがとな。でも、今はちょっと無理かな。危ない橋は渡りたくないというかさ。秋野の会社やばいんだろ。評判が良くなくて、正直、会社が潰れるのも時間の問題だって新谷さんが言ってたぞ。だから心配はしてたんだよ』
 秋野は吉野からのメールを読んで、元職場の人たちが自分のことを嘲笑っているんじゃないかと思ってしまった。十五年いた施設を辞め、意気揚々と会社は作ったはいいがすぐ潰れるなんていい笑いものだ。そんな風に思われているのだと考えてしまうのだった。
 秋野は新谷がなぜ仕事を辞めて自分の会社に来たのか知っているかと尋ねた。その吉野からのメールの返信を読み、秋野は暗闇に飲み込まれていくような恐ろしさを感じた。
 新谷は、秋野と同じ職場で一緒には働いている時は彼を憧憬の念を持つくらい秋野を評価していた。しかし、秋野が仕事を辞めて会社を立ち上げるということ知り、彼が毎日楽しそうに仕事をしていたり、新しい仕事の準備を嬉々としている姿を見ている内に彼女の彼に対する気持ちは怨嗟に変わっていったのだという。そして、会社を実際に立ち上げ、順調な日々を送っていると知った新谷は、それをぐちゃぐちゃに破壊してやろう、そして、壊すだけでなく、秋野が築き上げたものをすべて奪ってやろうと考えるようになったのだ。
 吉野のメールで新谷の真意を知った秋野はあまりの衝撃に畏怖の念に打ちひしがれた。更に追い討ちをかけるのかのように1通のメールが届いた。
 秋野社長へ、から始まるメールは常勤の従業員のひとりである坂下ひなたからだった。内容は今月いっぱいで退職するという意向のメールだった。まず、秋野は思った。あの一斉メールが悪かったのか。正直に伝えたことが悪かったのか。秋野はメールを見た瞬間から思考が回らなくなり、「どうしよう」という言葉が頭の中を埋め尽くした。彼女からのメールに何か返信をしようと思うも、一文字も打つことができなかった。
 更に次の日も、今度はアルバイトの従業員から退職する意向のメールが届いた。また、新しく雇う予定だった介護士からも入職辞退のメールが届いた。その後もまたひとり、ふたりと退職願いのメールが届いた。その中のひとりが新谷にこんなことを言われて不安になったので辞めますという内容のメールを送ってきた。秋野はその内容を見て驚愕した。
秋野が従業員にメールを送ったその後、新谷美鈴は従業員たちに対してあるメールを送っていたことがわかった。その内容はこうだった。

『秋野からメールがあったと思いますが、はっきり言って、この会社はすぐに潰れると思います。社長が鬱になったら、誰が会社を動かすのでしょうか。ましてや、発達障害の人が代表をやってるなんてこっちからしたら不安でしかないですよね。私は常勤だけど、訪問の仕事で手一杯です。さらに秋野が利用者さんや他の事業所さん、それから行政に対してうまく働きかけられなくなったことや、迷惑をかけてしまったこともあったことから、この事業所の評判はガタ落ちです。そんな事業所にだれがサービスを依頼してくるでしょうか。誰もしてこないと思います。なので、きっとこの事業所、そして会社は潰れるでしょう。秋野が協力してやっていこうと言っていたけど、そんな余裕わたしたちにはどこにもないですよね。辞めるなら早いうちがいいと私は思います。私もそのうち辞めると思います。こんな会社にいたら不幸になると思います。でも私ならもっといい会社を作れます。そして、もっとより良い福祉サービスを提供することができます。秋野よりも私は経験も知識も豊富ですからね。もし、私と一緒に新たに会社を作りたいという人は申し出てください。秋野の会社よりは全然ましだと思います』

 メールを読み終わり、秋野はソファーにもたれながら涙を流した。そして、妻にお風呂に入ってくると言い、お風呂に入った。
妻の仁美が秋野がいつもより長めにお風呂に入っているなと心配に思い、お風呂のドアを開けると浴槽が赤く染まっていた。秋野は手首をカッターで切って自殺を図ったのだ。その後、妻の仁美はパニックになりながらも、救急車を呼びんだ。すぐに救急隊が駆けつけ、手首を応急処置してもらい、幸い傷は浅く、死に至るものではなかった。
 秋野が眠ったことを確認した後、妻は大学の友人であった浦沢彩月に夫の状態を知らせるために連絡を取った。彼女に夫の様子を伝えると、明日にでも大学の相談室に連れてきてほしいと言われ、翌日、妻は秋野を連れ、大学の相談室を訪れた。
「ごめんね、忙しいのに。連絡しちゃって。主治医にも電話したんだけど、繋がらなくて、彩月がカウンセリングしてるの思い出してね」
「覚えててくれてあるがとう。とにかく、旦那さんは早めの治療が必要だと思う」
「治療って薬を飲むとかそういうことになるの?」
「坂垣教授に相談して決めることになると思うわ。これから板垣教授を呼んでくるから、ちょっと待ってて」
 それからすぐ、板垣が相談室へやってきて、秋野とふたりで話すことになった。1時間程経った頃、ふたりは相談室から出てきた。
 相談室から出てきた秋野の表情はどこか晴れやかで、それを見た妻の仁美は安堵した。
「ごめん、心配かけて」秋野が妻に優しく声かけた。
「このまま死んじゃうんじゃないかと思った」仁美の目には涙が溜まり、今にも溢れ落ちそうである。
 秋野と仁美は板垣と浦沢に感謝を告げ、大学の相談室を後にした。
「明日、会社に行ってみんなに話をしてくるよ」
「そう。無理しないようにね。皆さんに話が終わったらすぐ帰ってくる? 何かあなたの好きなものでも食べに行こうよ」
「じゃあ、焼き肉かな」
「久し振りだね、焼き肉。行こう行こう。子どもたちも喜ぶよ」

 翌日、秋野は会社へ向かった。昨夜、従業員たちには一斉メールで緊急で話したいことがあると伝えてあった。秋野が会社に着くと新谷を始め、訪問介護に行っている数名以外の従業員がすでに集まっていた。従業員たちは神妙な面持ちで秋野を出迎えた。誰も口を開ける訳でもなく、社内にはただ澱んだ空気が流れるだけだった。
 秋野は自席に着き、従業員たちの顔を見たが、だれも秋野の顔を見ようとしなかった。
秋野は自分の鞄からCDプレイヤーを取り出し、イヤフォンを耳に挿し、再生ボタンを押した。
 従業員たちは秋野の行動を見て、お互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべていた。静まり帰る社内の中に秋野のイヤフォンから漏れる音だけが聞こえていた。
「秋野さん、何してるんですか? わたしたち時間がない中、秋野さんが集まれって言うから集まってるんですよ。なんで今、音楽を聞く必要があるんですか?」新谷は声を荒げて言った。
 秋野にはその声は届いておらず、イヤフォンから流れる音楽に集中しているのか、一点を見つめるだけだった。
「いい加減にしてくださいよ」新谷が秋野に近づき、イヤフォンを無理やり耳から外そうとした時だった。秋野が新谷の首に噛み付いたのだ。新谷は何が起こったか把握できず、痛みを感じたと思った瞬間には視界に血飛沫が見え、その放物線を描いた血飛沫は他の従業員に飛び散った。
「きゃー!」女性スタッフの顔に大量の血が飛び散り、恐怖の叫び声があがった。
「社長、何やってんすか!」男性スタッフのひとりがそう言い秋野に近づいた。
 椅子や机がひっくり返り、従業員たちは真っ先にドアの方へ逃げる者、その場から動けない者、何かを探して右往左往している者と事務所内は混沌とした状態だった。
 秋野は更に今度は新谷の反対側の首に噛みつき、首の皮を噛みちぎった。血飛沫がまた飛び散り、血は事業所の天井にまで飛び、天井から今度は真っ赤な血が滴っていた。事務所の中は新谷の血で赤く染め上がっていった。
 新谷は秋野に両肩を掴まれたまま動けず、失禁までしていた。
 秋野は咀嚼していた首の皮を飲み込むと。今度は首の後側に噛みつき、肉を剥いだ。まるで、フライドチキンを食べているかのようである。
 真っ先に逃げた従業員の五十嵐はエレベーターのボタンを押し、スマートフォンで警察に電話をしていた。五十嵐がいるのは七階である。一階から登ってくるエレベーターが永遠に上がってこないような感覚に陥る。
「警察ですか?」
「どうしましたか?」電話に出たのは女性の警察官である。
「えーと、あのー、社長が、首を」
「まずは落ち着ついてお話ししてください。あなたのお名前は? 社長さんがどうされましたか?」女性の警察官は首と聞いて、経営に行き詰まって社長が首吊りをし、会社にやってきた従業員が首を吊って死んでいる社長を見つけて電話してきた、そんなところだろうと考えていた。
「五十嵐といいます。あのそれで、社長が新谷さんの首を噛みちぎりました」
「新谷さんというのはそちらの会社の従業員さんですか?」女性警察官の顔色が一気に変わった。
「そ、そうです。首から血がたくさん出てて」
「あなたは大丈夫ですか?」
「僕は、はい、大丈夫です」
「その場所の住所は教えてください。警察官を向かわせます。救急車は呼びましたか?」
「えーと、救急車を呼んでません。それで、えーと、住所ですね。住所は杉並区高円寺、高円寺駅のえーと、駅前の大和ビルの七階です」
「あなたは安全な場所に逃げてください。あなた以外に何人の方がその場にはいますか?」
「えーと、新谷さん、社長と、円谷さんと、木下さんと大槻さんと五人です」
「わかりました。すぐに逃げてください」
 電話が切れたと同時にエレベーターが到着した。すぐに五十嵐はエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押し、そして『閉まる』のボタンを連打した。ドアがゆっくりと閉まっていき、五十嵐は助かったと思った。と思った矢先、血塗れの手がエレベーターの閉まっていくドアを止めた。
「うわー!」五十嵐はその場で腰が抜けたかのように座りこんだ。
ドアの安全センサーが感知し、ゆっくりとドアが開いていく。五十嵐の目の前には真っ赤に染まった秋野がいた。
「しゃ、しゃ、社長、ど、どうしたんです。なにやってるんですか。血ですか、それ。なんか赤いですよ」
 秋野は口角を上げ白目を向いている。そして、五十嵐の方へゆっくりと近づく。
「社長やめてください。僕、会社辞めませんから。一緒に頑張ってやっていきま­」
 秋野は五十嵐の口に噛み付いた。上唇が五十嵐の顔から剥ぎ取られ、上の歯が剥き出しになった。
 五十嵐は言葉にならない声を出しながら、両手で口を押さえた。剥ぎ取られた部分から大量の血が地面に落ちていく。
 秋野は五十嵐の両手を取り、押さえている唇から両手を引き剥がした。そして、今度は下唇に噛みつき、それを噛みちぎった。
 その間にエレベーターのドアは閉まり、一階へと降りていった。エレベーターのドアが開くとエレベーターの中は血の海と化していた。五十嵐は座ったまま動かず、首から血が永延に噴き出していた。秋野は五十嵐の内臓を腹から引きずり出し、それを貪り食っていた。
「警察です! 大丈夫ですか!」通報を受けた駅前の交番の警察官がやってきたのだ。
 警察の声は秋野には届いておらず、五十嵐の内臓を夢中で食べているようだった。
「現場に到着しました。佐々木です。負傷者一名、もうひとりはマル被かと思われます。確保しますか」警察官が耳に付けているイヤフォンから声を漏れる。
『応援が来るまで待て』
「マル害はどうしますか」
『状況は』
「恐らく死亡しているかと」
 秋野はその場から一切動こうとせず、ただひたすら五十嵐の内臓を咀嚼していた。
 まもなくして、数名の警察官が合流し、秋野はなんの抵抗することもなく確保された。警察官が七階の事務所に入ると、部屋の中は物が散乱し、血の臭いが充満していた。事務所の中は、天井からは血が滴り、床は血で真っ赤な水たまりがいくつもできていた。その中から四人の遺体が見つかった。その四人全員の首は骨だけになり、腕が一本ない者、足が一本ない者、腹から内臓が飛び出している者、顔の原型がわからない者たちが血の海で静かに横たわっていた。


第四話「蛇蝎」

 この部屋に入ると耳の奥が痛くなる。長瀬誠はいつもそう思いながら部屋の椅子に腰掛ける。そこには、正方形の白い壁に大きめのテーブルと座り心地がイマイチの椅子が四脚、そして小さな窓がひとつだけある。ドラマなどでよく見る警察の取り調べ室みたいだと、長瀬はこの部屋に最初に入った時に思った。それが第一相談室だ。
「今日は花粉が飛んでるんですが、石田さんわかりますか?」
「いや、まったくわからないですね。今の時期も花粉て飛んでるんですね。三月とかによくニュースで花粉飛散予報みたいなのをやってますよね」石田凛太郎は窓の外を見ながら答えた。
「僕の場合、ブタクサなんで、飛散の時期がこの時期なんです。不思議ですよね。花粉を感じる人とそうでない人がいるんですよね。僕はブタクサの花粉症なのでこの時期になると鼻や目で花粉を感知するんです」
「感知ですか」
「はい。鼻がムズムズっとしてくるんですよ。あとは、目も痒くて痒くて仕方なくなるんです。それが花粉がやってきたという合図なんです。そしたら僕はこうしてマスクをして、外に出る時は花粉用の眼鏡をして、耳鼻科で花粉症の薬をもらって花粉テロに備えるわけです」長瀬は窓に向かってファイティングポーズを取った。
「テロだなんて大袈裟な」石田は表情を少しだけ崩し、肩の力を抜いた。
「石田さん、今日はどうされましたか?」長瀬は石田の肩が下がったことを確認して話題を変えた。カウンセリングで本題に入る前にクライエントの緊張をほぐしてから本題に入るように心がけている長瀬は今日もいい出だしだと自分自身を安心させた。
「子どもがもうすぐ幼稚園に入るんです」
「ということは、今年で四歳ですか」
「子どもの成長はとても早く感じますよ。ついこの前産まれたばかりで、こんなに小さかったのに、最近じゃ自分が一番って感じで、反抗まではいかないですけど、こちらもイラッとしてしまうことがあるんです」後ろめたい気持ちがあるのか石田は少しだけ俯いた。
「それで、イラっとした時に父の顔が浮かぶんです」
「最近、お父様には」
「近くに住んでますからね。時々子どもの顔を見にくるんですよ」
 長瀬は言葉を発さず、石田の言葉を待った。
「大丈夫ですよ。うちの子どもには優しく接してますから。でも、僕と父がふたりになると、子育てのこととか、仕事のことで嫌みたらしくぐちぐちと小言を言ってくるんです。僕はそれを我慢して聞いてるんです」
「それは辛いですね。そんな風に言われると子どもの頃の事を思い出しますか」
「そうですね。思い出しますね。そして、恐怖を感じます」
「お父様にですか」
「いや、私自身にです。私も父のように自分の息子にいつか暴力を奮ってしまうんじゃないかって、すごく怖くなるんです」石田はぐっと手に力を入れているようだった。

石田は幼い頃から父親から暴力を受けていた。石田の父親は無口で言葉で何かを伝えることはほとんどなく、例えば、石田が何か悪いことをすればまず平手打ちを食らわすのだ。平手打ちで吹き飛んだ石田を無理やり立たせ、さらに平手打ちを食らわせる。それは日常の中で何度も、何度も、繰り返された。そうやって悪いことをすると痛い目に合うということを教えられたのだ。
 石田は小学六年生の時に父親の暴力から解放されたいと、庭の柿の木に紐を吊るして、首吊り自殺を図ったことがあった。しかし、身体の重みで枝が折れ、石田はそのまま落下し、結局、足の骨折だけで済んだ。その時も父親は「大事な柿の木の枝を折りやがって」と石田に平手打ちを食らわした。
 その後も、父親から暴力を受け続ける日常は変わらなかった。中学、高校と進み、家に帰れば父に怯え、家にいない日も頭の片隅には父親の影がちらつくのだった。
 高校生の時も一度、石田は自殺未遂をしていた。その日もやはり父親に殴られた日だった。殴られた理由は覚えていない。
 石田はその日の夜中、瓶に入った風邪薬をすべて飲んで自殺をしようとしたのだ。これで死ねると思いながら意識が遠くなっていったが、朝いつものように父親に怒鳴られながら起こされた。フラつきながらリビングへ行き、ぼーっとした頭で朝食を食べた。父親も母親も兄弟も祖父母も誰も昨夜、自分が自殺を試みたなんて気づいていないようだった。父親に「何朝からぼーっとしてんだ」と平手打ちをされ、そのまま高校に登校した。
 高校卒業後、石田はアメリカへ留学した。とにかく父親から離れたかったからだ。しかし、父親を説得するのは容易なものではなかった。なんとしてでもアメリカ留学を決めたかった石田は父親に土下座までしたのだ。子どもが父親に土下座をする家族というのは存在するのだろうかと石田は頭を床にべったりと付けながら考えていた。
「どうかアメリカで英語を勉強させてください。お願いします」留学なんてどうでもよかった。英語なんてどうでもよかった。ただ父親から遠く離れられればそれでよかった。
 結局、父親は留学を許し、石田は二年間アメリカへ行くことになった。
石田はそうして漸く父親の暴力のない平穏な生活を送ることができるようになったのだ。このままアメリカに残りたいと強く思ったが、父親との約束があった。約束というより契約というのか。
「留学は許す。しかし、留学費用は今俺が出すが、留学が終わったら、日本に戻って日本の大学に入って日本の企業に入って、俺が出した金をすべて返せ。それを約束できるなら留学に行ってもいい」それが留学に行く条件だった。
 あっという間に終わってしまった留学から帰国した石田は東京の大学の夜間部に3年次編入学をし、実家から毎日大学に通った。ご想像の通り、父親からの暴力は再開された。
石田は父親の暴力に耐えながら、昼間はアルバイトをして父親に払ってもらった留学費用を貯めながら学生生活を送った。大学は優秀な成績で卒業し、大学卒業後は都内の中小企業の営業職に就いた。毎日に必死で働いた給料の一部は父の口座に消えていった。何のために働いているのだろうと暗い気持ちになることが日に日に増えていった。そんな中、職場で知り合った女性と石田は結婚し、数年後に子どもを授かった。自分の家族を持てたことで僥倖を感じる一方、自分も父親と同じことを子どもにしてしまうのではないかと苦しんだ。
 父親のいる実家の近くに住んでいるのは、妻の実家が九州にあるため、石田の実家家族に子育てを手伝ってもらうためだった。父親は一緒に住めばいいだろうと言ってきたが、それはなんとか免れている状態だった。しかし、時々父親がやってきて石田に何かと文句をつけて帰っていくのだ。
「最近また自殺願望が出てきて」
 長瀬は黙って石田の言葉を待った。
「でも、子どものことを思うと踏みとどめられてるというか。やっぱり、僕がもしいなくなったらって思うと、子どもや妻がかわいそうで」
「そうですよね」長瀬は次の言葉を頭の中で選んでいたが、どの言葉もそれが石田にとって適切な言葉なのか判断がつかずにいた。
 長瀬が返答に逡巡しているとコンコンとドアが鳴った。ドアの方を見るとドアを少しだけ開け、板垣教授がそこから顔を出していた。
「石田さん、こんにちは。私もお話しいいですか?」
「板垣先生こんにちは」
 板垣は静かにドアを閉め部屋の中に入った。
「調子はいかがですか?」
「よくはないですね」
「お父様との関係ですか?」
「そうですね」
「少しだけふたりでお話ししましょうか」
「じゃあ、僕はこれで」長瀬はすぐに立ち上がり、石田に会釈し部屋を出た。
 この部屋の中の会話は部屋の中にマイクが設置されており、別の部屋でも話が聞こえるようになっている。板垣は別部屋で長瀬と石田の会話を聞いており、タイミングを見て部屋へやってきたのだ。
 長瀬は部屋を出ると、相談室の事務室へ行き面談の記録を書くことにした。記録を書きながら自分のカウンセラーとしての未熟さを噛みしめていた。
 面談の記録を書き終えようとした頃、石田と板垣が相談室から出てきた。
石田は和かに板垣に挨拶をし、エレベーターに乗って足取り軽やかに帰っていった。
「板垣教授、石田さんどうでしたか」
「自殺の話題が出たから驚いたろ」
「はい。正直、どんな言葉をかけたらいいか迷っていました。教授がいらしてくれて助かりました」
「まぁ、ここでいろんな経験積んで、自分の理想とするカウンセラーになりなさい」
「はい。勉強させてもらいます。今後ともご指導よろしくお願いいたします」
「頑張ってね」板垣は長瀬の方にポンと手を置き、自室の方へ戻っていった。

 翌日、大学へ行くと大学の入り口前に報道陣らしき集団が誰かが出てくるのを待ち構えているようだった。
 長瀬は報道陣たちを避けるように裏口から大学に入った。エレベーターで上の階へ行き、相談室がある階でエレベーターの扉が開くと、板垣研究室のメンバーたちが集まって何かを話していた。
「やばいことになってるぞ」長瀬と同期の指山稜が長瀬を見つけるとすぐ飛んできた。
「やばいってなんだよ。牛久先輩の修論のデータ改ざんがついにバレたか」
「データ改ざんなんてしてねぇつーの。それよりこの腹の肉をどうにかしろ」牛久隆二が長瀬の腹を強く掴んだ。
「痛いっすよ」
「面談が入ってるから来てみたらこの騒ぎだよ。ていうか、長瀬お前、石田さんの担当だろ」牛久は長瀬の腹から手を離して言った。
「はい。それがどうかしたんですか」
「なにも聞かせてないんだな。まあ、今朝起きた事件だからな」
「事件。事件ってなんですか。石田さんもしかして自殺しちゃったんじゃ」
「逆だよ」
「逆」
「逆っていう表現はおかしいか。石田さんがお父さんを殺しちゃったんだよ」
 長瀬はその言葉を聞いた途端、時間が止まったような感覚を覚えた。石田さんがお父さんを殺した? なんで? いや、なんでってそりゃその可能性は感じていた、けど、殺すってそんなことは。
「いま、警察の人が板垣教授と話してるよ。長瀬、お前もきっと何か聞かれるぞ。おい、聞いてんのか、長瀬」
「あ、はい」心臓がいつもより速く動いていた。
 指山と牛久は何か石田のことを話しているのだろうが、長瀬の耳には届いていないようだった。
 しばらくすると、廊下の奥からコツコツと誰かがこちらへ向かってきた。
「長瀬誠さんですか」
「はい」
「高井戸署の小武という者です」
「同じく高井戸署の千田です」
「ちょっとお話しをお聞きしたいのですが、お時間よろしいでしょうか」ふたりの警察官は長瀬を囲んで言った。
「は、はい」長瀬はふたりの警察官の威圧感に気圧されていた。
「こちらの部屋を使ってよいとのことだったので、こちらでお願いします」
 長瀬と警察官ふたりは第一相談室へ入った。まさか警察官とこの部屋で話をすることになるとは、本当にドラマのようだと長瀬はふたりの警察を見ながら思った。
「まず、石田凛太郎さんのお話しからいたします」
「はい」
「今朝、石田さんが実の父親の純三さんを殺害しました。石田さんの妻の恵さんから通報があり警察官が駆けつけると、純三さんは首から血を流し、心肺停止の状態で発見されました。妻の恵さんは夫がお父さんを殺してしまったと言っていたようです。それで、当の本人は何も話してくれないと言いますか、もぬけの殻といいますか」
「なにか心当たりはありますかね、長瀬さん」
「心当たりですか」
「昨日、ここでふたりでお話しをしていましたよね。そこでなにか聞きませんでしたか」
「ここでお話ししたことは守秘義務があるのでお話しはできません」
「そのことなら、すでに板垣教授から許可を得ていますので、話していただいて大丈夫です」
 長瀬は昨日の面談の様子をふたりの警察に伝えた。警察は眉間に皺を寄せたり、腕を組んだり、頭を傾げたりしながら長瀬の話を聞いていた。
「それで、途中から板垣教授と交代したんですね」
「はい。面談が終わって出てきた時には石田さんはどこかすっきりした様子のように見えました。なので、そんな石田さんがお父さんを殺すなんて考えられません」
「なるほど。では、我々から事件の経緯を説明させていただきますね」

 昨日、石田凛太郎は大学の相談室から自宅へ戻った後、いつもと変わらぬ様子で過ごしていた。妻の恵も何か変わった様子があったということは感じなかったという。次の日の朝、凛太郎、恵、息子の涼介の三人はいつものように朝食を食べていた。するとそこに純三が訪ねてきた。挨拶もせず、リビングのテーブルに着き、一緒に朝食を食べたという。恵はいつものことだと、挨拶だけして純三に朝食を出した。朝食を食べ終わり、お茶を飲んでいる時だった。凛太郎はテーブルを両手で勢いよく叩くと、立ち上がり、そのまま二階へと上がっていってしまった。それに驚いた息子の淳介は泣き出してしまったという。純三の前で凛太郎がそんな態度を示したのを初めて見た恵は驚きながらも、泣いている淳介を落ち着かせようとあやしていた。
 暫くすると、純三も二階へ上がっていた。するとすぐに二階で壁になにかが当たるような音が何回かした。恵は凛太郎と純三が争っているのではないかと、すぐにわかった。恵は凛太郎が純三から暴力を受けていたことを凛太郎から聞かされており、それがどれだけ辛いことだったのかも知っていた。恵の前で純三は凛太郎に手を出すことはなかったので、凛太郎が殴られる実際の姿は見たことがなかったが、暴力を振るわれていた時の話を聞かされるだけで、恵は胸が苦しくなったという。
 二階でまた今度は何かが倒れる音がした。それを聞いた恵は何か嫌な予感がした。その予感とともに立ち上がり、階段を駆け上り、凛太郎の部屋のドアを開けた。
 部屋の真ん中で仰向けで倒れていたのは、純三だった。倒れる純三の周りは血の海ができていた。首から流れ出る血は床一面を赤色に染めていった。恵はそれを見るや絶叫した。
「凛ちゃん! お父さんになにしたの! どうなったてんのこれ、ねえ! 凛ちゃん!」
 呆然と立ち尽くす凛太郎に恵の声は聞こえていなかった。凛太郎はイヤフォンを耳に挿し、何かを聴いているようだった。それに気付いた恵は凛太郎からイヤフォンを外した。そして、凛太郎を自分の方へ振り向かせて、言葉を失った。
 凛太郎の顔は血で赤く染まり、白目を向いていた。そして、少しだけ口角を上げ、なにかを咀嚼するかのように口を動かしていた。
「ちょっと凛ちゃん! お父さん死んじゃうよ! どうしちゃったのよ! 凛ちゃん!」
 凛太郎の咀嚼が急に止まると、口の中で咀嚼したモノを恵の顔を吐きつけた。
 生暖かい滑り気のある何かが恵の顔に張り付いた。恵はまた言葉を失い、顔に付いた何かを恐る恐る自分の手で取った。目でそれを確認し、倒れる純三の血が噴き出している部分を見てまた絶叫し、その何かを床へ叩きつけた。
 恵は部屋を飛び出し、淳介を抱きかかえ急いで家を出た。そして、家から少し離れたところで警察に電話をしたのだ。
 警察が自宅に駆けつけると凛太郎はまだその場で立ち尽くしていた。純三はすでに心肺停止の状態で、救急隊が蘇生を試みたが、息を吹きかえすことはなかった。石田凛太郎は抵抗することなく警察に連行されていった。

「それでいま、石田さんはどこにいるんですか」
「警察署です。何を聞いても答えてくれない。というか何の反応もないんです。まるで死んでるみたいですよ」
「死んでるみたいですか」
「そんな状態でこちらも困っているんですよ。そこでなんですが、署までご同行いただいて、石田さんの状態を見ていただきたんです」
「そんな、僕はただの学生で立派なカウンセラーでもないですし。石田さんの様子を見たからってなにかご協力できるとは思えないんですが」
「私も一緒に行くので、石田さんの様子を見に行きましょう」振り向くと板垣が神妙な面持ちでそこにいた。

 警察署に着いた長瀬と板垣はある部屋に通された。その部屋にはカーテンがあり、そのカーテンを開けると窓越しに身動きひとつせずじっと座っている石田の姿を確認することができた。
「板垣先生、石田さんのこの状態はどんな状態と言えますか」
「見ただけではなんともですが、一種にショック状態のようにも見えますね。このような石田さんの状態を見たのは初めてです。大学でも話しましたが、石田さんは月に数回、うちの大学の相談室でカウンセリングを受けていたんです。私は臨床心理士として彼の話を聞き、長瀬君にはカウンセリングのサポートとして入ってもらいました」
「板垣先生、兆候みたいなものはなかったんですか」
「兆候というのは、その殺害をするということのですか」
「そうです」
「確かに、石田さんはお父様との関係に悩んでいましたよ。しかし、人を殺すような理性を保てない人ではないです」
「僕は石田さんの担当になって間もないですが、そんな人を殺すような人には思えません。お父様を殺したいとかそんな風に仰られたことは一度もなかったです」
「そうですか。ですが、実際は殺してしまった。首を噛みちぎって」刑事は首に手をやり首の皮を剥ぎ取るような動作をしてみせた。
 板垣と長瀬は同時に困惑の表情を浮かべた。
「引き続き捜査になりますので、なにか石田さんのことで情報提供できることがあれば、ご連絡をください。じゃあ、お二人をお連れして。わたしたちはこれで」小武は部下にそう告げると千田と署内の奥へ消えていった。

「人を食う事件がこの一ヶ月で三件。しかも容疑者の三人とも明和大学の相談室に通っていた。それと三人に共通するのが、あのアイドルの音楽だ。あれを聞いて、みんなおかしくなって人を食い殺してる。しかし、容疑者のどいつもその時の記憶がないときたもんだ」
「小武さん、これって三十九条案件になっちゃうんですかね」千田は神妙な顔つきで小武に聞いた。
「それは裁判所が決めることだ。とにかく、明和大学の板垣が何かしらに絡んでいることは間違いないだろうな」
「これから張り込みになるな」
「帰れなくなりますね。奥さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。うちのことは気にすんな。ほら、捜査会議いくぞ」
 小武は「気にするな」と言ったものの、最近の妻の様子を考えると、なるべく妻の傍にいてやりたいと思いながらも連続する怪奇事件が解決するまではそうもできないと、ひとり抱え込む日々が続いていた。


第五話「刎頚の友」

 長瀬誠と大学時代の友人である佐伯浩太は高円寺の庚申通りにあるたこ焼き屋「丸たこ」で卒業式振りに再会を果たしていた。
「やっぱここのたこ焼きが一番すよ、店長」佐伯はたこ焼きを頬張りながらたこ焼きを焼く店長に人差しを立てて言った。
「ふたりで来るのは久し振りだね。長瀬くんは大学の人たちとよく来るからね」店長の丸岡はたこ焼きを転がしながら言った。
「卒業式の打ち上げ以来っすね」
「何そんな忙しかった。それとも、うちよりうまいたこ焼き屋見つけちゃった」丸岡はわざとらしく意地悪く言った。
「んなわけないじゃないですか、ここがナンバーワンたこ焼き屋っすよ。いや、ほんと忙しくて全然来れなかったんすよ」
「忙しいのに来てくれてありがとよ。ほい、これサービス」そう言うと丸岡はイカ焼きをふたつテーブルに置いた。
「おー、イカ焼き! あざす、店長!」
「ありがとうございます」
「ゆっくりしてってよ」
 ふたりはイカ焼きにソースをかけ「やっぱこれだよな」と言いながらあっという間に平らげた。イカ焼きを食べ終えて、佐伯は本題とばかりに表情を変え言った。
「それでその人はどうなったんだよ?」
「それ以降は全然警察からも連絡ないし、教授も何もなかったみたいな感じだしさ」
「いやいや、教授怪しすぎでしょ。自分の担当してた患者っていうの、その人が殺人を犯して何も音沙汰なして。絶対なんか絡んでるでしょ」佐伯はジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「教授もショックなんじゃないか。担当してた方が殺人事件を起こしてさ。大学でも対応が正しかったのかって絞られてるみたいだし、メディアにも割と取り上げられて、疲れてんだよ」
「誠はほんと優しいよな。そんな優しい誠にお願いがあるんだけどさ」佐伯はわざとらしく急に猫撫で声で言った。
「なんだよ、お願いって」
「事件の事でインタビューさせてくれ。頼む」そう言うと佐伯はテーブルに両手と頭をつけた。
「久し振りに連絡があったと思ったら、そういうことか。それは流石に無理だよ。そんなことしたら俺は即退学だよ」
「だよなぁ」佐伯は肩を落とし項垂れた。
「ごめん、協力できなくて」
「いいのいいの、無理なお願いしちゃってるの承知してるから」佐伯は空になったジョッキを手に取り、店長に同じものを注文した。
「俺にそのネタっていうのか、そんなこと頼むなんて珍しいよな。ユーチューブ、うまくいってないのか」
「そんなところだ」

 佐伯浩太は大学卒業後、テレビ制作会社の内定を蹴り、有名ユーチューバーである「ナギサックス」のアシスタントになった。
アシスタントをやりながら、その有名なユーチューバーにバズる動画の極意を教えてもらい、そのノウハウを武器に一年後、つまりこの時期には自らユーチューブチャンネルを開設し、そして、バズりにバズって自分も有名ユーチューバーの仲間入り! というのが佐伯の計画だった。だが、未だに自分のチャンネルはなく、アシスタントとして懊悩とした日々を過ごしていた。
 佐伯は人を楽しませること、人の笑顔を見ることが何よりも好きだった。彼は子ども頃から将来は多くの人を笑顔にできる仕事をしたいと思っていた。
 きっかけは中学生の頃に見た深夜の若手お笑い芸人が出ていたテレビ番組だった。
 当時、佐伯は友達と遊ぶこともほとんどせず、サッカー部でとにかくレギュラーになるために必死で練習をする日々を送っていた。しかし、練習の成果は現れず、レギュラーにもなれずに学年が上がっていき、ついには後輩にレギュラーを奪われ、三年生になる頃にはレギュラーになることを諦めかけていた。そんな時にふとそのテレビ番組を見た佐伯は久し振りに涙を流しながら腹が捩れる程笑ったのだった。番組が終わると、佐伯は身体が軽くなったように思えた。笑って肩の力が抜けたのだろう。そのおかげか、余計な力が抜けた状態で練習に励んだことで三年の最後の公式試合でレギュラーを勝ち取ることができたのだった。もちろんその後も彼は毎週欠かさずその番組は見続けた。そして、佐伯の中である想いが生まれた。「俺も人を笑顔にする仕事をしたい」そう思うようになったのだ。
 高校に入り、佐伯は人を楽しませることができるものに手当たり次第取り組んだ。バンド、演劇、自主制作映画、お笑い、ダンス、いろんなことに本気で挑戦をした。人を目の前にパフォーマンスを行い、そこで見ている人たちが笑顔になったり、ゲラゲラと笑ったり、拍手をもらったりしたことで、さらに佐伯は人を楽しませることへの欲が深まっていった。芸人になりたいという訳ではなかったが、特にお笑いに関する探究心は日に日に強くなっていった。
 佐伯は大学に進学すると同時に茨城県の北部から上京をした。大学は自分が住みたい街の近くにある大学を選んだ。そんなことは親にも担任の先生にも言っていない。そこはお笑い芸人が多くすむ街、高円寺だった。
 佐伯は引越しの初日から高円寺がお笑い芸人の街だと実感した。改札を潜り、北口を出ると目の前に広場がある。そこにはいつもどんな時間でも人がいて、酒を飲んだり、ギターで弾き語りをしていたり、演説をしたりしている人たちがいる。演芸の街だと感心していると前からテレビで見てみたことがある芸人が普通に歩いてきて、佐伯は度肝を抜かれたことをよく覚えている。引越しをして間もない内は、家を出て下手をすると数歩歩いただけで芸人に出会した。そんな毎日を過ごしているうちに芸人たちとの邂逅は高円寺の普通の光景に変わっていった。その普通が佐伯には心地よかった。
 大学二年になる頃、佐伯はユーチューブにハマっていた。彼は、テレビではなく、あくまでも素人が画面の中で自由な発想で面白いことをしているということに、まず衝撃を覚えた。その頃には佐伯はあまりテレビを見なくなっていた。中学から毎週欠かさず見ていたテレビ番組を見ることも隔週になり、1ヶ月に一回になり、半年に一回になり、段々とテレビ番組を見る機会が減っていった。いつのまにか、その番組も最終回を迎え、最終回くらい見ておかないとなと、義務というべきか情というべきか、久しぶりにテレビでその番組を見たが、なんの感情も湧き出てこなかった。
佐伯はユーチューブにハマる中、今アシスタントをしているナギサックスのチャンネルをたまたま知った。
ナギサックスのチャンネルは主にはバラエティのジャンルに括られ、実験系や実証系などと言われるものだった。佐伯はナギサックスのチャンネルを見ていて、中学の頃に見ていたお笑い番組を見ていた時の感情を思い出していた。今、テレビで世の中的にとか倫理的にできないことをナギサックスが見せてくれているように思えたのだ。
 大学三年になり、周りは就職活動を始め、佐伯もそれに習い、就職活動を始めた。第一志望はテレビ業界の制作だった。就職と考えると、今後の人生と結びつくため、テレビ業界に対する気持ちはすでに薄くなっていたが、どこかに所属して作品作りに携われればとそんな軽い気持ちで就職活動に挑んだ。しかし、案の定、佐伯の気持ちは見透かされていたのか、内定を貰える会社はなかなか現れなかった。漸く、四年生の秋に佐伯自身は見たことのないテレビ番組を作る制作会社から内定をもらうことができたが、佐伯の気持ちはどこか違う方向を向いていた。自分がやりたいことはこういうことなのだろうかと、自問自答を繰り返す日々が続き、冬が来た。

 それは運命の出会いというものだったり、人生の岐路といっても過言ではない出来事だったかもしれない。バイトを終え、高円寺の庚申通りを過ぎて早稲田通りを渡ったところにある居酒屋、ボカン亭のカウンターでひとりで飲んでいると、中学の時に夢中で見ていたあのテレビ番組に出ていた芸人がそこへ入ってきたのだ。その芸人は徐に佐伯の隣に座り、晩酌を始めた。佐伯は芸人に気遣い、知らないふりをしながら、酒を飲み続けた。すると、唐突に芸人が話しかけたものだから佐伯は飲んでいた酒を少しだけ吐き出してしまった。
「すまんすまん、いきなり声かけたから」
「いえいえ、大丈夫です。こちらこそすみません」
「お兄さん、学生さん」
「はい。今、大学四年です」
「ほんなら就職先とか決まっっとん?」
「はい、なんとか」
「どんなとこで働くか聞いてええ?」
「全然いいですよ。はい。あの、テレビ番組の制作会社です」
「ほんまかいな。なら近いうち一緒に仕事するかもな」
「あ、はい」
「あれ、もしかして僕のこと知らん?」
「いやいやいや、知ってます知ってます。もう中学の時から見てましたから。なんならファンですから」
「にしては、テンション低いなきみ。さては、なんか悩みでもあるんやな。ほんでここでひとりで飲んでるんやろ。ほれ、図星やろ」
「悩みというんでしょうか。なんというか」
「言うてみ。隣に座ったご縁や。相談乗ったるわ」
「まじですか。ありがとうございます」
「ほんで悩みってなんや」
「僕、ホントはユーチューバーになりたいんですよ」
「ほー、それは今時というかなんという。テレビはあかんか」
「あかんというわけではないんですが、今、僕がやりたいことをやりたいんです。テレビの世界に入ると、きっと僕のやりたいことができるのはずっと先で、そしたら今僕が面白いと思っていることは、その時には面白くないものになってるかもしれないじゃないですか。今、僕が持っている今伝えたいことを伝えたいんです。伝えたいというか、人をそれで楽しませたいんです」そう言い終わった瞬間に、ああ、テレビで活躍する人にこんなこと言ったら嫌われちゃうかなと思った。
「熱いな、君。君みたいな若い熱い子がテレビ業界に入ってくるとテレビも今よりもおもろくなると思うやけどな。でも、今やりたいことは今やるべきや。おれもそうやった。今しかできひんおもてお笑い始めたんや。結果的ではあるけど、今もお笑い芸人を続けてる。だから、あん時の俺の選択は間違ってなかったんやって思う。まぁ、失敗しても次で成功すればええんや。要するにやりたいことをやらへんという後悔を背負いながら生きてくいうんは辛いで。せやから、自分が思ったように生きるのが一番や」
 佐伯は黙って頷きながら芸人の話を聞いた。そして、決めたのだ。

 その翌日、内定先に内定辞退の連絡をした佐伯は、ナギサックスにSNSで連絡を取った。アシスタントになりたいことを伝えたが、あっさりと断られた。しかし、佐伯は諦めず、SNSで想いを送り続け、時にはイベントなどに直接会いに行き、想いを伝えた。しかし、非情にも時間だけが過ぎていき、あっという間に卒業式を迎えた。
 卒業式が終わり、友人たちはこれから始まる新しい道への不安と期待を交じらせた表情で別れを惜しんでいる中、浮かない顔をしていてのは佐伯だった。
「おいおい、なんだよその顔は。卒業だぞ。もっとめでたくいこうぜ」声を掛けたのは長瀬誠だった。
 長瀬は大学院に行くことが決まっていた。
 長瀬と佐伯は軽音サークルで知り合った。佐伯はいろいろと掛け持ちでサークル活動をしていたこともあり軽音サークルに顔を出すことは稀だったが、お互いがベース弾きということもあって、すぐに打ち解け、自然とサークル外でもつるむようになったのだ。大学が終わるとよく高円寺に行き、何をするでもなく古着屋などを冷やかし、夜になると佐伯の家に行き、安い酒とつまみで夜を明かした。
「おまえはいいよ。進路が決まってるから」
「まだあのなんとかっていうユーチューバーにアタックしてんのか。他のユーチューバーじゃだめなのか」
「ナギサックスな。だめ、ぜったいダメ。おれが目指すところはあそこなの。だから絶対あの人のアシスタントになるまで諦めない」
「まぁ、その意志の強さがあればなんとかなるか」
「成る!」
「じゃあ、とりあえず飲み行くか、丸たこからのボカン亭」
「行くか!」
 その夜、ふたりともベロベロに酔っぱらい、高円寺の庚申通りを歩いていると佐伯の携帯が鳴った。SNSの通知だ。
「もう卒業おめでとうメッセージはお腹いっぱいですよーと」そう言いながら佐伯はポケットからスマホを取り出し画面を見つめた。画面を見つめたと思ったら急に立ち止まり、佐伯はそこから動かなくなってしまった。佐伯はスマホの画面を凝視していた。
「なんだ、母ちゃんからお祝いの自撮りエロ画像でも来たか」
「うるせー、アメリカの母ちゃん使ったいじりみたいなやつやめろ。それどころじゃない。遂にきたよ、誠」
「何が」長瀬はヨロヨロと佐伯に近付きスマホを覗き込んだ。
 佐伯のスマホの画面にはナギサックスから「明日からうちの事務所に来てくれ」と記されてあった。
 ふたりは深夜の庚申通りで抱き合って喜んだ。

 翌日、佐伯はナギサックスの事務所へ行き、正式にアシスタントとしての生活が始まった。憧れのユーチューバーと仕事ができることで最初は浮き足立っていたが、想像以上の過酷さを知るのはすぐのことだった。
佐伯が一番驚いたのはナギサックスの人間性だった。動画では見せない裏の顔というのだろうか、それを知ってからというものナギサックスへの憧れというものは徐々になくなっていった。しかし、動画は斬新で誰も見たことのない企画を考え、作品を作り、ユーチューブにアップすると毎回すぐに百万再生以上はされてしまうのだ。
 ナギサックスの人間性。人の心がないというのだろうか。人の心を感じ取ることができないというのだろうか。だから、自分の利益だけを考え、他人をその道具として利用する。それがナギサックスだった。だからアシスタントがよく変わるとその界隈では有名だった。佐伯に連絡が来たのも、アシスタントが辞めたから、その補充のために、ナギサックスは佐伯に連絡をしたのだ。
パシリなんてものは日常茶飯事で、ナギサックスがやりたくないことはすべてアシスタントが行う。家事はもちろんアシスタントが行う。ナギサックスが腹減ったと言えば、何かアシスタントが作るが、口に合わないと食器ごとアシスタントへ投げてくる。動画撮影中、何か足りなければアシスタントが走る。ナギサックスが求めていたものと異なればまた走らされる。真夏の焼けるような日も、電柱が凪倒れるくらいの台風の日も、佐伯は走った。これがきっと今後の自分にプラスになる経験になるんだと信じて、過酷な日々を耐えた。しかし、佐伯は自分がおかしくなっていることに気付き始めていた。世界の色が以前よりも薄く、狭くなっていていることを。

 長瀬誠に会う数日前のことである。
「お前、あの人を食った事件に関係してる大学に知り合いいるよな」ナギサックスが唐突に言った。
「あ、はい」
「あ、はい、じゃねぇよ。わかるだろ」ナギサックスはソファーに座り、目の前のテーブルを蹴飛ばした。
「というと」
「ほんとてめーは頭が回らねーな」ナギサックスはテーブルにどかっと足を乗せて言った。
「その知り合いに事件のこと聞いてこいよ。これは再生数伸びるぞ。早く行ってこい」
「わかりました」佐伯は事務所を飛び出し、すぐに長瀬に連絡をした。
 佐伯は長瀬にインタビューを断られ、意気消沈しながら事務所に戻り、「ダメでした」とナギサックススに告げると、彼は飲んでいた瓶ビールを佐伯に投げつけた。瓶ビールは佐伯の額に直撃し、そこから血が滴った。
「てめぇ、ふざけんなよ。この前買ったばっかのペルシャ絨毯だぞ。弁償な。給料から天引きしておくからな」
「すみません」佐伯は額を抑えながら謝った。額を抑える手の隙間から血が滲んでいた。
「で、なんの収穫もなかったのかよ。おまえマジでクビにすんぞ」
「いえ、あの、容疑者の人たちは事件を起こす前にCDを聞いていたらしいですよ」
「なんだよそれ、どういうことだよ」
「いや、よくわからないんですけど、とにかく事件を起こした人は全員何かの音楽を聞いて、事件を起こしたと警察を話していたそうです」
「じゃあ、おまえそのCD持ってこいよ。それで検証すんぞ。もしその話が本当なら、そのCDを聞いたやつは頭がおかしくなって人を食っちまうってことだよな。おもしれー。よし行ってこい」
「いや、でも、どうやってそのCDを手に入れるんですか?」
「それを考えるのもてめーの仕事だろーが! さっさと行ってこい、くず!」
「は、はい。すいません」また佐伯は事務所を飛び出していった。
 事務所を出て、歩きながらそのCDをどうすれば手に入るのか考えていた。額の血はまだ止まっていない。佐伯は持っていたタオルで出血しているところを押さえながら住宅街を歩き、長瀬から聞いた話を思い出していた。

「じゃあ、俺から聞いたって絶対に言うなよ。それを約束できるならひとつだけ教えてやってもいいことがある」
「わかった。絶対に誠から聞いたとは言わない」
「警察が言うには事件を起こした人たちは皆、事件の前に何か音楽を聞いていたんじゃないかって言ってたんだよ」
「その音楽ってなんだよ」
「どうもうちの板垣教授が渡したCDらしいんだよ」
「つまり、板垣教授に渡されたCDを聞いて、事件を起こした人たちは人を食ったってことになるのか」
「でも、板垣教授は警察にそのCDを聴かせてるんだよ」
「その音楽を聴いた警察は」
「俺もその場にいたけど何も起こらなかった。アイドルの音楽みたいだったな」
「アイドル。なんか意外だな。なんかもっとサイケデリックな音楽かなんかかと思ったけど、アイドルの歌なんだな。それで、誠も警察ももちろん教授もその場で殺し合うみたいなことはなかったと」
「なかったからこうやって話せるわけだな」
「そりゃそうだ。で、そのCDはどこにあるんだ」
「教授が持ってるらしい。なんでも、自殺願望が強い人に渡してるって教授が警察の人に話してたよ。なんでも弱った心にアイドルの楽曲っていうのはいいらしい。そんなこと言ってたよ。研究会でエビデンスだなんだって言ってる教授がそんなこと言い出したのに俺は驚いたけどな」

 佐伯はスマホで明和大学の相談室に電話をした。
「すみません、佐伯浩太という者です。こちらで相談に乗ってもらえると聞いて電話をしたんですが」
「佐伯さま。どなたかからのご紹介でしょうか?」
「そちらの学生さんの長瀬誠さんです。大学時代の友人でして」
「あー、長瀬くんの。相談したい内容はどのようなものになるでしょうか」
「今、ちょっと病んでて、死にたいというか、どうしたらいいかわからなくて」
 電話の向こう側が一瞬だけ静まりかえった気がした。何か電話の向こうで確認しているようだった。
「本日、相談室へは来られますか?」
「はい、すぐ行けます。三十分後には到着できると思います」
「三十分後ですね。少し待ち合室でお待ちいたただくかと思いますが、よろしいでしょうか?」
「はい。構いません」
「では、お待ちしておりますので、お気をつけてお越しください。何かあればまた連絡をください」
「わかりました」
 電話を切った佐伯は少し肩の荷が降りた気がした。死にたいと言ったことは嘘ではなかった。ナギサックスのアシスタントになって、何度も死にたいと思ったことがあった。これはきっと心の病いだろうと自分でも気付いてはいた。しかし、夢を叶えるためにはそんな弱さに蓋をして、辛い事に耐える他なかった。でも、佐伯の心は既に壊れてしまっていた。

 相談室の待合で暫く待っていると佐伯の名前が呼ばれた。
「佐伯さん、第一相談室にお入りください」待合室の受付から声がかかり、佐伯は待合室を後にした。
第一相談室のドアをノックすると、中から男性の声でどうぞと返ってきた。ドアを開けると中には板垣教授が椅子に座っていた。
「どうぞ、そこに座ってください」
「失礼します」
「長瀬くんの知り合いだそうですね」
「はい。誠、いや長瀬さんがここで相談員をしていると聞いていたので」
「長瀬くんとはいつからのお知り合いですか?」
「大学の時ですね。バンドサークルで一緒だったんです。そこからです」
「そうでしたか。それで、今日はどんなご相談を?」
「えーと、なんと言いますか。仕事で少し悩んでいまして」
「どんな仕事をされているんですか?」
「ユーチューバーのアシスタントです」
「ユーチューバーというのはあのユーチューブに出ている人のことですか」
「そうです」
「すみません。そういったものをあまり見ないもので」
「いえいえ、まだまだマイナーな仕事ですから。うちの親とかもやっぱり心配してて、いつまでそんなこと続けるのって定期的に連絡をくれます」
「そうなんですか。お仕事を辛いですか」
 佐伯はいきなり核心を突かれて返答に戸惑った。
「そうですね」そう答えるのがやっとだった。
「アシスタントと仰られていたので、上司の方との関係はあまりよろしくないですか?」
「そ、そうですね」この人は人の心が読めるのかと驚きながら答えた。
「毎日その方と顔を合わせなくてはいけなくて、お辛いでしょうね」
「はい」板垣教授が自分の気持ちを代弁してくれている、そう思った。
「それで、自殺を考えてしまうと」
「え、あ、はい」自殺という非現実的な言葉を聞いて、佐伯はハッと我に返ったように思えた。そして、CDのことも思いだし、ナギサックスの不機嫌な時の顔が浮かんだ。
「自殺を考えてしまうほどお辛いのですね」
「はい。いま、とても辛いです。朝、職場に向かっている時とか、仕事中とか帰り道とかで、このまま死んだら楽になれるかなって考えることが多くなりました」嘘ではなかった。
「提案なのですが、その方と一度お話ししてみるというのはいかがでしょうか。佐伯さんが今思っていること、感じていることを、その方にお伝えをするんです」
「そんなこと今の僕にはできないですよ。そんなこと考えただけで死にたいって気持ちが増しますよ」
「でしたら、お薬を出します。まだ治験段階のものですが、緊張をほぐしたり、何より自殺願望を取り除いてくれるというデータが出ている薬です」板垣は持ってきたアタッシュケースの中から、カプセル錠の薬を取り出した。
「あの」
「なんでしょう」
「副作用とかそういったものってないのでしょうか」
「薬の種類で言えば抗うつ薬になりますから」と言い、一般的な抗うつ薬の副作用の説明を板垣はし、話を続けた。
「とりあえず、一錠だけ話し合いの前に飲んでみてください。それと」板垣は今度はアタッシュケースの中からCDを取り出した。
「ポータブルCDプレイヤーってお持ちじゃないですよね?」
「持ってないですね」
「このCDはおまじないといいますか」
「おまじない」
「そう、おまじないです。アイドルが歌ってる曲なんですが、これを聞くと力が湧いてくるという人がたくさんいるんです」
「聴くだけで力が湧くんですか?」
「不思議な話ですけど、実際そうなんですよ。なので、薬を飲んで、話し合いの前にこれも聴いてください。きっとうまくいきますよ。CDプレイヤーはお貸しするので、どうぞ」

 佐伯はカプセル状の薬、CD、CDプレイヤーを受け取ると、すぐにナギサックスの事務所へ戻った。ナギサックスの事務所の前まで行き、板垣から渡された薬をペットボトルのお茶と一緒に喉の奥に流し込んだ。そして、CDをCDプレイヤーにセットし、イヤフォンを耳に差したところで、事務所のドアが開いた。開けたのはナギサックスだった。
「こんなとこで何やってんだよ。おい、それもしかして例のCDかよ」
「あ、はい」
「やればできんじゃん、佐々木」
「佐伯っす」
「あ? なんでもいいよ。それよこせ。これからこれ使って生配信すんぞ。5分で用意しろ」
「わかりました」
 佐伯は生配信用にカメラとマイクと照明、それとCDを聴くためのパソコンを用意した。
「用意できました」
「よし、じゃあツイッターとインスタで告知しとけ」佐伯はナギサックスに言われた通りにSNSでこれから生配信をすることを告知した。

『今日夕方五時からヤバい生配信やります! おそらく伝説の生配信になると思うので、お見逃しなく! いま、話題の人食い事件に関連する動画です。この事件の真相知りたいやつは絶対見逃すな!』

 生配信開始一時間前にはSNSのリツイートやいいね数は十万を超えていた。
「みんな期待してんぞ、これ。やべぇ、なんか興奮してきた」ナギサックスはSNSの反応を見ていつも以上に興奮しているようだった。
そして、午後五時ちょうどに生配信が開始された。
「どーも、ナギサックスでーす! みんなSNSのリツイートとか、いいねありがとうね!みんなもやっぱあの人食い事件は気になるよね。俺はね、独自のルートからある衝撃の事実を突き止めたんだよ。やっぱ、警察じゃないけど足使って探さなきゃだめだね。そのお陰でヤバいネタ掴んだんで、これから話していくぜ」
 佐伯はカメラの後に立ち、パソコンで視聴者のコメントを確認していた。
『ナギサックスさすが!』
『事件解決させちゃうんじゃない』
『その行動力に脱帽』
『凄い推理力!』
 ナギサックスに対する賞賛のコメントがひっきりなしに画面の中を流れていっている。佐伯はそのコメントを見てナギサックスに対する苛立ちを募らせていた。
「真相の前に。この事件のことをまだ詳しく知らない人のためにちょこっとだけおさらいをしておくぜ」ナギサックスはウインクをひとつして人差し指を立てた。
 視聴者がどんどん増えていき、画面には視聴者からのコメントが次から次へと流れていく。
『じらすねぇ』
『ウインクで目眩しました』
『その人差し指だけでも愛おしい』
『真相早く知りたーい』
 佐伯は毎回視聴者からのコメントを読んでヘドが出そうになるのだ。
「まてまて、そう焦らせるなって。まず、最初の事件はアイドルがファンの男に食われたってやつな。あれは衝撃的だったよな。で、次が、息子が父親を食ったやつな。親を食うな、まじ。食っていいのは脛だけだって。脛も齧る程度な、ははは。で、最後が会社の社長が従業員を食ったやつな。あれ何人食ったんだっけ。4人だか5人だったよな。いや、腹減りすぎでしょ、社長。ははははは」ナギサックスは下品に笑い飛ばしていた。
「それで、ここからが本番ね。お、視聴者がもうすぐ百万人じゃん。じゃあ、百万になったら事件の真相を話そうかな」そういうとナギサックスは椅子に踏ん反り返り、画面を眺めていた。
 それから数分もしないうちに視聴者は百万人を超えた。
「おおおお、百万きたね! ありがとうね! じゃあ、事件の真相発表しちょうよ!」ナギサックスはそう言うと、画面外からCDケースを取り出した。
「これ、わかります。CDです。見りゃわかるか。これが事件の真相。なんと三つの事件に共通していたのが、このCDだった訳。どういうことか説明するな。人を食った犯人全員がこのCD、一番最初のアイドルの事件の時はそのライブで流れていた音楽を聴いて、頭がおかしくなって人を食ったってことだ。みんなついて来てる。コメント止まってるよ。まぁ、そんなこと本当にあんのかって話しだよね。だからここでナギサックスが実証してみたいと思いまーす!」
 画面がコメントで溢れている。
『まじかよ』
『じょあ、聴いた俺たちも人食いになっちゃうってこと?』
「いやいや、そんなことあるわけないじゃん。大丈夫、大丈夫。聞くのは俺だけ。ちゃんと俺だけヘッドホンをして君たちには聞かせないから」ナギサックスがコメントに返答した。
『よかった』
『いや、逆に聞ききたけだな』
 様々なコメントが画面に流れている。
 ナギサックスはCDケースからCDを取り出し、パソコンにセットした。
「それじゃ、実証スタート!」ナギサックスはマウスをクリックしてCDを再生させた。。
「なんか、ロック調でアイドルアイドルしてない感じ。今のところなんともないね」ナギサックスはヘッドホンから流れる音楽を身体を揺らしながら聞いていた。
「割といい曲だね」
 佐伯もヘッドホンを付けCDの音楽を聞いていた。ナギサックスと同様に曲を聞いても自身にはなんの変化も感じることはなかった。しかし、曲が進み、間奏のギターソロが始まると、佐伯の心臓がドクンと大きく鳴った。すると視界に光る点が点滅しはじめ、佐伯は瞬きをしたり、目を擦ったりしたが、その点滅は消えることはなかった。更に突然、身体全体が痺れるような痛みに襲われ、またひとつ心臓がドクンと鳴ると、佐伯は意識を失った。しかし、意識を失ったと言ってもその場で倒れたりする訳でもなく、白目を抜き、口をだらしなく開け、身体は脱力しているようだが、立っていることはできていた。
 佐伯の様子に気付いたナギサックスは、そばにあったボールペンを佐伯の顔に投げ付けた。ボールペンは佐伯の顔に当たったが、何の反応も示さなかった。
「みんな、ちょっとごめん。アシがぼーっとしちゃって」そう言うとナギサックスはパソコンの音声をミュートにして、画面上から消えた。
 視聴者が見ている画面にはナギサックスの部屋の壁が映されて、そこにコメントが流れていた。
『どしたー?』
『大丈夫かー?』
『アシくーん大丈夫ー?』
 突然、画面が大きくズレた。カメラに何が当たった衝撃で画面がズレたのだ。
『喧嘩でもしてんのかー?』
『おーい』
『事件とかやめてくれよー』
『おー、なんかそれっぽくなってきたね』
『これがリアルっしょ』
 視聴者からのコメントが傾いた画面にどんどん流れてくる。すると突然、その画面に映る壁に血飛沫が飛び、ナギサックスの部屋の壁を赤く染めた。
コメントの数が一斉に増える。
『血!』
『こえー!』
『これ、まじなやつ?』
『通報した方がいいんじゃね?』
『アシがナギサックスに食われた?』
『やばいやつじゃね?』
 更に大量の血が壁にかかり、視聴者からのコメントで画面が溢れかえっている。
 数分間、画面は静止画かのように何も変化が起こらなくなった。視聴者のコメントだけがひっきりなしに流れている。そこにドッキリと書かれたプラカードが画面上に現れ、すぐにナギサックスも画面上に現れた。
「テッテレ〜。どっきりでしたー! みんなビビったっしょ!」
 視聴者からのコメントは安堵の声のものが多く流れている。
「まんまとひっかかりましたね。これこれ、これがエンターテイメントですよ! ちょっとハプニングもあったけど、今回のドッキリは大成功ってことで! これは明日ヤフーニュースだな。ははは」
 ナギサックスの目の前には白目を抜いて口角を上げた佐伯が立っていた。視聴者には佐伯の姿は見えていない。
「いや、そのハプニングっていうのさ、アシがぼーっとしてて、俺が機転を利かせて、ドッキリの段取りすぐ変えて、俺が画面の見えないところで食われた演出を自分でやったわけ。我ながらこの判断の速さを天才だなと思ったよ」ナギサックスが笑っているとカメラが倒れたのか画面が真っ暗になり、音声だけが視聴者には聞こえていた。
 ドタン。何が壁に当たる音がした。
「何やってんだよ!」ナギサックスの怒鳴る声がパソコンの真っ暗な画面の中で響く。
 更にドンと何かが当たる音する。
「佐々木てめー!」ナギサックスの怒鳴る声で音が割れる。
「いっ!」
ドンドンドンドンドン何かがどこかに当たる音が暗い画面から聞こえる。
「くちゃくちゃくちゃくゃくゃ」
 ドタンバタンと何かが当たったのか、落ちたのか、暗い画面は暗いままである。
 ドンドンドンドンドン、ぐちゃ。
「くちゃくちゃくちゃくゃくゃ」
 真っ暗な画面から不気味で耳障りな音だけが聞こえてくる。
「くちゃくちゃくちゃくゃくゃ」
 すると、突然画面が明るくなり、目の前に顔を血で真っ赤に染めた佐伯が現れた。
 コメントが流れる。
『だれこいつ?』
『これ血?』
『これもドッキリ?』
『手が混んでますね』
『なに食ってんだコイツ』
『ナギサックスはどこいったんだよ』
 佐伯はカメラの画面を見つめながら何かを食べていた。しばらく咀嚼してから咽喉を鳴らして口の中の物を飲み込んだ。
そして、佐伯は画面からいなくなり、画面の見えない部分から何かを引き摺る音が聞こえた。その音が段々大きくなり、音が止んだ瞬間、画面の上から何かが落ちてきた。
画面に佐伯が再び映り込み、そして目玉を抉り取られ、鼻のあった場所には穴がふたつだけあり、口は耳の方まで裂け、耳は両耳ともない男の顔を彼は画面に映した。画面にそれが映った瞬間、画面は真っ暗になった。配信は強制的にユーチューブ運営側に切られたのだった。


第六話「猜疑」

 小武真司の妻である小武美沙が自殺未遂をしたのは半年前のことだった。
それは朝から雨が降り続いた日の夜のことだった。小武が仕事を終え、夜遅くに自宅に戻ると美沙がリビングで倒れていた。小武はすぐ妻に駆け寄り、生存を確認した。救急車を呼んだ後、小武はテーブルの上に大量の抗うつ薬の空の包装シートとウイスキーの便が置いてあることに気付いた。それを見た小武は妻が自殺を図ったことを察した。そして、そこで初めて小武は美沙が抗うつ薬を服薬していることを知ったのだった。
 美沙の退院後、小武は彼女が抱えていた自殺に追い込まれる程の不安や辛さを知ることになった。

 小武美沙は看護師をしていた。美沙の母親も同じく看護師をしており、幼い頃から母親の看護師をする後ろ姿を見ながら育った。将来は母親のような看護師になりたいと高校卒業後に看護学科のある大学へ進学した。卒業後、無事看護師になれた彼女は生まれ育った杉並区にある阿佐ヶ谷総合病院に就職し、それから彼女はその病院で自殺未遂をするまで二十年間働き続けた。その二十年間、彼女はいじめを受け続けた。
 美沙に対するいじめが始まったのは入職一年目の配属先が小児科に決まり、一か月が経った頃だった。同じく看護師の早田由紀恵に目をつけられたことが二十年に渡るいじめの始まりであった。早田は新人いじめをすることで院内では有名で、「早田に耐えられればどこでもやっていける」と言われるほど新人を追い込み、最短で一週間も耐えられず辞めていった看護師もいたほどだった。新人だった美沙は早田からの叱責や暴言などは自分が悪いのだと自分に言い聞かせて日々の辛さを耐え続けた。
 美沙が小児科に配属になって一年が経とうとした頃、早田が他の科に異動になることが決まった。それを知った美沙は安堵し、無理をしていた自分がいることに気付いた。春からは安閑な生活が始まる、美沙はそう思っていた。しかし、彼女にそんな日は訪れなった。早田の代わりにやってきた看護師の村田和子が今度は美沙をいじめの標的にしたのだった。 
 早田と村田は昔から仲が良く、村田が小児科に異動になることを聞いた早田は、彼女に「いい遊び相手がいるよ」とまるで面白いイベントがあるから行ってきなよと言うかのように村田にそれを伝えたのだった。
 村田はさっそく異動初日から美沙をいびった。それからというもの、常に村田は美沙を監視し、何かミスをすると罵倒するように叱責するのだった。それは見せしめのようなものでもあった。「私に逆らったり、私を怒らせるとこうなるわよ」と他の職員に見せつけるのだ。そうやってこれまで村田は自分の地位を確保してきたのだ。
 美沙は看護師として、技術面で言えば優秀と言われるには程遠いが、患者である子どもたちやその家族に対する救ってあげたい、助けてあげたいという想いは誰よりもあった。子どもが泣いていたり、辛そうな表情をしているとすぐ駆け寄り、話しを聞いてあげたり、慰めたり、時には一緒に遊び、小さい子には絵本を読んであげたり、家族が何かに悩んでいれば親身になって話を聞き、そんな風に子どもたちやその家族と接することで、美沙の近くには子どもたちが集まり、子どもたちの家族からは頼られるようになっていった。しかし、それをよく思わない看護師には「そんなことしなくていい」「看護師の仕事じゃないことをするな」「あなたがそんなことをするとそれが普通だと思われて仕事が増える」などと言われることもあった。そのうち、毎日のように美沙をいびる村田の他にも彼女に嫌がらせをする看護師たちが現れるようになった。その看護師たちは結託をし、小児科から美沙を追い出そうと嫌がらせを重ね、美沙を追い詰めていった。しばらくして、美沙は異動の願いを出した。美沙が異動願いを出したと知った日、嫌がらせをしていた看護師たちは大きな仕事でもやり遂げたかのように打ち上げと称し、職場近く居酒屋で大いにはしゃいだのだった。
 美沙は異動の理由を「他の科でも経験を積みたいから」と上司に伝えていた。小児科の上司も彼女がいなくなることを望んでいた側だったので、それ以上は何も聞かず、異動届を受理した。
 美沙は翌月、産婦人科へ異動となった。小児科で勤務する最後の日、子どもたちやその家族から感謝の言葉や花束、メッセージが書かれた色紙をもらったが、一緒に働いていた同僚などからは、何の言葉掛けもなかった。村田に関してはそれが自分の任務かのように最後の最後まで美沙をいびった。
 異動した産婦人科でも美沙は嫌がらせやいびりを受けた。小児科にいた時のように彼女は患者やその家族に寄り添うような看護をしただけだった。それを良く思わない看護師たちによって、またしも美沙はそこにいることが辛くなり、異動届を出すことになった。
 美沙は自分が嫌がらせやいびられる原因が自分にあるとわかっていた。それは自分の技術が他の看護師と比べてないからという訳ではなく、患者やその家族に寄り添った看護をしているからだとわかっていた。しかし、彼女はそれが悪いことだとは決して思わなかった。それが当たり前だと思っていた。それが彼女の信念でもあった。
 彼女は幾度となく異動を繰り返した。そして、転機が訪れたのはリハビリテーション科に異動して間もない頃だった。そこで美沙は小武真司と出会ったのだ。彼女が看護師になって十五年が経っていた。
 小武は趣味である草野球の試合中にアキレス腱を断裂し、美沙のいる阿佐ヶ谷総合病院に入院することになったのだ。その上、当時結婚を考えていた女性に浮気をされ、心身共に弱っていた。そんな時に美沙に出会った小武は必然的に彼女に惹かれていった。退院する日、小武は美沙に連絡先を渡した。渡したというよりも、美沙は受け取れないと断ったが、小武は美沙のナース服のポケットに連絡先が書かれたメモ用紙を無理やり入れ、「じゃあ」と言い、松葉杖を付いて小武は病院を出た。
 美沙はこれまで患者や患者の家族からそういった誘いを受けることがよくあったが、彼女の中で患者などとそういった男女の関係になることは決してあってはならないことだというルールを自分の中で持っていたため、すべて受け流していた。しかし、小武真司にはなぜか美沙も惹かれるところがあった。これまで職場以外でそういった機会がなかった訳でなかった。それなりに交際をしていたこともあった。そういった交際に発展する場合は、相手からアプローチをされ、そして、相手から別れを告げられることが常だった。美沙の母親や父親からは「早く結婚しないさい」と言われていた時期もあったが、美沙が三十五歳を超えた辺りから、ふたりから結婚という言葉は聞かなくなっていった。自分でも結婚は無理かなと思っていた矢先、どこか惹かれてしまう小武と出会い、これまで守ってきたルールを破り、美沙は小武に連絡を取ったのだ。そこからあっという間にふたりは結婚をした。職場では「本物のナイチンゲールになれてよかったね」と揶揄され、誰からも祝福の言葉をもらわなかったが、そんなことは気にならなかった。彼女は幸せという暖かいもので守られている、そう感じていたからだ。
 美沙は結婚後も看護師の仕事を続けた。結婚してしばらくして、彼女は精神科に異動になった。そこには、美沙をいじめることを趣味のひとつかのようにしていた早田と村田がいたのだ。美沙は案の定、ふたりから毎日のようにいじめを受け続けた。そして、ある時突然、左耳が聞こえなくなり、言葉もうまく出すことができなくなってしまった。睡眠も不安定で、眠れる日もあれば寝られず、そのまま仕事へ行くこともあった。うまく寝られたとしても深夜や早朝に目が覚めてしまい、そこから再度寝付くということは難しかった。
彼女は自分が精神的に追い詰められているのだと思い、近所の精神科クリニックに行くことにした。そこで医者から鬱病だと告げられ、抗うつ薬を出されたのだった。美沙は毎晩寝る前にその薬を小武に見つからないように服薬し、眠りについた。薬の効果もあってか、眠れないことや深夜や早朝に起きてしまうことはなくなった。美沙は小武が日々忙しく働いていることを気遣い、彼が自分の病気のことを知れば余計な心配をしてしまうと思い、薬を飲んでいることを小武には言わなかった。
 薬を服薬しながら美沙は仕事を続けた。仕事場に行けば早田と村田にいじめを受けるとわかっていたが、それよりも患者を助ける、救う、という使命感が彼女を仕事に向かわせていた。しかし、ある日、患者から思いも寄らぬ言葉をかけられ、その日の夜に美沙は自殺を図ったのだ。
 いつもの調子で美沙が患者に寄り添うように話を聞いたり、ケアをする中である患者が「あなたのその寄り添ってますっていうわざとらしい態度に反吐がでそうにあるのよ。もう私には話しかけないで」と言ったのだ。美沙の中で大事にしていたものが一瞬にして崩れていくのを感じた。
 美沙が自殺を図った後、彼女は阿佐ヶ谷総合病院に精神科に入院することとなった。美沙が目を覚ました時には早田と村田は別の科に異動になっていた。
 これまでの美沙の壮絶ないじめを知った小武は病院に対していじめがあったこと、そのいじめによって彼女が自殺未遂をしたことについて問い詰めた。しかし、病院はいじめがあったことを認めず、指導の一貫だと言い張ったのだ。小武は病院外の第三者機関に依頼をし、いじめがあったことを調査したが、結果は同じく、「いじめはなかった」「指導の一貫だった」という小武にはまったく腑に落ちないものだった。明らかに病院側が隠ぺいをしていることは明らかだった。美沙をこの病院に入院させたのも、他の病院に入院してしまえば、阿佐ヶ谷総合病院で起こったことが世間に知られてしまう恐れがあるから病院は彼女を隔離し、真実を隠したのだと小武は思った。
 小武は毎日美沙に面会に行った。朝から仕事がある時は仕事の前に、夜勤の時は朝に仕事が終わってから彼女に会いに行った。美沙は小武が会いに来ると申し訳なさそうな顔をして「ごめんね」と毎回言うのであった。それを聞いて小武はやるせなさが募るばかりであった。
 美沙は入院中に薬での治療をしていたが、症状は改善することはなかった。美沙の中にある自殺願望は日に日に増していくような気がしていた。
 ある日、小武は美沙の主治医である医師の荻原に呼び出された。
「小武美沙さんが入院されてから約半年間、いくつか症状に効果があると考えられるお薬を投与していますが、なかなか良い結果が出ていないというのが現状です」
「転院することは難しいんですか」
「こちらでもいろいろと当たってはみたのですが、受け入れ先が見つからない状況でして」
「そうですか。それで何か違う治療方法があるからここで話をしているんですよね」
「はい。お察しの通りです。まだ治験段階のお薬なのですが、現段階での研究結果では、「死にたい」という気持ちを抑えることができるというデータが多くあります。まだ治験が始まったばかりなので、データは不足していると言えますが、論文を読む限り、同じような効果が期待できるのではないかと私は考えています」
「副作用などはあるんですか」
「飲み始めに、ふらつき、めまい、頭痛、不安、嘔気・嘔吐、不眠などが現れる場合もありますが重篤になるようなことはまだ報告されていません」
「美沙を救うことがそれしかないならお願いします」
「では、こちらの書類にサインをお願いいたします」
 美沙の新しい薬での治療は翌日から始まった。主治医の言った通り、吐き気や頭痛、食欲不振が現れたが、数日後にはそれらの症状はなくなり、美沙が抱えていた死にたいという気持ちが日に日に薄くなっていくことを彼女自身で感じていた。
「最近、顔色がいいね」
「うん。なんか気持ちが前よりも軽くなった感じがする」
「薬が効いてるんだね」
「このまま良くなっていって退院できるかな」
「そうだね。退院したら旅行でも行かないか」
「真ちゃんがそんなこと言い出すなんて珍しいね」
「そうか。どこか行きたいところ考えておいてよ」
「わかった。どこがいいかなぁ。何泊までいい?」
「何泊でもいいよ。美沙の行きたいところに行こう」
「えー、そんなこと言ったらハワイとか言い出すかもよ」
「いいよ、ハワイでも」
「わかった。考えておく。真ちゃんと旅行か。新婚旅行以来だね。楽しみ」
 小武は美沙が穏やかに笑うのを見て、胸をなでおろした。
「じゃあ、おれはこれから一旦帰って仮眠を取るよ」
「夜勤お疲れ様でした。ゆっくり休んでね」
 小武は病院を出た後、これからの人生のこと、美沙との旅行のこと、今追っている事件のことを考えながら少しだけ遠回りをして自宅へと戻った。自宅へ戻ってシャワーを浴びた後、小武はひとりでは大きすぎるダブルベッドに入ると、すぐに眠りについた。
 どれくらい寝たのかわからないが、窓の外はすでに暗くなっていた。リビングに置いてある仕事用の携帯が鳴っている音で小武は目を覚ました。ベッドから降り、急いでリビングへ行き、携帯を取った。
「どうした」
「阿佐ヶ谷総合病院で傷害事件です。負傷者多数出ています。これから出てこられますか」千田は冷静に言葉を繋ごうとするが、小武の妻が事件現場にいることを知っていたため、焦りを感じずにはいられなかった。
「わかった。すぐ行く」

 小武が阿佐ヶ谷総合病院前に到着すると救急車やパトカー、そしてすでに事件を嗅ぎつけたマスコミたちで騒然としていた。
「どうやらひとりの容疑者と思われる女性が病院内で暴れ、そして、その女が人を食べていたという証言もあがっています。それにより負傷者が多数出ている模様です。詳しい情報が入り次第またお伝えをいたします」テレビのレポーターの女性がカメラに向かって強張った表情で言っていた。
「小武さん、こっちです」千田が病院の職員専用の出入り口から手招きしていた。
「状況は」
「負傷者の数は把握できていません」
「そんなに多いのか」
「死者も出てます」
「まじか。で、容疑者は」
「確保済みです。高井戸署にさっき連行されていきました」
「凶器は」
「あの­」
「なんだ」
「小武さんは高井戸署に向かってください」
「どうしてだ。ここですることが俺たちにはあるだろう」
 千田は俯き、何かを言おうとするが言い淀んでしまっていた。
「千田、どうした。はっきり言え」
「奥さんが­」
「え、美沙がどうした。美沙もやられたのか?」
「奥さんが高井戸署にいるので行ってください」千田は俯きながら言った。
「どういうことだ」
「奥さんが容疑者なんです」千田は小武の顔をまっすぐ見て言った。
 小武は周りの音が一瞬なくなったように思えた。何故、美沙が容疑者なんだ。さっきまでニコニコと笑って幸せそうだったじゃないか。そんな幸せそうな人間が人を傷付けるはずがない。何かの間違いだ。
「小武さん、とにかく高井戸署行ってください」千田は呆然とする小武の腕を取り、パトカーに乗せた。
「すみません、小武さんを高井戸署までお願いします。着いたら原山さんが待ってますので」
 小武を乗せたパトカーは高戸署へと走り出した。病院から細い路地を抜け、中杉通りに出ると、帰宅時間と重なっているため、渋滞が起きていた。パトカーはサイレンを鳴らし、拡声器で「緊急車両が通ります」と阿佐ヶ谷駅前に響かせ、青梅街道まで出た。青梅街道も同様に荻窪方面は渋滞をしていたが、サイレンと拡声器で他の車をどかせ、高井戸署へと急いだ。
小武は冷静になろうと必死で頭の中で何が起きているのか整理しようとするが、思考がうまく働かなかった。頭の中で妻の美沙が笑っている姿と人を食っているす姿が交互に現れ、小武は頭を抱えた。
 高井戸署に着くと刑事課で小武の後輩である原山が出迎えた。
「小武さん、こちらお願いします」
 小武はまだ頭の中がぼんやりと霧がかかったような状態だった。
 原山は小武を第一取調室隣の観察室に通した。観察室は第一取調室と隣接してあり、取調室の様子をマジックミラーになったガラス窓から観察できるようになっていた。
「小武さん、確認していただけますか」原山はそういうとガラス窓のカーテンを開けた。
 ガラス窓の向こう側には、パイプ椅子に座り、両手をだらんと垂らし、口をだらしなく開けた小武美沙の姿があった。朝、見たパジャマは血で真っ赤に染まっていた。顔には乾いたどす黒い血がついていた。
「妻です」小武はか細い声でそう言った。
「間違いないですか」
「はい、妻の美沙です」

それは間もなく夕飯が始まるという時間帯の惨事であった。
小武美沙がいるはずの病室に看護師が行くと彼女はそこにいなかった。彼女は病院内で早田由紀恵を探し、徘徊していた。しばらくして、彼女は早田を見つけると、猛然と駆け寄り、早田の正面から飛び付いた。
突然飛びつかれたその早田はその場で倒れ、上半身に美沙が跨っていることで身動きが取れない状態だった。
「小武、てめぇ。いよいよ頭がおかしくなったか」早田は身体をもがきながら言った。
美沙は白目を向き、口元は笑っていた。
「どけよ、ブス!」
そう早田が言った瞬間、美沙は早田の首のちょうど喉仏の下辺りに噛みつき、そこの肉を噛みちぎった。噛みちぎられた喉からはぴゅっ、ぴゅっと血が噴き出した。
早田は助けを求めようと声を出そうとするが、噛みちぎられた喉からひゅーひゅーと音が鳴るだけであった。
美沙は早田の両目に指を入れ、彼女の眼球を取り出した。そして、その取り出した両目を牡蠣でも食べるかのようにズルズルと口に中に入れ、胃の中に収めた。
早田はすでに抵抗することを諦めたのか、ただ身体をピクンピクンと痙攣させていた。
美沙は早田の口を両手で掴み、上下にこじ開けた。すると、バキバキという音ともに早田の口は裂け、下顎と共に舌がだらしなく垂れた。美沙は彼女の舌を自分の足を早田の肩に引っかけ、思い切り引っ張った。そして、舌が彼女の満足した長さまで伸びると、舌を噛みちぎり、口の中でゴリゴリと咀嚼し、飲み込んだ。美沙はそれで満足したのか、立ち上がり、早田の顔を足で踏み潰して、その場を去っていった。
美沙が去ったすぐ後に、遠くで騒がしい声が聞こえた。変わり果てた早田を誰かが見つけたのだろう。
美沙は今度は村田を探し、病院内を徘徊していた。その間、美沙は今まで自分を虐めていた同僚たちに邂逅すると、首を噛みちぎり、腕や足をもぎ取り、髪の毛をすべて毟り取り、耳を引きちぎり、指をへし折り、顔面を破壊し、内臓を抉り取り、彼女は嬉々と復讐を果てしていったのであった。
漸く、村田を見つけると快哉を叫びながら彼女の首に噛み付き、そして、首の肉をすべて食い尽くすと、首と胴体を切り離し、喉から手を入れ、肺を取り、そして心臓を取り出した。それを美沙は上を向き、大きな口を開けて食べた。口の中で心臓を噛むとぴゅっと血が噴き出した。
美沙はこの後、自分の病室へと戻った。しばらくすると、外からパトカーのサイレン音が聞こえ、美沙のいる病室に何人もの警察がやってきて、彼女を連行していった。

 翌日からテレビや新聞はこぞって病院で起きた惨忍な事件を連日取り上げた。
「負傷者は五十二名、死亡した方は二名で全員阿佐ヶ谷総合病院の職員だったということで、小武美沙容疑者は病院になんらかの恨みがあったということでしょうかね、金浦さんいかがでしょう」テレビ画面の中でニュース番組の司会者が腕組みをし、首を傾げながら言った。
「怨恨による犯行と考えるのが自然でしょうね。死亡した早田由紀恵さんと村田和子さんは小武容疑者の元同僚ということですので、被害者の彼女たちになんらかの恨みがあったこと間違いないでしょう。他の負傷者に関しても小武容疑者となんらかの関係はあったんじゃないでしょうかね」元警視庁刑事だという男が自信たっぷりな表情で語っていた。
「小武容疑者は事件当時、心神喪失状態だったという情報も入っていますが、これは罪に問われるんでしょうか」司会者は眉間に皺を寄せながら言った。
「それはこれから精神鑑定が入ってからでないとなんとも言えませんが、負傷者が、これだけ出ていますからね」元刑事の男はその後の言葉を言おうとしたが言いとどまっている様子だった。
「責任能力がないと判断された場合は、誰がこの事件の責任を取るのかも今後注目されるところですね。では、一旦CMかな。CMの後は芸能のコーナーです」そういうと司会者は憤懣が滲み出ている表情から一瞬にして表情を緩め、カメラに屈託のない笑顔を見せた。


第七話「痼疾」

「板垣教授、阿佐ヶ谷総合病院で事件があった当日、小武美沙と接触していますよね」
「ええ、お会いした時はとても穏やかな様子だったので、ニュースを見てとても驚きました」板垣は高井戸署で刑事課の千田の取調を受けていた。
「小武美沙と会った理由をお聞かせください」
「カウンセリングです」
「どういった経緯でカウンセリングに至ったのでしょうか。本来ならば、カウンセリングは阿佐ヶ谷総合病院の医師や心理士が行うことになっていると病院の方からお聞きししています。なぜ、板垣教授がカウンセリングをされたのですか」
「小武さんの主治医の荻原先生からの依頼ですよ。荻原先生から電話があり、その後すぐに病院に行きました」

 板垣が大学の自室で学生の論文の添削を行なっていると、スマホの着信音が鳴った。
「はい。わかりました。すぐ行きます」板垣はそれだけ言うと電話を切り、机の鍵の掛かった引き出しを開けてCDを取り出した。そのCDを鞄に無造作に入れ、自室を出た。
大学から阿佐ヶ谷総合病院まではタクシーを使い十分とかからない。板垣が病院に着くと、病院の玄関前には小武美沙の主治医である荻野が彼を出迎えるように立っていた。
「坂垣教授、お忙しいところ申し訳ありません。準備が整いましたのでご連絡させていただきました。こちらへどうぞ」そう言うと荻原は坂垣を小武美沙のいる部屋へ案内した。
「小武さん、こちらこの前お話した明和大学の板垣教授です。今から板垣教授とお話をしていただけますか」
「こんにちは。お忙しいところわざわざありがとうございます」美紗は読んでいた本を閉じ会釈をした。
三人は挨拶を済ませると、病室を出て、荻原が用意した部屋へと向かった。
「では、こちらのお部屋をお使いください」そう言うと荻原は部屋を出ていった。
 相談室と書かれた部屋の中には、テーブルと椅子が二脚あるだけだった。
「どうぞ、おかけになってください」板垣は美紗に座るよう促した。
「失礼します」
「荻原先生からはいろいろと聞いています。まだ死にたいと思うことはありますか」
「そうですね。まだ死にたいという気持ちは残っている気はします。この病院にいるからかもしれません」
「それはあるかもしれませんね。恐らく小武美沙さん、あなたのその自殺願望の原因は、元を辿ればこの病院で働いていたことですからね。ここにいれば必然的に嫌なことを思い出すでしょ」
「そうですね」
「私の研究のひとつに音楽療法というものがあります。聞いたことはありますか」
「名前だけは聞いたことはありますが、詳しくは」
「音楽療法にもいろいろと方法があるのですが、小武さんには今回音楽を聞いていただいて、今抱えている死にたいという気持ちを軽減できればと考えています」板垣はそう言い終わると、鞄からCDとCDプレイヤーを取り出した。
「これをお貸ししますので、また死にたいと思った時に聞いてみてください」
「聞くだけでいいんですか」
「はい」
「どんな音楽なんですか」
「アイドルです」
「アイドルですか。それは意外ですね。なんかもっとヒーリングミュージックみたいなものを想像していました」
「音楽療法っていうとそういうイメージを持たれる方も多いかと思います」
「まぁ、でも大学の先生がそう言うのではあれば聞いてみます」

 板垣は千田をじっと見つめ、千田の言葉を待った。
「なんなんですか、そのCDは。おかしいじゃないですか。そのCDを聞いた後に小武美沙も含め、これまで複数の人間が人を食うって」
「そうですね。異常なことが起こっていることは私も認識しています。しかし、私が渡したCDを聞いただけで人が殺人鬼に変貌するなんてSFの世界じゃないですか」
「そうですが、しかし実際このCDを聞いた人たちが人を食っていることは事実です」
「このCDを聞いた人が人を食べるというのではあれば日本中でそういった事件は多発しているはずですよね。しかし、警察のお話によると小武美沙さんを含めて都内で5件だけというじゃないですか。しかし、最初の事件以外で、私が渡したCDを渡した方たちが事件を起こしていることはわかっています。ただ、さっきも言いましたがCDを聞いただけで人を殺すほどの人格が変わるなんてありえないですよ。警察がそういう主張をするならその証拠を提示してくださいよ。私はいちカウンセラーとして、彼らに音楽を聞いてもらっただけです」
 千田が言い淀んでいると、取り調べ室のドアが開いた。
「千田、ちょっと」千田と同じく刑事課の阿部が千田を外に連れ出した。
 取り調べ室の外では何か言い争っている声が聞こえていた。板垣は腕時計を見て、溜息を吐いた。高井戸署に来て、三時間が経過していた。
「板垣教授、今日はお帰りください」千田が口調は穏やかだが表情を見ると、怒りが滲み出ているのがわかった。

 板垣が高井戸署を出ると、タイミング良くスマホの着信音が鳴った。
「ご配慮ありがとうございます、今、警察署を出ました」
『そうですか。お疲れ様でした。今回の件で、データは揃いましたので、近々、大臣から発表があると思います』
「そうですか。一体これから何が始まるんですか?」
『大臣が望まれたことですからね。始まりは混沌とするでしょうが、今のこの世の中よりは素晴らしい世界になると思いますよ』
「そうですか」
『不安ですか』
「僕には到底想像もできないことですから」
『世界の浄化、そんな風に考えてみるのもいいかもしれませんよ』
「浄化ですか」
『ええ、あの薬で世界を掃除するんです。そして、弱い人間が救われる世界へ世の中は変わっていくのです』
「大臣からの発表が終われば、私の役目も終わりですか」
『そうですね。それまでは大人しくしていてください』
 板垣は電話を切り、ひとつため息を漏らした。

 長瀬誠を始め、研究室の学生たちは大学の研究室で板垣教授の到着を待っていた。
「もし、板垣教授が事件に関与していて逮捕なんてされたら俺たちどうなるんですかね」修士二年の牛久隆二は抱えている不安が表情から溢れ出ているようだった。修士一年の長瀬誠と指山陵も同じように暗澹とした表情をしていた。
「飯田さんはどうしたんでしょう。最近、研究会に来ないですよね。事件に巻き込まれたとか」長瀬は事件を起こした友人の佐伯浩太のことが事件以来、頭から離れなくなっていた。そのためだろう、最近顔を見せない飯田も事件に巻き込まれてしまったのではないかと不安で仕方なかった。
「心配すんなって。大丈夫だよ。俺たちは事件に何も関係してないんだから。とばっちりもいいとこだろ。飯田もひょろっとすぐに顔を出すよ」博士課程三年の久保田聡は後輩たちの不安を察し、わざとらしく声のトーンを上げて言ったが、彼自身も不安で押し潰されそうであった。久保田はすでに博士論文を書き上げ、次年度の就職先も決まっていた。それが今回の事件で白紙になってしまう可能性も考えられる。そうなってしまったらこれまでの彼の並々ならぬ苦労が水の泡になってしまう。
「今は坂垣教授が今回の事件になんらかの形で関わっているのは確かだと思うわ。でも、それも憶測の域を超えないのも事実よね。だから今はもう少しいろんなことがわかってくるまで辛いと思うけど耐えましょ。学生の皆は大丈夫よ。ちゃんと卒業できるし、就職もできるから」諭すように浦沢彩月がそう言ったことで、研究室の重たい空気はほんの少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ教授が来るまで私たちだけで研究会をしていましょう。時間は限られているからね」浦沢をそう言うと席に着いた。

 結局、研究会が終わるまで板垣と飯田は現れなかった。
「浦沢さん、佐伯浩太のことでお話があるんですがお時間ありますか」長瀬は他の学生たちが研究室から皆出ていったことを確認して言った。
「長瀬くんの友人だったのよね」
「はい。ニュースで見ましたが、佐伯も板垣教授に会っていたんですよね。坂垣教授は佐伯に何をしたんでしょうか。佐伯はあんなことをするような人間じゃないんです。何か板垣教授にマインドコントロールか何かをされたんじゃないかと考えてしまって。浦沢さんは何か知りませんか」
「残念だけど、私にも坂垣教授の周りで起きていることについては何もわからないの」
「そうですか。ニュースで言っていましたけど、事件を起こした人たちは皆自殺願望があったとか」
「板垣教授と面談をした人、そう、メディアが言う通り、自殺願望がある人たちが事件を起こしているは事実ね」
「ということは佐伯も自殺願望を持っていたんでしょうか」
「それは私は把握していないわ。でも、その可能性はあるわね」
「佐伯もそうですが、事件を起こした人たちは今どこにいるかわかりますか?」
「留置所で勾留されているわ。私も担当していたクライエントが事件を起こして、一度面会に行ったの」
「え、面会できるんですか」
「いえ、面会というより警察に協力したという感じよ。長瀬くんも石川さんが事件を起こした時に行ったでしょ」
「はい」
「長瀬くんも見て感じたと思うけど、まるで別人のように感じなかった」
「感じました。心ここに在らずというか、魂が抜けてしまったような、そんな印象を受けました」
「そう。私は死人のように見えたわ」
「死人ですか」
「ええ、心が死んでしまった死人」
「佐伯もそんな状態に今なってしまっているんでしょうか。僕、ずっと考えてるんです。なんでこんなことになってしまったんだろうって。石川さんのこともそうだし、佐伯のこともです」
「自分を責めることはないわ。長瀬くんはその時にできることを精一杯やったと思うわ。だからそんなに考えこまないこと」
「でも­」
「長瀬くん、今夜は予定あるの?」
「いえ、ないです」
「じゃあ、ちょっと気分転換に飲みにでも行こう」
「でも­」
「でもでもってそんな大きい身体して器を小さいのか青年。ほら、荷物持って行くよ」
 長瀬は浦沢に背中を押されながら大学を出た。

ふたりは高円寺へと向かい、中通りに入ってすぐの狭い路地にある沖縄料理屋に入った。扉を開けるとカウンター越しから八十歳は超えているだろう老婆が優しい声でふたりを迎えてくれた。店内は沖縄民謡が流れていた。
「おばちゃん、オリオンビール二つください」
「はいよ」
 オリオンビールが机に並べられるとすぐにふたりは乾杯をし、浦沢はコップ一杯のビールを飲み干し、ビンに残ったビールを注ぎ足した。長瀬もとりあえずコップ半分のビールを飲んだ。
「佐伯が自殺願望。僕は佐伯と会った時に全然気付かなくて、もっとちゃんとした対応をしていればこんなことになってなかったんじゃないかって思うんです」
「それは無理よ」浦沢はコップのビールを飲み干し、テーブルにコップを置いて続けた。
「今、日本では気分障害、つまり、鬱病もその中に入るけど、どんなくらいの人たちがいるかわかる」
「確か、厚労省の調べでは約百三十万人でしたっけ」
「その通り。当たり前だけど、そういう病気になる人はなりたくてなっているわけじゃなし、本当は生きたいの。他人かからなんらかのストレスを与えられたことによって、そうなってしまう人たちが大半なの。だから、長瀬くんがそんなに落ち込む必要はないわ。すべてはこの世の中が悪いの」
「世の中ですか」
「そう、世の中。世の中がそういう病気や死にたいって気持ちを作り出しているの。だから世の中を変えない限り、自殺はなくならないわ。私はそんなクソみたいな世の中を変えたいのよ」
「確かにそういうことですよね」
「理解が早くてなにより。おばちゃん、オリオンとソーミンチャンプルーください」
「はいよー」
「だってさ、今の総理大臣も鬱病になるんだよ」
「え、そうなんですか。全然そんな感じに見えないですよ」
「でしょ。他人からは一見普通のように見えても本人はとても苦しんでいるのよ」
「ニュースとかそんなこと言ってないですよね。なんで、浦沢さんは知ってるんですか?」
「だって私のクライエントだもん。まぁ、見えないように本人やその回りの人たちが努力してるんだけどね。一国の主が鬱病になりました、自殺願望がありますなんて公表できないでしょ」
「えー、大学内で一度も総理大臣見たことないですよ」
「大学の相談室になんて来るわけないでしょ。こっちが行くのよ」
「あの官邸に行くんですか?」
「そうよ」
「ていうか、そんなこと言っていいんですか?」
「ははは、ダメに決まってんでしょ。オフレコってことでよろしく」浦沢は酔ってきたのか、目尻が少し落ちていた。
 その後、ふたりは二時間程飲んだ後、店を出た。
「浦沢さん、大丈夫ですか。帰れますか」
「大丈夫、今日は高円寺に泊まるから」
「近くに知り合いでもいるんですか?」
「まぁね。じゃあ私こっちだから。じゃあ、また研究室でね。そんなに落ち込むなよ、青年!」浦沢は今にも倒れそうになりながらふらふらと庚申通りの方へ歩いて行った。


第八話「カタストロフィ」

 阿佐ヶ谷総合病院で起きた事件以来、人が人を食う事件はパタッと起こらなくなった。
病院での事件後に警察に連れていかれた坂垣は、その後、大学の研究室に現れることはなかった。飯田智子も同じく大学に一切現れなくなっていた。
学生たちは大学側に板垣と連絡を取りたい旨を伝えたが、「こちらも板垣教授とは連絡が途絶えている」との返答しか得られなかった。学生たちは各々で研究を進め、論文の指導は博士課程の学生や別の研究室の教授や准教授などが坂垣の代わりに行った。

クリスマスのイルミネーションが街中を照らし出した頃、自殺を抑制するという効果があるという新薬が開発されたことがニュースで流れた。
新薬の効果は絶大で、それはすぐに全国に広まり、SNSではこの新薬を服薬したことで死にたいと悩まされていたことがなくなったと報告する人たちが現れると、たちまち拡散された。メディアではこの新薬を服薬し社会復帰をした人たちが多く特集されていた。
自殺をする人たちの数は、新薬が世に出始めてからというもの、日に日に減少していた。自殺者はここ数年で言えば年間で約二万人前後、月間では二千人前後を推移していたが、新薬が開発されてからはゼロに近づく勢いであった。
新薬を服薬した人たちは仕事に復帰をし、学校へ戻り、彼らの新たな人生が始まろうとしていた。
 そんな中、総理大臣である緒方龍太郎が全国民に向けた緊急の声明をすると発表をした。その声明はテレビ以外にも、ラジオ、ネットの生配信でも放送される予定になっていた。
その臨時の会見の日が近づくにつれて政府は国民に向けて「大事な会見になるから」と様々な方法で伝達を行った。それを受けた社会全体は対応に追われ、そして、いよいよその日がやってきた。

 板垣研究室のメンバーたちはいつもの研究室に集まっていた。
「モニターここでいいかな?」長瀬誠と彼の同期である指山陵は視聴覚ルームから大きなモニターを借りて研究室に運んでいた。
「こんなでかいモニター何に使うんだろうな?」指山はパソコンとモニターをケーブルで繋ぎながら言った。
「浦沢さんからはとりあえず集まれとしか言われてないからな。なんかの研究発表じゃないか」
 ふたりが準備を進めていると牛久隆二と久保田聡が研究室に現れた。
「長瀬、指山、モニターありがとな」久保田は板垣が研究室に現れなくなってからというもの、学生の指導と自分の研究で心身共に疲弊しているようだった。
「ご苦労様」牛久は修士論文を書き上げ、無事提出したばかりで、最後の追い込みが表情に表れていた。
「先輩たち顔が死んでますよ。まるでゾンビじゃないですか」指山は特に何かを意図してというわけではなく、感じたことを口にしただけだった。
「おれもそのうち人を食っちまうかもな」牛久も特に何も考えずそれに応えただけだった。
「指山、牛久」久保田が苦虫を噛んだよな表情をした長瀬に目線をやりながら言った。
「あ、すみません」
「ごめん、長瀬」
「あ、大丈夫すよ。みんな疲れてんですよ」
 長瀬の言う通り、板垣がいなくなってからというもの、それぞれの学生たちは自分たちの研究や後輩たちの面倒で心身を磨耗させ、疲労が容器から溢れる寸前であった。

 長瀬は友人であった佐伯浩太が事件を起こして以来、体調を崩すことが多くなり、研究会も休むことが多くなっていった。
長瀬は彼が事件を起こした時の映像を見ていた。リアルタイムで見たのではなく、事件後、誰かがそのリアルタイムで配信されたものを再アップしたものを彼は興味本位で見たのだ。
彼にとってその映像は想像以上に残酷で恐懼に満ちたものであった。
それを見た後、彼はまた自分を責めた。
それから時間が経つにつれ、佐伯浩太のことを考えない日は少なくなっていった。そして、夜は眠れなくなり、ユーチューブやSNSを見ることを避けるようになり、ユーチューブという言葉を聞くだけで動悸がするようになってしまったのだ。
最近では、長瀬は極力人と会わないように生活をするようになっていた。そんな日々を過ごす中で、浦沢彩月からLINEでメッセージが届いたのだ。
『長瀬くん、調子はどう。最近、研究会の欠席が続いているから良くはなさそうね。体調が優れないところ申し訳ないけど、十二月二十四日の十一時に研究室に必ず来てほしいの。大事な話をしようと思ってるの。長瀬くんのこれからの人生にも関わることだから』
長瀬は『わかりました』とだけ返信をして、十二月二十四日を迎えた。

「長瀬、おまえ最近随分痩せたんじゃないか。ちゃんと飯食ってるか」久保田は憐憫の表情を浮かべながら言った。
「まぁ、それなりに。でも確かに前より身体は軽くなった気はします。前は食べ過ぎてたんでちょうどいいですよ」
「痩せるのも健康的に痩せないと身体本当に壊すからな」
「わかってますって」長瀬はここ数ヶ月で三十キロ近くも体重が減っていた。原因は不安や恐怖による食欲不振から来るものだと自分でもわかっていた。佐伯の事件依頼、食欲を含む、何かをしたいという意欲が日に日になくなっていった。
「カウンセリングしてもらった方がいいんじゃないか」久保田が本当に心配そうに長瀬に言った。
「自分でもおかしいってわかってるので、カウンセリング受けてるんですよ」
「そうか、それならよかった。とにかく無理はすんなよ」
「ありがとうございます」

 時計の針が十一時三十分を指したとき、研究室のドアが開き、浦沢彩月が入ってきた。
「みんな、いろいろと準備ありがとね」
「浦沢さん、今日は何をするんです」久保田は誰もが聞きたいであることをすぐ聞いた。
「みんなに見てもらいたいものがあってね」
「見てもらいたいものっていうのは」
「総理大臣の臨時の記者会見」
「何かうちの研究室と関係があるんですか」
「それはあとから説明するわ。記者会見まであと三十分ね。まだ来てないメンバーもいるし、とりあえず座って待ちましょうか」そういうと浦沢は椅子に腰掛けた。
 それに続くように他の学生たちも席に着いた。
 研究室の中は静まり返り、誰一人として口を開く者はいなかった。そんな中、研究室の外の廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。その音から人ふたりがこちらへ近づいてくることがわかった。研究室の前で足音が止まり、ドアが開くと、学生たちは驚愕の表情を浮かべた。
「板垣教授」久保田は思わず立ち上がり言った。
 板垣は特に何も言わず、研究室に入り、いつもの席に腰を下ろした。彼の頬は痩せこけ、目の下には濃いくまができていた。
 もうひとりは飯田智子であった。彼女も同じく一言も話さず、研究室へ入り、坂垣の隣に腰を下ろした。彼女もまた、生気を感じることのできない表情、そしていでたちをしていた。
「あとふたりね」浦沢はそのふたりをいつものメンバーかのように言った。
「あとふたりって新しい学生でも入ったんですか」久保田が不思議そうに言った。
「まぁ、そのうち来ると思うから待ちましょう」
 長瀬と指山は顔を見合わせ「誰だろう」とお互い困惑しているようだった。
「ふたりが来る前に少し皆さんにお話しをします」そう言って浦沢彩月は立ち上がった。
「私が今ここにいるのは復讐をするためです」
 研究室では聞くことのない言葉に長瀬、指山、牛久、久保田は言葉を発する浦沢を呆然と見つめていた。一方、板垣と飯田はバツが悪そうに俯いていた。
「二年前、新里亨という学生が自殺を図りました。自殺をした理由はある教授からの度重なるパワハラとアカハラ、そしてある学生からの嫌がらせ、いじめ。彼はそれに耐えられず首を吊りました。なぜ、彼はそんな目に合わなければいけなかったのでしょう。久保田くん、彼は人間的にそんな目に合わなければいけない存在でしたか」
「あ、いえ、新里さんはとても優しい方で僕もそうですが、新里さんからいろんなことを教えてもらいました。後輩たちはもちろん、他の研究室の方からも慕われていました」
「どうしてそんな人が自殺をするまで酷い目にあわなければいけなかったのでしょうか」浦沢は坂垣と飯田を睥睨しながら言った。
「牛久くん」
「は、はい」
「なぜ、新里亨さんは自殺をしなければいけなかったのかな? 彼が自殺をした事で得をする人がいるからよね。それは誰かわかる?」
「えと、それは」牛久は言葉に出さずとも目線で答えた。
「そうよね。このふたりよね」
 板垣と飯田は俯いたままである。
「板垣教授と飯田さんは新里亨さんの研究を横取りするために彼を自殺に追い込んだ。この研究はとんでもない大金を生む研究ですからね。飯田さんは奨学金がたくさんありますもんね。それと慰謝料。それを返さないといけない。それを返したとしても、それでも十分なお金が飯田さんには入ってくる予定でしたね。でも、そんな簡単に人生はうまくいかないわ。だって、私がそれを全力で阻止するもの。あなたがやったことは強盗殺人と一緒。わかる?」
 飯田は肩を震わせていた。呼吸の回数も多くなっていた。
「板垣教授も同様。お金が必要なんですよね。不倫がバレて、離婚して莫大な慰謝料と療育費を払わないといけないですもんね。それは自分の責任でしょ。自分でなんとかしなきゃ。どうして他人を頼ってしまったの。そうそう、この人たち不倫関係だったの。でもバレちゃってね」
 研究室にいる学生たちは次から次へと出てくる浦沢が語る衝撃的な事実に戸惑いを隠せず、頭を抱える者、顔を手で覆う者、目を見開きじっと浦沢の話を聞き入る者、各々が現実とは思えない現実を把握しようと必死だった。
 板垣は肩を落としたまま動かなかった。
「飯田さん、そもそもあなたが教授を唆すからでしょ。こういう人たちは若い子に言い寄られたらすぐ舞い上がっちゃって我を忘れちゃうんだから」
「わかった。もう辞めてくれ。私のしたことを認めて、責任を取る」
「また勝手なことを言い出して。結局自分がよければいいんですよ。なんですか責任て。謝罪をして、大学を辞めるとかそういうことですか」
「そ、そうだ」
「そんなことで許されると思ってるんですね」
「じゃあ、どうすれば」
「最大級の恐怖を感じながら苦しんで死ねばいいんですよ」
 板垣は彼女の言葉を聞いて言葉を出せなかった。
「飯田さん、あなたもよ」
 飯田も驚愕の表情をし、その表情は段々と崩れ始め、涙が流れ、嗚咽を始めた。
「失礼します」その声と同時に研究室のドアが開き、新里摩耶がドアの隙間から顔を出した。
「あれ、摩耶ちゃん」長瀬が新里摩耶の姿は見たのは数ヶ月ぶりであった。
「長瀬くん、久しぶり。え、なんかめっちゃ痩せたね。彩月さん、お兄ちゃん入っていい?」
「いいわよ」浦沢はドアを開け、彼女たちを招き入れた。
 新里摩耶は男の腕と肩をしっかりと掴み、男を研究室の中にゆっくりと導いた。
「新里さん」久保田と牛久は声を揃えて言った。
「新里くん、君は」板垣は愕然と口を開き言った。
「いや!」俯き泣いていた飯田は顔を上げ、新里亨を見ると悲鳴をあげた。
「飯田さん、それはないんじゃない。新里さんに失礼でしょ」冷たい目線で蔑むように言った。
「亨さんと摩耶ちゃんはここに座って」新里亨と新里摩耶は板垣と飯田と向かい合うように座った。
「じゃあこれから総理大臣の記者会見をみんなで見ましょうか」浦沢が嬉々としてそう言うと、研究室のドアの鍵が自動でかかった。
「総理大臣の会見が終わるまで皆さんはここから出られないように警備の方に頼んでおきましたので、ゆっくり総理大臣の会見をお楽しみください」浦澤は笑みを浮かべて言った。その表情は悪魔のそれであった、

 総理大臣はいつもにこやかで柔和な雰囲気を出していていたが今日は威風堂々と何か覚悟を決めたような立ち振る舞いで、カメラの前に現れた。
「国民の皆様、それではこれより臨時の記者会見を始めさせていただきます。恐らく国民の皆さまのほぼ全員がこの記者会見を見られていることかと思いますが、まずは今日に至るまでこの臨時の記者会見のために様々な調整をしていただいた方々に感謝申し上げます。誠にありがとうございました。さて、まず私自身のことからお話しをさせていただきます。私は現在、心の病を患っています。そしてそれに伴った自殺願望があります。毎朝、私は死にたいと思いながらベッドから起き上がるのです。診断を受けたのは数年前のことです。新型のウイルスが漸く落ち着いてきた頃だと思います。私は国民の皆さんのためにこれまで尽力してきたつもりです。時には私の決断が国民の皆さんに批判されることもありました。国民の皆さんは私を国のトップだと認識しているでしょうが、実際はそうではありません。私は国のトップという象徴的なものに過ぎないのです。物事を決める時や動かす時、私が何かを決断するわけではありません。私の周りの人たちが決めて、わたしが責任だけを負って決断を下すのです」
 総理大臣がそう言うと、記者会見が行われている会場にいる関係者たちがざわつき始めたが、総理大臣は構わず話しを続けた。
「私は弱い人間です。必ずしも強い人間が組織のトップになっているわけではありません。しかしながら、強い人間がトップになることもあるでしょう。そういった場合は、トップに従う者たちの中に弱い者が生まれます。弱い者がトップになった場合は、私のように強い者たちにうまいこと使われてしまう者もいます。つまるところ、今この私たちが生きる社会は弱い人間が生きづらい、いや、すぐに死んでしまうような世の中になってしまっているのです。国民の皆さんは現在、日本にはどのくらいの人たちが心の病で悩まされているかご存じでしょうか。約百三十万人です。約百三十万人の方々が心の病に苦しめられ、辛い生活を余儀なくされているのです。人口比で言えばそれは1パーセントに過ぎませんが、私は潜在的に心の病で苦しむ人たちはもっとたくさんいると思っています。私はこの約百三十万人の人たちを助けたいと心から思っています。私自身が心の病に罹り、痛いほどその苦しみや辛さをわかっています。どんな思いで生活をしているか、私はわかっています。その人たちの中でどれだけ人が死にたいという気持ちを持って毎日、一時間、一分、一秒を生きているかわかりますか。自殺なんてあってはならないことなのです。自殺するくらいなら復讐すればいい。あなたを傷付けたクズどもを。私はあなたたちを救ってあげたい。その想いで、新薬の開発に力を入れてきました。その新薬の効果がとても出ていていることは報道などでご存じだと思います。学校や職場に復帰されている方々が多くいると報告を受けています。しかし、心の病は一度罹ってしまったら死ぬまで治ることはありません。何故なら、心の病に罹った、いや、その前かもしれませんが、心が死んでしまったからです。人間は死んでしまったら、生き返ることなどできません。心も一緒です。心が一度死んでしまったら、もうそこで終わりなのです。新薬は表面上は患者さんたちが良くなっているように見えますが、実際は心は死んだままです。では、どうすれば心の病が治るのか。それは根本的にあるものを無くせばいいのです。根本的にあるものとは何か。それは心を傷付けた側の人間です。心の病になった人たちの多くは他人からなんらかの形でストレスを与えられ続けられた結果、そうなってしまったのです。だから、傷付けた人間を排除すればいいのです。それは自分の手で排除しなければ意味がありません。悪いことをした人間には罰を。死にたいと悩む皆さん、今日で悩みの種はこの世からなくなります。思う存分、あなたたちを苦しめた人たちに仕返しをしてください。その恨み、思う存分食い殺してしまってください」そう言うと、総理大臣はCDケースからCDを取り出し、スピーチ台に用意しておいた、CDプレーヤーにCDをセットした。
「優しい人間が報われる世界であってほしいと私は願ってきましたが、この世界は優しい人間が悪魔に豹変しなければいけない世界になってしまったのです。どうか、この世界が素晴らしいものになりますように」そう言うと、総理大臣はCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
 CDプレイヤーからアイドルの歌声が流れ始め、しばらくすると総理大臣は白目を抜き、ケラケラと笑い始めた。それを見ていた側近たちが総理大臣に近づき、彼をスピーチ台から下ろそうとした時だった。総理大臣がひとりの側近の首に噛みつき、噛みついたと思った瞬間には彼の首の皮を噛みちぎっていた。その側近が首から大量の血しぶきをあげながら倒れると、総理大臣はケラケラと奇声のような笑い声をあげ、今度は違う側近の首を噛みちぎり、首を噛みちぎられた者は首から大量の血が吹き出しその場で倒れた。狙った獲物が倒れると総理大臣は次の獲物を見つけ、その獲物の首を噛みちぎった。
 総理大事の奇行に会見場は混乱を極めた。彼の獲物たちは逃げまどい、彼はまるで鬼ごっこでもするかのように獲物を追いかけまわし、それを捕まえると、すぐに捕食した。耳を食われる者、目玉を抉り取られ食われる者、腕を引きちぎられる者、そこは地獄そのものであった。

 渋谷のスクランブル交差点には食う者から逃げる者が四方八方からやってきて、スクランブル交差点で食われる者、逃げた先に車が突っ込んで轢かれる者、ビルの高層階から食う者と一緒に落ちてくる者、その光景のあまりの恐怖にライターオイルを全身にかけ焼身自殺する者、まさに阿部地獄の世界がそこにはあった。

 高円寺パル商店街では、高円寺駅の方へ逃げまどう人が押し寄せていた。商店街に並ぶ古着屋、雑貨屋、古本屋、カレー屋、クリニック、歯医者などの中から血まみれの人たちが逃げるように出てきて、高円寺駅の方へ発狂しながら走って逃げていた。

 大阪、梅田も混沌としていた。複合商業施設のヘップファイブの屋上に併設されている観覧車を見ると、観覧車の窓のいくつかが赤く染まり、またいくつかの観覧車はゆらゆらと揺れていた。中で人が暴れているのだ。心斎橋筋では人が燃えていた。燃えながらも獲物を追いかけていた。

 博多の那珂川は赤く染まり、何百もの死体が下流へ流されていた。中州でも至る所で悲鳴や怒号が響いていた。遠くでは火の気も上がっていた。サイレンの音が博多中で鳴っていた。

 広島、呉の繁華街では、逃げ回る人を助けようと、ヤクザが日本刀を振り回し食う者の首を切り落としたり、半グレたちがバットで食う者たちの頭をかち割っていた。

 札幌の上空では、飛行機が煙をあげて飛んでいた。やがてその飛行機はテレビ塔を真っ二つに折り、そしてそのまま墜落し、時計台を破壊した。

 研究室にアイドルが歌う音楽が流れ始めると、新里亨と新里摩耶の身体が小刻みに震え始めた。ふたりは何かに耐えているかのように奥歯をくいしばり、そして、眼球は天井を向き、いよいよ白目だけになった。
「摩耶ちゃん」長瀬が新里に近づこうと立ち上がった。
「そこにいなさい!」浦沢は鋭い目付きで長瀬を睨み言った。
 それに気圧された長瀬は静かに腰を下ろした。
「あなたたちは、ここで何が起こるかしっかり見ておきなさい。これが今、日本中で起きていることなの」
 アイドルが歌う音楽は研究室に流れ続けていた。新里兄妹は身体の震えが大きくなり、更に頭を上下左右に首が取れてしまうのではないかというくらいの勢いで振っていた。
「いやー!」飯田が叫び、そして立ち上がり、ドアの方へ駆け出した。しかし、ドアを開けようとするが、施錠がされていて開かなかった。
「誰かー! 助けてー! 殺されるー!」飯田は泣き叫んだ。
 それを見て、浦沢は憫笑した。
「新里くんやめなさい。こっちに来るな」板垣は椅子を引きずりながら後退りしていた。
 新里亨は椅子からひとりで立ち上がり、ゆっくりと坂垣の方へと近づいていった。彼の目は白目を向き、口角を上げていた。どこか嬉しそうな表情にも見えた。
 板垣は恐怖のあまり立ち上がれなくなっていた。
「来るな!」自分の腕を新里の方へやると、新里はその手を素早く取り、板垣を椅子から引き摺り下ろした。そして、新里は坂垣の首に噛みつき、一瞬で板垣の首の皮と肉を剥いだ。その瞬間、坂垣の首元から血飛沫が上がった。その血はドアを開けようと必死に抗う飯田まで飛び散った。
 飯田が振り返ると新里摩耶が白目を向き、にたーっと笑っていた。それはほくそ笑んでいるようだった。
「いやー!」飯田が耳を刺すような悲鳴を上げた瞬間、新里摩耶は飯田の首に噛み付き、一瞬にして彼女の首の肉を剥ぎ取った。飯田の首から血飛沫が舞い、その血は長瀬、指山、久保田、牛久、そして浦沢を赤く染めた。
 板垣はフロアに倒れ、覆い被さるように新里亨が板垣の身体の上に乗り、首の肉を噛みちぎり、くちゃくちゃと耳障りな音をたてながら咀嚼をしては飲み込み、首の肉がなくなると今度は板垣の頭をフロアに叩きつけた。頭蓋骨が割れ、新里亨は割れた頭蓋骨の隙間に手を入れスイカを手で半分に裂くかのように頭を半分に割った。割れた頭から脳みそがフロアに溢れ落ち、それを新里亨は両手で掬い上げて、ズルズルと口で吸った。あっという間に板垣の脳みそは新里亨の胃の中へ収まってしまった。
 飯田はフロアに倒れ、手足がピクピクと辛うじて動いている状態だった。新里摩耶は顔を血で真っ赤に染めながら飯田の頬を食べていた。頰がなくなった飯田の顔は歯が剥き出しになり、どこか口を大きく開けて笑っているようにも見えた。
 いつの間にかアイドルが歌う歌は終わり、研究室は静寂に包まれていた。静かな研究室に血の匂いが充満していた。しばらくすると、施錠されていたドアの鍵が開いた。遠くで救急車やパトカーの音が鳴っていた。
「じゃあ、私は行くわね。お疲れ様」浦沢はそう言うと、いつもの研究会が終わって帰っていくかのように研究室を出て行った。
 浦沢が研究室から出ていってから、新里兄妹は板垣と飯田を食い続けた。その恐ろしく残虐な光景を目の当たりにし、残された学生たちはただ呆然とそこに佇んでいた。


第九話「唾棄」

 新里亨が自宅で首を吊って、どのくらいの時間が経ったかはわからない。
新里摩耶が彼の自宅の部屋に入った時、彼はロフトへ上がる階段の上段に紐を括らせて、首を吊っていた。それを見た新里摩耶は台所にあった包丁を取り、ロフトへ続く階段を駆け上がって、包丁で新里亨が吊るされた紐を切った。紐が切れたと同時にドスンという音が部屋に響いた。
新里摩耶は兄の心臓の音を聞くために胸に耳を押し当てたが、心臓の音は聞こえなかった。彼女の心拍数はたちまちのうちに上がっていった。
彼女はすぐに救急車を呼んだ。電話をスピーカーに切り替え、新里摩耶は兄に跨り、心臓マッサージを始めた。体重を掛け胸をリズムよく押す。胸を押す度にカポンだとかポコンだという音が新里亨のどこからか鳴っていた。電話の向こうから聞こえる声に答えながら、彼女は心臓マッサージを続けた。一分も続けるうちに新里の呼吸も荒くなっていった。そして、彼女の額からはポタポタと汗が新里亨の顔に滴り落ちた。
まだ救急車は来ない。心臓を押す力が段々となくなっていくのを感じるが、兄を死なせるわけにはいかないと、彼女は必死に心臓マッサージを続けた。遠くで救急車の音が聞こえる気がした。
「お兄ちゃん、死んじゃダメ」新里摩耶は自分がこのまま倒れてもいいと思いながら心臓マッサージを続けた。時間が永遠に感じる。早く来い、救急隊。お兄ちゃんが死んじゃう。
ドンドンドンドンドン。新里摩耶がドアを叩く音の方に振り向くとすぐにドアが開き、救急隊が部屋の中へ入ってきた。
「代わります。心マ開始します。一、二、三、四」
 新里摩耶は救急隊と心臓マッサージを代わった瞬間に床へと倒れ込んだ。荒々してく呼吸をしている。
 別の救急隊は新里摩耶を心配する声かけをしながらAEDの準備を始めた。
「AED準備完了。服を脱がせてパットを貼り付けます」救急隊は手際よく、服を脱がせ、AEDの電極パットを胸に張っていく。
 救急隊による心臓マッサージは続けられていた。
「お兄ちゃん、死んじゃダメだよ」新里摩耶の目から涙が落ちる。
「受け入れ先が決まりました」外からもうひとり救急隊が叫んだ。
「それではこれから彼を病院に連れていきます。妹さんですよね」
「はい」
「では、一緒に救急車に乗ってください」
 救急車に乗せられた後も新里亨の心臓マッサージは続けられた。
 病院に到着すると看護師と医師が出迎え、そのまま新里亨は処置室へと入っていった。
「私たちはこれから消防署へ戻りますが、あなたは大丈夫ですか」救急隊のひとりが優しく新里摩耶に声をかけた。
「あ、はい。たぶん大丈夫です」
「お兄さん、きっと大丈夫ですから」そう言って救急隊のひとりは走って救急車へ戻っていった。
 しばらくして処置室から看護師と医師が出てきた。医師に一緒に処置室に来るように言われ、言われるがままに彼女は処置室に入った。
 新里亨は静かに眠っているようだった。
「命は取り留めました。しかし」医師が表情を曇らせた。
「後遺症が残ると考えられます」
「後遺症」
「はい。低酸素状態にあったことから低酸素脳症で意識が戻らないかもしれません」
「それって」
「俗に言う植物状態になる可能性があるということです」
「兄はこのままずっと眠ったままということですか」
「いえ、それはまだわかりません。これから治療を続けることで意識が戻ることも考えられます」
 その後、新里亨はICUに移された。ICUに彼が移ってすぐ、浦沢彩月が病院に到着をした。
「摩耶ちゃん」浦沢は新里摩耶を見つけるとすぐ駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「彩月さん、お兄ちゃんが」そういうと嗚咽を漏らした。

 新里亨は、ICUに入ってから数日後に、医師から意識が戻る可能性は低いと言われていたのにも関わらず奇跡的に目を覚まし、その後、一般病棟に移った。
 しかし、彼は目を覚ましたものの、以前の彼ではなくなっていた。身体の一部に麻痺が残り、また、まったく話をすることができなくなっていった。覚醒はしているが、常に虚な表情をしていた。まるで魂が抜けたというのだろうか。ただ、食事を出されれば食べることができるし、排泄も自分の意思で行うことができた。
浦沢彩月は時間を作って毎日病院を訪れ、出来る限り新里亨の看病を行った。それに加え、新里の妹の摩耶のことも心配だったこともあり、しばらくは一緒に暮らすことにした。ふたりの両親は既に亡くなり、親戚も昔から疎遠だったため、家族と呼べるのは、摩耶には亨、亨には摩耶しかいなかった。
その後、警察の捜査で外からの侵入者は特定できず、自殺未遂による事故ということで捜査は打ち切りになった。
 新里摩耶は兄の自殺の現場を見てしまったことで心に大きな傷を負ってしまったようだった。時々、突然泣き出したり、叫んだり、かと思うとぼんやりと長時間空を見つめていたりすることがあった。後に、医師からは心的外傷後ストレス障害と鬱病と診断された。
それから時間は経ち、梅雨が明け、蝉がけたたましく鳴いていた八月の昼間、新里摩耶は浦沢彩月に言った。
「復讐しませんか?」

 新里摩耶は「兄の亨が自殺をしました」と大学に伝えていた。ただそれだけを伝え、その後は一切大学とは連絡を取ることをしなかった。
 摩耶の思惑通り、大学は新里摩耶からの報告で、新里亨が自殺をしたことについて調査委員会を立ち上げた。摩耶と浦沢はその調査委員会が自殺の原因を突き止め、復讐をする標的を差し出してくれるものだと信じていた。しかし、大学が立ち上げた調査委員会が摩耶の自宅に郵送してきた調査の結果は到底彼女たちが納得いくのもではなかった。
摩耶と浦沢は送られてきた紙っぺら一枚の結果を見ながら、彼の自殺は隠ぺいされたのだと、彼女たちの中で燎原の火のごとく燃える怒りが湧き上がったのであった。

 浦沢彩月と新里亨が出会ったのはふたりが同じく修士二年の時であった。浦沢は当時、新里とは別の大学でてんかん発作についての研究に励んでいた。ふたりとも修士論文を書き始めた頃で、その論文の一部を学会で発表することになっていた。その学会でふたりは出会ったのだ。
浦沢はその時にはすでに博士課程に進むことを決めていたが、自分の研究の着地点がまだ定まっておらず、学会に行けば様々な研究を知ることができ、自分の研究の着地点のヒントがあるかもしれないと、学会に参加したのだった。
学会は論文を要約したものをA0サイズのポスターで発表するポスター発表や講義室などで行われる口頭発表が主になる。
浦沢は学会のプログラムに目を通し、どんな研究が発表されているのか確認をした。興味があるものにはチェックし、ポスターを見に行き、口頭発表もいくつか聞いた。しかし、自分の研究に繋がるものは見つけることはできなかった。浦沢が帰り支度をしようとしていると、背後から声をかけられた。
「すみません、この耳栓試してみませんか」振り向くと屈託のない笑顔で耳栓を両手で差し出す新里亨がいた。
「耳栓ですか。いえ、結構です」学会には福祉や医療関係などの業者の出店もある。浦沢はその営業だと思ったのだ。
「ちょっとだけでいいので話を聞いてください。これ、ただの耳栓じゃないんですよ」
「どう見てもただの耳栓じゃないですか」
「じゃないんですよ。聴覚過敏の研究から生まれたオーダーメイド式の耳栓なんです」
「感覚過敏。オーダーメイド式の耳栓。いよいよ怪しくなってきましたね」
「五分、いや、一分ください。説明します」そう言うと新里亨は聴覚過敏とオーダーメイドの耳栓について説明をした。
 浦沢は新里の説明を聞いているうちに、もしかすると自分の研究にも繋がるのではないだろうかと思い始めていた。
「私はてんかん発作に関する研究をしているんですが、てんかん発作はある音によって誘発されて起こることもあるんです。つまり、そのオーダーメイドの耳栓をてんかん発作がある人に使ってもらえば、てんかんを抑えられる可能性があるということですかね」
「確かに、その可能性は大いにありますね。すみません、この後ってお時間ありますか。ちょっと研究についてお話ししませんか。すぐポスターを片付けますので」
「はい、是非」
 こうしてふたりは出会い、その後、時々、お互いの研究の話をするためにふたりで会い、次第に研究以外でも会うことも多くなっていった。順調にお互いの研究も進んでいき、ふたりの関係も時間が経つに連れて親密になっていった。時々、新里摩耶も一緒に食事をしたり、研究の話しに加わったりすることもあった。
 新里亨は博士課程を修了した後、同じ大学でポスドク、つまり任期付で研究員を続けることになった。一方、浦沢は博士課程を修了し、他大学で准教授として新しい生活をスタートさせていた。それから約一ヶ月が経ったゴールデンウィークが開けた頃、新里亨は誰にも自分が抱える不安や苦悩を打ち明けることなく首を吊った。

 新里亨が自殺未遂をして半年が経った頃、彼が所属していた明和大学がポスドクの募集を開始したのを見計らって、浦沢彩月はすぐに板垣にアポを取った。するとすぐに面談の日通りが決まり、坂垣と会うことになった。
「あちらの大学さんにはすでに話をされているのですか」
「はい。板垣教授の下で研究がしたいということを伝えてあります」
「浦沢さんのような優秀な方が抜けてしまうとかなりの痛手ではないのでしょうか。私からも一方入れておきますよ。横の繋がりは大事ですからね」
「お手数おかけしまして、申し訳ありません」
「いやいや、とんでもない。あちらでは准教授をやられていたのに、こちらに来るとなるとポスドクという立場になってしまいますが、そこも大丈夫でしょうか」
「問題ありません」
 面談後、早々に大学から翌年度からポスドクとして研究に励むようにという旨の手紙が浦沢の元へ届いた。そして、浦沢彩月は准教授として勤務していた大学を辞め、新里摩耶と共に復讐の計画を開始した。
 浦沢彩月は、研究生という立場で次年度を待つことなく板垣の研究室に入れないかと申し出ると、すんなりと研究室へと入ることができた。浦沢は早く新里亨を自殺に追い込んだ人間を見つけ復習をしたいという欲に駆り立てられていた。
表では板垣と共に研究をしつつ、裏では新里亨の自殺の原因を探る生活が始まった。当初難航するだろうと思われた犯人捜しは予想に反して、すぐに板垣のパワハラやアカハラ、そして飯田によるいじめが新里亨の自殺の原因であることが明らかとなった。教えてくれたのは、後輩の面倒見が良い久保田聡であった。
 久保田は研究室のルールや、板垣の機嫌の取り方、各学生の特徴など、そして最後に新里亨のことを教えてくれた。
「修士二年の時だったかな、なんか急に新里さんオシャレとかに気を使うようになったんですよ。それで気になって聞いてみたら、顔を赤くして真面目な顔で『恋をした』って言ったんですよ。そんなこと普段言わない人だからなんか笑っちゃって。そしたら笑うなって怒られましたけどね。それから時々、新里さんにその恋の行方を聞くようになったんですよ。当時、その相手の方とは結婚を考えていると言っていました。でも、博士課程に行くことになって結婚を諦めなきゃいけないかもと悩んでいましたね。本当は修士課程が終わったら教員に戻って、その方と結婚をしたいと考えていたみたいで。でも、板垣教授に博士課程に行くよう言われてしまったから。新里さん、そういうのうまく断れない人なんですよね。人がいいんですよ、ほんと。それで、博士課程に行ってからはなんか様子が段々と変わっていったんですよ。新里さん、自分の研究とかで忙しいのに、他の学生の研究もやっちゃうんですよね。言い方があれですけど、新里さんの性格を利用して特にこき使ってたのが飯田智子でした。彼女のデータの集計、解析、論文の校正とかを新里さんがやっているのをよく見かけました。それでたちが悪いのが、新里さんがミスをしたりすると罵声を浴びさせたり、ひどい時にはマウスとか新里さんに投げたりしてましたからね。一回、僕も飯田に注意をしたんですよ。それで一旦はそういうことはなくなったんですけど、しばらくするとまた今度は陰でこそこそやるようになったんですよ。それは後から僕も知ったんですけどね」
 一方、板垣は飯田以上に新里を奴隷の如く酷使していたようだった。板垣の仕事の雑用から始まり、研究データの収集、解析、仕舞いには論文の執筆までもすることもあったようだった。まるで論文のゴーストライターである。ゴーストライターなだけに論文執筆者名に新里の名前は載ることはなかった。まさに骨折り損だった。
他にも、相談室で相談員としての業務も新里は任されていた訳だが、新里が受け持つクライエントは板垣や他の相談員が手に負えず、一癖も二癖もある者を彼が担当させられていたのだ。面談中に罵声を浴びさられることもあれば、暴力を振るわれることもあった。クライエントからクレームが入ると、板垣に呼び出され、長時間に渡って叱責を受けることもあったのだ。それでも新里は自身の研究に寝る間も惜しんで取り組んだ。新里がそこまで努力をして博士論文を書き上げようとした背景には結婚を考えていた人がいたからであった。そう、それは言うまでもなく、浦沢彩月のことであった。博士課程という長いトンネルの先に光が見えていたからこそ彼は心身を摩耗させながらも研究を続けたのだ。

 明和大学で博士課程を修了するためには、必要な単位を取り、博士論文を書き上げ、それを受理され、そして審査に通らなければならない。
 博士論文は大抵いくつかの研究がまとまったものが博士論文になる。
 博士論文を大学に受理されるためにはいくつか条件があった。まず、学会誌に論文を最低でも三つ掲載されること。もうひとつは、学会で研究もひとつ以上発表することであった。
学会誌に論文を掲載されるには、論文の査読、つまり審査が必要になる。その審査が通過するまでに一年も掛かることもある。そうなると三つの論文を学会誌に掲載するとなると、同時進行で異なる研究を進めていかなければ、三年という期間で博士課程を出ることはできないのである。博士課程に在籍する学生は四年生や五年生は当たり前のようにいて、明和大学では最大で七年まで博士課程に在籍することができるが、それを過ぎると除籍になってしまい、それまで積み上げてきた研究は水の泡となってしまうのだ。
 無事に論文を学会誌に掲載されると、今度はそれらの研究を博士論文としてまとめ、大学の審査を受けることになる。それが通って漸く博士課程が修了となるのだ。
 新里亨は見事三年で博士論文を書き上げ、地獄のような毎日から抜け出せると安堵した。
彼は大学で研究をしていく中で大学で働くこと、つまり、研究を続けながら学生たちに教鞭を取ることにも興味を持つようになっていた。彼は博士論文を執筆する傍ら、他大学の採用試験を受けていた。大抵の大学の採用試験には指導教官の推薦状が必要であった。坂垣にその推薦状を依頼する訳だが、彼は決していい顔はせず、必ず小言と共に推薦状を新里に渡した。
 新里は忙しい合間を縫って面接を受け続けたが、卒業までにひとつも内定をもらえた大学はなかった。いよいよ、卒業目前となった頃に板垣から呼び出しがあった。新里はため息を付き、板垣の研究室へと向かった。
話しの内容は要は大学にポスドクという立場で残れというものであった。新里は「わかりました。四月からまたよろしくお願いいたします」とだけ言い、研究室を後にした。研究室を出ると廊下は暗く、廊下の先を見たが、その暗闇は永遠に続いているように彼には見えた。
 新里亨の遺書などはなかった。しかし、生きる意味などない絶望を感じ、自殺を選んだことは確かな事実であった。

 浦沢は明和大学に移る前から自殺願望を抑制する新薬開発プロジェクトの主要メンバーであった。彼女はてんかん発作に関する研究をしていたが、てんかん発作がある人は鬱の症状が多くあると報告があることから、彼女はてんかん発作と鬱病の関連性に焦点を当てた研究をしていた。それらの関連する論文が評価され、プロジェクトのメンバーに選ばれたのだった。
このプロジェクトは総理大臣の直々の要請でもあった。
総理大臣である緒方龍太郎は鬱病を患っており、いくつかの抗うつ剤で治療を行ったが、良くなるばかりか、日に日に悪化していった。何よりも死にたいと考えてしまうこと、つまり自殺願望が彼を苦しめた。彼はその辛さを実感し、彼と同じく自殺願望を持つ人たちを救ってあげたいと新薬開発プロジェクトを立ち上げたのだった。
彼は服薬治療と共にカウンセリングを受けていたわけだが、そのカウンセリングを担当していたのは、臨床心理士でもある浦沢彩月であった。浦沢はカウンセリング中に彼と死にたいと考えてしまう原因について話をすることに時間を費やし、総理大臣の懐に入り込んでいった。やがて、浦沢は総理大事から絶大なる信頼を得て、やがてプロジェクトのリーダーとなった。

 浦沢彩月が研究生として、板垣の研究室に入った頃にはすでに飯田が新里亨の研究を引き継いでいた。浦沢が初めて参加した研究会で、あたかも飯田が初めから自分がやってきたこととして、研究発表しているのを見た瞬間は吐き気を催した。浦沢は彼らの弱みを握るまで、そして彼らを自分の手の中で転がせるようになるまでは大人しくしておこうと考えていた。
 浦沢は板垣と飯田の弱みを握るために独自の調査を始めると、すぐに板垣と飯田が不倫関係にあることがわかった。
板垣と飯田に顔が割れていない新里摩耶はふたりを尾行し、ホテルに入っていくところを写真に撮った。そして、それを板垣の自宅に送りつけた。
間もなくして、板垣は離婚が決まり、療育費と慰謝料の支払いを命じられた。飯田も同様に慰謝料の支払いを命じられた。本来ならば、指導教員と学生の不倫が明らかとなれば、板垣は懲戒免職、飯田は退学となるわけだが、ふたりは何事もなかったかのように大学に残っていた。大学側がふたりの不祥事を内内で処理したのだ。その便宜を図ったのは浦沢であった。そんな生温い罰でお前たちの罪は許される訳はないと彼女は次の計画に移った。

 浦沢は板垣と飯田が進めている聴覚過敏の研究が自殺願望を抑制する新薬開発に必要なのだと学長に論じ、彼らが大学からいなくなれば明和大学からノーベル賞を出せるチャンスを逃すだろうと諭したのだ。その後、板垣と飯田は浦沢の推薦で新薬開発プロジェクトのメンバーとなった。こうして浦沢はふたりにとって頭が上がらない存在とあった。
 板垣と飯田は浦沢の命令通りには新薬の開発に携わった。ふたりはこのような光栄なプロジェクトに参加できるなんてと浮かれ、そして、もしこのプロジェクトがうまくいけば、大金が入るかもしれないと心躍らせていた。どこまで阿保なのだと、浦沢は嘲り笑った。

 てんかん発作は脳内の電気信号が何らかの原因で同時に過剰に発生すると、その部位の脳の機能が乱れ、脳は適切に情報を受け取ることや命令ができなくなり、体の動きをコントロールできなくなる。また、てんかん発作は音や光で誘発されることがあると言われている。つまり、ある特定の光を見たり、音を聞いたりすることでてんかん発作が現れることがあるのだ。
 聴覚過敏の研究をしていた新里亨は聴覚過敏がある人たちが不快と感じる音のデータを収集していた。その中で、不快な音と感じる音は人それぞれ違うという結果が導きだされた。研究は順調に進んでいたかのように思えたが、ある実験の時に事故が起きた。その実験に協力をしてくれた成人男性の中でてんかん発作を持っている人がいたのだ。ある周波数の音を聞いた途端にその男性は身体を硬直させ、眼球が左方を向き、次第に手足が小刻みに震え出したのだ。新里は驚き、すぐに装置を止めた。するとすぐに彼の発作は消失した。
その男性は実験協力前に提出する情報提供書にてんかん発作があることを書いていなかったのだ。本来であれば、てんかん発作がある人には実験を行ってはならないという倫理規定があったが、情報提供書に記載がなかったことでこのような事故が起こってしまったのだった。
この事をてんかん発作の研究している浦沢彩月に伝えると、「当事者の男性は辛い思いをしたけど、これは奇跡的な発見かもしれない」と彼女は言った。
 浦沢彩月はその時のデータを見せてくれないかと新里に頼んだが、新里は「それはさすがにできない」と断った。

 新里亨が自殺未遂をし、彼の研究が板垣と飯田が引き継いでいると知った浦沢は、明和大学に移り、板垣と飯田を新薬開発プロジェクトに招き入れた。そうすることで新里亨が残したデータをなんの不正もなく見ることができるようになったのだ。
 浦沢は本来は彼が偶然発見したてんかん発作を誘発する周波数の音のデータは、てんかん発作を抑えるための研究に利用するつもりだったが、新里亨が板垣や飯田による壮絶な虐めが原因で自殺を図ったと知った彼女は、そのデータを復讐のために使おうと強く決心したのだった。

 新薬の開発は基礎研究、非臨床試験と順調に進んでいった。次の工程は治験と言われ、実際に被験薬を人に投与し、その有効性と安全性を確かめるのである。これには複数のプロセスがあり、まず、少数の健康な成人を対象にした「第一相試験」、次に少数の患者を対象とした「第二相試験」、最後に多数の患者を対象に大規模に試験を行う「第三相試験」がある。第二相試験時に、ライブハウスでの人が人を食う事件は起きたのだ。

 その事件の二ヶ月前の深夜、古着屋の店長である元橋玄と新里摩耶は高円寺のパル商店街を歩いていた。
 新里摩耶は浦沢彩月の指示で元橋玄に近づき親しくなっていた。それは、彼に人が人を食うように覚醒をさせる曲を作ってもらうためであった。
 新里は、ある日元橋に自分の知り合いが曲を作ってほしいと言っているから作ってくれないかと持ち掛けた。元橋はそれを可愛い彼女のお願いを断るわけにはいかないとあっさり受入れた。
 数日後、元橋の自宅ポストに封筒が届いた。その中身を確認すると札束と手紙が入っていた。手紙には『ここに書かれてある周波数で曲を作ってください。それから、間奏のところで必ずこの音で不協和音を入れてください』そう書かれてあった。

「曲作りは進んでる」
「もうちょいだね。あとは、わざとあの不協和音を曲の中に入れるっていうのがなかなか難しくてさ。違和感なく仕上げないといけないからさ」
「そこが重要だからよろしくね」
「変な注文だよな。そんな気持ち悪いことわざわざ曲の中に入れるなんて。それにどんな人たちがこの曲を歌うかも先方は教えてくれないんだろ」
「玄ちゃんはそんなこと気にしなくていいの。言われたことをやってればね。いいお金もらってんでしょ」
「それ言われちゃうとなぁ。でも紹介してくれてありがとな。また曲作りができて楽しいよ」
「レコーディングはやっぱりカナダに行くの」
「そうだな。あいつの力がないとこの曲は完成しない気がするんだよ」
「バンドって解散した後もそうやって続いてるんだね」
「バンドっていろんな解散の仕方があるんだよ。おれもたくさんのバンドが解散するところを見てきたよ。メンバーたちが仲悪くちゃって解散するのもあったし、ヴォーカルだけメジャーデビューするから解散したバンドもあったな」
「玄ちゃんのところはどうだったの」
「おれたちは、おれが古着屋やりたくなったから解散したの」元橋は笑いながら言った。
「うそでしょ。ほんとはなんで解散したの」
「摩耶と出会ったからだよ」
「ちょっと! ちゃんとほんとのこと言ってよ」
「また今度な。で、今日は泊まっていくのか」
「うん」
 新里摩耶と元橋玄は腕を組み新高円寺の方へ歩いていった


第十話「不協和音」

 飛行機から降りると、その国の匂いがまず人の感覚に「ようこそ」と挨拶をする。
 元橋玄はいつも飛行機を降り、ボーディングブリッジを抜けたところでドーナツの甘い香りとコーヒーの香ばしい匂いを嗅ぐ。彼はそこでバンクーバーに来たと実感するのであった。
 入国審査を終え、バンクーバー国際空港の外に出ると北隅由紀夫が出迎えてくれた。
「久しぶり。でもないか。いつもわりなぃな」
「飛行機の中で何回クソした」
「毎回それ聞くよな。三回だよ」
「しすぎだろ」北隅はゲラゲラと笑いながら言った。
「スタジオはちゃんと抑えてんだろうな」
「とりあえず、一週間はスタジオ抑えてあるよ」
「やる気漲ってんじゃん」
「これからどうする」
「映画三本も見ちゃったしな。今日は一日ゆっくりして、明日からのレコーディングに備えたいところ」
「だな。クソも三回したしな」そう言うとまた北隅はゲラゲラと笑った。
「笑いすぎ。夕飯どうする今日。気分的には北隅の家でゆっくりって感じだけど」
「じゃあ、ヤオハンで食材買って帰るか」
 バンクーバー国際空港から車を数分走らせれば、目的地のスーパーマーケットのヤオハンに到着する。
空港からヤオハンまでの道のりで、また新しい中華系のショッピングモールが出来たなとぼんやりと元橋は車の窓から流れる景色を眺めていた。
 ここリッチモンドという町の人口の八割は中国人だと言われている。それは言い過ぎだろうと思うが、実際に街中を歩いてみると、どこを見ても中国人ばかりだった。それを象徴するように中華系のショッピングモールやレストランがやたらと多い。元橋は初めてリッチモンドに来た時になんでこんなに中国人が多いのかと、北隅に聞いた。
 もう二十年以上も前の話らしいが、と北隅は教えてくれた。

 香港が中国に返還される直前に返還に反対した人たちが多くいたらしい。香港が中国になるくらいなら他の国に移住した方がましだと一部の返還反対派が占いで移住先を決めたという。それがカナダはブリティッシュコロンビア州のリッチモンドだった。彼らは占いに導かれるまま、リッチモンドへ移住をしてきた。
 リッチモンドに住んでみると、そこが彼らにとってすばらしく居心地の良い場所となり、それが遠く離れた香港にも届き、その後、続々と香港から移住してくる人たちが増えていった。リッチモンドの街のすばらしさは香港だけに留まらず中国本土にも届き、そこからの移住者、特に富裕層たちがリッチモンドへ移住してきたのだ。彼らはリッチモンドを拠点とする会社や土地を買収し、現在のリッチモンドの姿へと変えていった。
 中国人たちがリッチモンドへやってくる前は実は日本人が多くこの街にいたのだという。リッチモンドの南に位置する港街、スティーブストンがかつては日本人タウンとして賑わっていた。その名残か、スティーブストンには日系人の経営する会社や、日本語で書かれたスーパーが未だににある。
 北隅に連れられて、スティーブストンにフィッシュアンドチップスを食べに行った時に、その話を聞き、元橋はなぜか悲しい気持ちになった。かつてここは日本人が多くいた港街だったが、今はその面影が僅かに感じられるだけであったからだ。
 ヤオハンもかつては日本の企業が運営をしていたが、いつのまにか台湾の会社に買収され、元々日系のスーパーだったという面影は、今は食品エリアの寿司コーナーに感じられるほどだった。

 元橋と北隅はヤオハンで酒と手間がかからなそうな食材を買いこみ、北隅の自宅へと向かった。
「今回はどのくらい滞在するんだ」北隅はハンドルに握りながら聞いた。
「二週間くらいだな」
「店は大丈夫なのか」
「優秀な大学生が店番してくれてるよ。ちょうど夏休みも入るみたいでさ。そいつさ、八十年代の映画とか雑貨が好きでさ。日本じゃ買えないグッズを買ってきてくれるならっていう条件で店番を頼んできた」
「いいバイトの子見つけたな」
「でも、その学生が気に入ってるうちの店に来る客と俺できてんだけどね」
「はぁ? お前もえげつないことするな」
「いや、あっちから言い寄ってきたからさ。その後に、その学生バイトくんがその子のことを気にしてるってわかったからセーフ。まだおれたちのことはバレてない」
「なにがセーフかわからんけど、うまくやれよ。今の若い子は怖いからな」
「レコーディングが終わったら、ロブソンかグランビルアイランドにでも行って、あいつがほしがってるもの探してくるよ」
「それで罪滅ぼしにはならねぇけどな」

 予定通り、翌日からレコーディングが始まった。レコーディングはバンクーバーのダウンタウンにあるウエアハウススタジアにて行われた。スタジオにふたりが到着すると、既にレコーディングの演奏を依頼していたベースのブライアンとドラムのショーンがソファーに座り、コーヒーを飲みながら談笑していた。英語をほぼ話せない元橋は軽い挨拶だけは自分でし、その後のレコーディングの流れなどの説明は北隅に話してもらった。元橋が日本で作ってきた音源と楽譜はすでにメールで北隅に送ってあり、それをブライアンとショーンは受け取り、もう今すぐにでも録れるぞと、意気込んでいた。
 ブライアンのベースとショーンのドラム録りはあっけなく終わった。さすが高い金を払っただけはあると、元橋は関心をした。ふたりのレコーディングをしたものをエンジニアと一緒に確認していると、「じゃあ、またな」と言い、ふたりはそそくさとスタジオを出て行ってしまった。元橋があっけにとられていると、レコーディングエンジニアと北隅がうなるほど完璧な演奏だと感嘆な声を漏らしていた。
「すごいな彼ら」元橋が感激したように言った。
「やっぱり、お金を出せばそれに見合った人たちが来るんだよ。よくあんな金出せたな。そんなに儲かってのか、古着屋」
「いや、俺は一切出してないよ」
「え、じゃあ誰が出してんだよ」
「出所はわからん。俺の彼女づてで依頼が来て、ある時、自宅のポストに楽曲のイメージが書かれた紙と札束が入った封筒が入ってた。差出人はわからなかった。そこまで気にすることないかっておれも思って、それ以上は考えないことにしたよ」
「なんか怖いな。誰が歌うのかもわからない。何のために作られるのかもわからない。そして、間奏で不協和音を入れろと」
「そういうこと。じゃあ、次、よろしくな」
「かましてくるわ」北隅はそう言うとギタースタンドに立てかけてあったテレキャスターを手に取り、レコーディングブースへと入っていった。
 北隅がブースに入ったことを確認すると元橋はエンジニアに「外に出て来る」とジェスチャーで伝え、スタジオを出た。
 北隅と日本でバンドを組んでいた時も同じように、レコーディングで彼がブースに入った後、元橋はスタジオの外に出ることが多かった。北隅のレコーディングは時間がかかるからだ。当時から彼は何をやるにも完璧を求める男だった。
 元橋はスタジオを出るとスマホを取り出し、地図アプリを起動して、ウォーターフロントステーションを目指し、歩き出した。
 パウエルストリートを進み、ウォーターストリートに入る。パウエルストリートにもレンガ作りの建物がちらほらと建ち並んでいるが、ウォーターストリートに入るとそれらは急に多くなり、現代とは思えない雰囲気を味わうことができる。そこはリッチモンドと異なり、多くのカナディアンたちとすれ違う。
 お昼近くの時間ということもあり、路面に面するレストランやカフェでは店内やテラスでランチを楽しむ会社員風の人たち、観光客、この辺りに住んでいるのであろう老夫婦の姿が見られた。不思議とどの人たちも幸せそうに見えた。
ウォーターストリートをさらに進むとギャスタウンで有名な蒸気時計が姿を表す。蒸気時計の周りでは観光客たちが集まり、熱心に写真を撮っていた。
ウォーターストリートを抜けると大きな通りに出て、バスや車の通りも多くなる。そして、右手に目的地のウォーターフロントステーションが見えてくる。
 元橋は北隅から渡されていたコンパスカード、日本で言うSuicaのようなものを使い、シーバスへと乗り込んだ。シーバスというのはバンクーバーのダウンタウンからノースバンクバーまでを結ぶフェリーのことだ。ウォーターフロントステーションからノースバンクバーまでは約十二分の船旅だ。この時間の乗客は観光客が多い。聞こえてくる言語が様々だ。
 シーバスを降りるとすぐに、バス停があり、そこから元橋はキャピラノサスペンションブリッジを目指した。バスは山の中を登って行き、二十分程度でキャピラノサスペンションブリッジの最寄りのバス停に到着した。
 元橋はバスを下車するとすぐに、深呼吸をした。森の香りが彼の鼻腔を通って肺に達すると、自然と肩の力が抜けた。
 元橋はバンクーバーに来ると必ずここへやってくるのだ。ここに来るとなぜか心が安らいだ。日本にも同じように心が安らぐ場所がある。東京なら吉祥寺の井の頭公園、遠くまで足を伸ばすなら、沖縄の平和記念公園がそれにあたる。元橋はそこへ必ずひとりで行く。そこで自分のことを考えることもあるし、友人や恋人のこと、それから家族のことを考えることもある。カナダに来れば、どうしても北隅のことを考えてしまう。
 元橋は入場料を払い、キャピラノパークの中へ入った。毎回出迎えてくれるトーテンポールに挨拶をし、カフェでコーヒーを買い、ちびちびとそれを飲みながらパーク内を散歩した。
 まず、北隅が元気そうでよかったと安堵したところから元橋の思考は始まる。平日の昼間ということもあり、パーク内は人が少ない。遠くで人が会話をする声や吊り橋を渡っているのだろう、楽し気な叫び声も聞こえる。それよりも、風で木の葉同士が擦れる音や吊り橋の下を流れる川の音の方がよく聞こえる。

 元橋と北隅がバンドを組んだのは九十年代後半の頃だ。ちょうどハイスタンダードを筆頭に、メロコア、スカコア、ハードコア、ミクスチャーと言われるバンドがたくさん出てきて、後にエアジャム世代と言われる時代だった。
 元橋と北隅は当時同じ大学に通い、元橋は文学部、北隅は政治経済学部に所属し、大学の授業が終わると、ふたりは軽音楽サークルでバンド活動に精を出していた。
 元橋はベース、北隅はギター、ドラムは法学部の片桐良太、ヴォーカルは商学部の綿引俊太、この4人でバンド活動を行っていた。バンド結成のきっかけは皆同じバンドが好きだったことだった。
最初はそのバンドのコピーをやっていたが、次第に元橋がオリジナル曲を作りたいと思うようになり、ある日突然、元橋がどこか決まりが悪く部室に入って来るや否や「オリジナル作ってきたんだけど」とメンバーの顔を見ずに言った。それを聞いた他のメンバーたちは「聞かせろ!」「早く!」とまくし立てた。
 元橋は「わかったわかった」と言い、北隅のギターを借り、コードの上にただ歌詞のないメロディーが乗ったものだったが、その演奏が終わると、メンバーが顔を見合わせ急に笑い出した。元橋は「なに笑ってんだよ」と予想外の反応に困惑しながら言った。
「すご過ぎて笑った」
「お前、天才かよ」
「すぐに形にしようぜ」
 メンバーたちの意外な誉め言葉に元橋はどう対処していいものかと考えていると、メンバーたちはそそくさと音を出す準備を始めた。
「ほら、お前もベースのセッティングしろよ、早く」北隅は元橋からギターを取り返し言った。
 その日からオリジナル楽曲の制作が始まった。しかし、最初に躓いたのは、歌詞だった。歌詞も元橋が書いてきたが、他のメンバーや元橋自身もどうもしっくりときていないなと感じていた。メロディーはいいが、そこに元橋が書いた歌詞を乗せると急に安っぽくなったり、ダサくなったり、要するにせっかくの良曲をダメにしてしまうのだった。
 そんな歌詞作りに煩悶する日々を過ごしていたある時、今度は北隅が俯きながら部室に入って来る否や、「歌詞書いてきた」とメンバーの顔を見ずに歌詞の書かれたA4のコピー用紙をメンバーに渡した。
 歌詞を読んだメンバーたちは顔を見合わせ、あの時と同じように笑い「また一人天才がいたよ」と笑いだした。
 それから曲は元橋、歌詞は北隅が担当することになった。コードとメロディーを元橋が持ってくると、まずバンドで合わせて曲を作ってしまう。曲を作っている最中に北隅は曲にあった歌詞を考え、メロディーに乗せていった。
 そんな風に曲作りをしていくうちにあっという間にアルバムを作れるくらいの曲数が完成していた。しかし、まだ誰にもそれらの曲を聞かせたことがなかった。皆、自分たちでも最高の曲を作ったと自信を持っていたが、他の誰かに聞かせることについてはどこか積極性が欠けていた。
バンドのメンバーたちは全員学年が一緒で三年になったばかりだった。就活や卒論のことを考えると、バンド活動ができるも残り僅かだと皆気づいていた。メンバーの誰かが皆が望んでいる言葉を言い出すのを待っていった。
「外でライブをやろう」そう言ってくれたのはヴォーカルの綿引だった。綿引は就活の次期になれば就活をし、卒業後は普通に会社員として働くことを考えていた。だから、やるなら今しかない。そう思っていた。
「やろう」他のメンバーたちは即答だった。そして、作戦会議に入った。
「おれたちは今、十二曲のオリジナル曲がある」北隅には考えがあるようだ。
「そうだな」外のメンバーたちは頷いた。
「ライブをする前に、音源を作った方がいいと思うんだ」
「アルバムを作っちゃうってこと」驚いたように片桐が言った。
「いや、二曲入りのシングルを作る。それを持ってライブハウスに行くんだよ。ただの学生バンドとしてライブハウスに行けば、きっとただの学生バンドとして認識をされて、適当な日に適当なバンドと対バンを組まされることになると思う。そうなるとライブハウスに俺たちがお金を払ってライブをすることになる」
「え、そうなの」言い出しっぺの綿引が面を食らって言った。
「だから渾身の二曲、まずは自分たちでレコーディングして、それを持ってライブハウスに売り込みに行くんだよ。ライブハウスのブッキング担当がもし俺たちのことを気に入れば、出てくれとあっちからオファーが来るかもしれない。かもしれないじゃない。俺たちの曲なら必ずオファーは来る」
 北隅の力説に圧倒されながらも、他のメンバーたちは北隅の言葉に自信をもらった。
 レコーディングは綿引が見つけてきた吉祥寺にあるリーズナブルなレコーディングスタジオで行われることになった。
 やはり、人生で初めてのレコーディングということもあり、皆緊張をしていた。元橋はスタジオに入ってからひたすらタバコを吸い続け、北隅はスタジオ内を意味もなくうろつき回り、片桐はポケット六法の著作権法の部分真剣に読み、綿引は持参したハーブティーをちびちび飲んだり、「はっはっはっは」とか「あめんぼあかいなあいうえお」とひとりで発声練習をしていた。
 そんな風に各々で初めてのレコーディングの緊張感を味わっていると、エンジニアさんからお呼びがかかった。
「最初はドラムからで大丈夫ですか」
「はい大丈夫です」片桐の声は上擦っていた。
「一曲目のクリック音のBPMは百八十で大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
「イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、間奏、Aメロ、サビ、間奏、サビ、アウトローの順に区切ってレコーディングしていきますね」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、じゃあよろしくお願いします」
「はい、大丈夫です」しか言わない片桐は緊張の面持ちでレコーディングブースへ入っていった。
 他のメンバーたちはエンジニアさんがいる部屋で待機し、片桐の演奏を見守った。
 最初は緊張からミスがあったが、ドラムを叩くうちに徐々に緊張がほぐれたのか、いつもの片桐のリズムがメンバーたちが待機するモニタールームに響いていた。その後、順調に演奏が進み、二時間程度でドラムのレコーディングは終わった。
 次はベースのレコーディングである。元橋はタバコを一本吸って、ブースへと入っていった。
 片桐と同じように最初は緊張が演奏に影響していたが、元橋も徐々にいつものペースを取り戻していった。無事、レコーディングが終わると、倒れこむようにモニタールームのソファーに「あー疲れた」と言いながらもたれた。
 次はギターのレコーディングであった。これが思いの外、時間がかかった。結果的に、この日は二曲のレコーディングをする予定だったが、一曲しかレコーディングができなかった。理由は北隅の音と作品へのこだわりが出たからだった。セッティングから彼が望む音が出ず、時間がかかり、レコーディングが開始してからも何度も彼が納得いかない演奏だった場合はやり直した。
 漸く、ギター録りが終わり、そしてヴォーカル録りも終えたのは、レコーディングが始まってから約十四時間後の夜の十一時であった。予定では、一日で二曲を録り終えるはずだったが、二曲目のレコーディングは翌週へと持ち越されることになった。メンバー全員が疲労困憊という状態だったが、エンジニアさんの言葉でその疲れはどこかへ言ってしまった。
「君たち学生だよね。曲作ったのは誰」
「僕です」元橋は遠慮気味に答えた。
「すごくいいセンスしてる。ライブで聞きたいと思った。歌詞は」
「俺です」北隅は少し得意げな表情をして答えた。
「歌詞もいいよ。聞いてて心地いいし、なんかメロディーに乗った歌詞が、ちょっと陳腐な言い方かもしれないけど、心を掴んでくるような感じ。ドラムとベースもリズム感最高にいいし、ヴォーカルの声が何よりいい」
 元橋たちはスタジオを出ると、今にも四人で肩を組んでスキップしをしたいようなそんな衝動に駆られていた。
 翌週、レコーディングは前回の経験もあり、前回よりはスムーズにレコーディングをすることができた。レコーディングを終えた時にエンジニアさんに「ライブの時は教えてよ。あと、アルバム作る時はまた来てよ。また一緒に作りたい」そんなうれしい言葉をもらい四人は次のステージへと向かった。
 レコーディングが終わり、二曲入りのシングルが出来た。四人とも納得のいく物が出来上がったと思っていた。四人はマスター音源を手に高円寺にある元橋の家に向かった。出来上がった音源を四人揃って一音一音確認するかのように熱心に聴いている時にふと、片桐が言った。
「バンド名どうする」
他のメンバーは虚をつかれたような表情をした。
「忘れてたな。バンド名なきゃCDのジャケットも作れないし、おれたちはただのバンドだ」北隅はそう言うと腕組みをし、バンド名を考え始めた。
他のメンバーは歌詞を書く北隅があっさりとバンド名を出してくれるだろうと思っていた。しかし、彼が沈思黙考し始めて一時間が経ってもひとつもバンド名が彼の口から出てこないことで、他のメンバーたちが不安に思い始めた頃、彼がようやく口を開いた。
「だめだ。推敲すればするほど底なし沼に沈んでいくみたいだ」
「じゃあ、みんなで出し合って決めよう」片桐がそう言うと、四人とも黙り、空を見つめ バンド名を考え始めた。時々、メンバーの誰かが他のメンバーの様子を横目で見ては様子を伺い、誰かが最初の口火を切るのを待っているかのようだった。その間、元橋は幾度となく腹を押さえながらトイレに行った。トイレからすっきりしたような表情で戻ってきたと思えば、その十分後にはまた腹を押さえ、トイレに戻った。彼が五回目のトイレからの生還の時に綿引が言った。
「腹、大丈夫か。元橋はよく腹壊すよな」
「そうなんだよな。一回病院で診てもらったことがあるんだけど、ストレスを感じるとお腹を壊す傾向があるって言われた」
「へぇ、ストレスとかでとお腹壊すことがあるのか。変なもん食べたとか、お腹が冷えたとかで下痢になるって思ってたな」綿引は、自分が下痢になったことを思いだしながら言った。
「ストレスで下痢になるのか。じゃあ、そのストレスは下痢となって、元橋の身体から排出されるのか」北隅は歌詞を書いている時にふと何かが降りてきた感覚をその時に感じた。そして、徐に立ち上がり部屋に転がっている英語の辞書を拾い上げて、パラパラとページをめくり、なにかを探し始めた。
「いや、ストレスが排出されるかはわかんないけど、すっきりはするわな、当然」
「The Runs」北隅は不意にそう言った。
「ザランズ」片桐がそれを繰り返して言った。
「バンド名か」綿引が北隅に問いかけた。
「そう」北隅の眼の奥には決意の色が浮かんでいるようだった。
「どういう意味。ランて走るって意味だよね」元橋が腹を摩りながら言った。
「下痢って意味」
 それを聞いた他のメンバーはお互いに顔を見合わせて、そして堰を切ったかのように笑いだした。
「シンプルでいいよ」
「パンクっぽい」
「臭そうだな」元橋は眉間に皺を寄せながら言ったが、口元は笑っていた。
「聴いててわかると思うけど、おれが書く詩って世の中の不条理なこととか、理不尽なこととか、生活の中で感じるストレスとかそういうことを書くことが多いじゃん。おれはそういう世の中の変なところを曲に乗せて伝えたいと思ってるの。要はそういう世の中のクソみたいなことを曲で吐き出してるわけ」
「まさにピッタリだな」元橋は合点がいったように言った。
 それから数日後には、The Runsは自分たちでパソコンでデザインをしたシールをCDに貼り、更にCDのジャケットも自分たちで作った。
 それを持って、下北沢、高円寺、初台、渋谷、新宿周辺の有名どころのライブハウスに四人で乗り込んで行った。
 数日後、元橋がお茶の水駅を出て信号待ちをしていると、下北沢のSHELTERのブッキング担当で、浦沢と名乗る男から元橋の携帯に電話がかかってきた。
「The Runsの人」
「はい、ベースの元橋です」元橋は正直なところ驚き、そして期待をしていた。
「元橋くん、いいよ、君たち。曲、何曲ぐらいあるの」
「十二曲あります」
「よし、じゃあ企画組むからライブ出てよ」
「あの、出演料とかは」
「んなもんいらないよ。こっちから出てって依頼してんだからさ。三バンドぐらいで調整するから、持ち時間は五十分ね。で、日時はそうだな。来月の末、ならまだ大丈夫だな。オッケーオッケー。時間は十七時開場、十八時時開演でいいな。リハは十二時からね。出演の順番は他の二バンドが決まったら、また連絡するよ。それでいい?」矢継ぎ早に浦沢は言った。
「あ、はい。大丈夫です」
「オッケー。じゃあ、また連絡するから。本番まで仕上げてきてね」
「わかりました。ありがとうございます」
 電話が切れて、しばらく元橋は呆然とお茶の水駅前の横断歩道の前で立ち尽くしていた。信号が何度も変わり、元橋の横を通り過ぎていく人たちは不思議そうに彼を見つめてた。
 はっとして、元橋はメンバーにメールを送った。
「SHELTERで来月末ライブ決まった! 3マンだって!」
 返信がすぐ帰ってきたのは、北隅だった。
「まじか! あのSHELTERでライブデビューかよ!」
 しばらくして、片桐と綿引からも驚きと嬉しさが混じった返信があった。
 元橋は授業があったが、その興奮からまったく授業の内容は頭に入ってこなかった。
 SHELTERというライブハウスはThe Runsのメンバー全員が憧憬の念を持つバンドたちがPVで使っていたり、もちろんライブを幾度となくやっているライブハウスで、SHELTERでライブができることが、四人にとって僥倖であることは間違いなかった。
 The Runsの初ライブは八月の最終週の金曜日の夜に決まった。
 八月には大学も完全に夏休みに入り、The Runsはほぼ毎日、ライブに向けた練習を重ねた。
それは曲選びから始まり、曲順決め、曲と曲との繋ぎのアレンジの練習、MCの内容と意外にもライブまで時間が足りないのではないかとメンバーたちは思うこともあった。というのも、完璧を求める北隅が時々、他のメンバーを困惑させることがあったからだ。時には口論になることもあった。そんな口論なんてしてる場合ではないと誰も思っていたが、北隅は自分が納得いくまでライブの構成、演出にこだわった。そんなことがあっても顔を合わせ、音を重ねていくうちにバンドはひとつになっていくような感覚を皆、感じていた。
 そして、いよいよ初ライブの日がやってきた。開場時間の前にも関わらずSHELTER横の細い路地には多くの客が列を成していた。そして、開場の時間になると客席はあっという間にお客さんで埋め尽くされた。
 The Runsの他には、当時人気を博していたメロコアやスカコアバンドの直属の後輩にあたるバンドがThe Runsと対バンをすることになっていた。
The Runsは世間では誰も知らないと言ってもいいバンドだが、他の2バンドはレーベルにも所属し、バックには超のつくほど人気のバンドが付いていたこともあり、すでに巷では注目株として知られる存在であった。そんな中にThe Runsが捩じ込まれたのである。The Runsのメンバー全員は思っていた。
「上等だ。あいつらのファン全員掻っ攫う」
 ライブのトップバッターは、踊れるロックを謳ったバンド、イリーガルポリスだった。
当時、歪みの効いたギターに、パンクのリズム、そこにメリディアスな歌が乗っかるというのが昨今のバンドの流行であった。多くのバンドが似たり寄ったりというところで、イリーガルポリスはロカビリーなども含め、打ち込みダンスミュージックとパンク、ロックを融合させた踊れるロックを奏で人気を博していた。
 The Runsは楽屋からイリーガルポリスの演奏と観客の歓声を聞いていた。
次がThe Runsの出番である。元橋はタバコを何本も吸い、北隅はひたすらギターソロの練習をし、片桐はポケット六法をどのページを見ると言う訳でもなくパラパラとめくり、綿引は楽屋をうろうろと歩きながら発声練習をしたり、客席と楽を行ったり来たりし、皆それぞれ緊張に飲み込まれないように必死であった。
 ステージから「ありがとうございました!」という声が聞こえ、客席から歓声と拍手があがっていた。それを聞いて、いよいよかとThe Runsのメンバーたちは腹を括った。
「じゃあ、次、The Runsさん準備お願いします」SHELTERのスタッフがそう告げると、The Runsのメンバーたちはステージに上がり、楽器のセッティングを行った。
レーベルなどに所属していないThe Runsはこういった機材や楽器のセッティングも自分たちでやらなければならないのである。セッティングが終わるとメンバーたちは再び楽屋に戻った。
「よし、一回集まろ」声をかけたのは北隅だった。
「いよいよ、初ライブ。とにかくいつも通り、楽しく演りましょう」
「おう」
「うい」
「うっしゃ」
 四人はお互いの顔を見合わせ、そして、屈託のない笑顔を見せた。
 楽屋の外からThe Runsの出囃子として、SHELTERのスタッフに渡していた、レッドガーランドのオールモストライクビーイングインラブが聴こえてきた。客席からはその曲に合わせて手拍子が鳴っていた。
「よし、行こう」北隅がそう言うと、他のメンバーたちは頷き、ステージに上がっていった。
 客席から歓声がちらほらと上がるが、イリーガルポリスよりはまばらな感じはある。どちらかといえば、暖かく迎えてくるような印象だ。出囃子をジャズにしたもの、それを狙ったところがあった。だから客の反応は予想通りであった。
レッドガーランドの軽快なピアノが客席に響いている。誰もが穏やかな表情でThe Runsの演奏を待っていた。
 北隅は他のメンバーの準備ができたことを確認すると、客席の後方にいるPAスタッフにOKの合図を送った。
「The Runs、初ライブ始めます」ヴォーカルの綿引がそう言うと、ドロップDチューニングされたギターとベース、そして、バスドラムとシンバルの音が一斉に鳴った。
 その音を聞いて客たちの顔色が変わった。臨戦体制に入ったというのだろうか、客席の空気か一瞬にして変わったのだ。
 演奏が始まると、客席は見ようによれば暴動が起こっているかのような状態になっていた。客と客が体をぶつけ合い、ステージに上がってきた客が客席にダイブしたり、まさにThe Runsのメンバーたちが憧れていた光景がそこにはあった。

 The Runsはその後、すぐに口コミなどで話題になり、レーベルに所属し、アルバムを出した。
そのアルバムを引っ提げて全国ツアーも行った。ライブをやるごとに客は増え、雑誌の取材も受け、深夜のテレビ番組にも出た。The Runsは次世代を担うバンドとして世間に認識されるようになっていった。
 全国ツアーが終わる頃にはThe Runsのメンバーたちは四年生になっていた。周りの学生たちはすでに就活を終えている者もいた。
The Runsのスケジュールはライブを始め、アルバムの制作、フェスの出演、テレビ出演、雑誌のインタビューなど次々に決まっていった。バンドとしては、順調に見えたが、綿引と片桐はどこかで線を引かなければならないと考えるようになっていた。一方で、元橋と北隅は大学を卒業してもバンドは続けたいと考えていた。そんなバンド内の齟齬はバンドの何か大切なものをひとつひとつ蝕んでいった。日に日にメンバー同士、メンバーとマネージャー、メンバーとレーベル社長との口論も増えていった。それでも、決まっているスケジュールはバンドとしてこなしていかねばならないという責任感はバンドメンバー全員にあった。

 各地で開催された夏フェスの出演がすべて終わり、夜風が肌寒く感じる頃に事件は起きた。
 マネージャーから初台の病院に呼び出され、急いでそこへ行くと、病院の待合室にはすでに綿引と片桐が到着していて、そして待合室の奥の方で泣いている人たちが何人かいた。
「北隅は」元橋はマネージャーに駆け寄り言った。
「今、ICUに入ってる。命は今のところは取り留めたってさっきお医者さんが言ってた」
「あの方たちは」
「北隅のご両親と妹さん」
 元橋たちは北隅の家族に歩み寄って言った。
「一緒に北隅くんとバンドをやっている元橋と言います」
「綿引です」
「片桐です」
「君たちか、うちの子を訳の分からんことに付き合わせて、終いには自殺未遂だ。もう由紀夫はバンドなんてやらん! 君たちはここから出て行ってくれ!」北隅の父親だろう、彼はそう言うと鋭い眼光を元橋たちに向けた。
 元橋たちは、自分たちがいったい何をしたというのだろうという戸惑いと、そしてその理不尽さに怒りを覚えた。しかし、元橋たちは何も言わず、病院から出ていった。

 北隅は、ひとり暮らしをするマンションの七階から飛び降り、自殺を図った。幸いにも落ちた先にまだ葉の生い茂っていた木があり、それに一旦引っ掛かり、そして自転車置き場の屋根に落下をした。
ドン!という音を聞いた同じマンションの住民が自転車置き場の屋根に倒れる北隅を見つけ、すぐに救急車を呼んだのだという。
 北隅は左足の骨折と無数の擦り傷だけで命は助かった。しかし、彼の心はこの時すでに死んでしまっていたのかもしれない。

 北隅由紀夫の実家は福島県いわき市にあった。父親は長年いわき市の市議会議員を勤め、息子、つまり北隅由紀夫にもその道を行ってもらいたいと強く思っていた。
高校生だった北隅はすでに地元でバンド活動をしていた。しかし、父親から一度、「そんなくだらんことをしてないで地元のボランティアに参加しろ」と言われて以来、こそこそとバンド活動を続けてきた。言うまでもなく、北隅はバンドにハマり、なんならこれで飯を食っていきたいとも思っていた。しかし、彼はそんなこと父親に言える肝の据わった青年ではなかった。バンドを父親にとやかく言われずに続けるためには、父親から遠く離れればいい、そう考えたのだ。それから北隅は猛勉強をし、父親が納得する大学で、尚且つ政治経済学部に受かることが彼の目標となった。彼は見事、東京の地方から見れば一流と言える大学の政治経済学部に合格することができた。そして、父親は北隅の思惑など知ることもなく、東京でしっかり政治の勉強をしてこいと期待を胸に送り出した。
 彼は大学に入学するとすぐに軽音楽サークルに入り、バンドを組んだ。それは夢のような毎日だった。こんな日々が一生続けばと彼は願っていた。
 彼のバンドはいつの間にか大きくなった。複数の夏フェスの参加が決まって間もないまだ梅雨真っ只中の時期だった。彼は電話で父親に「音楽で飯を食っていく」と告げたのだ。すると父親は烈火のごとく怒り、ついには高速バスで東京の北隅の住むマンションにやってきたのだ。そして、音楽を辞めることを延々と説得し、辞めないのであれば大学は退学してもらうと言ったのだ。しかし、北隅はそんなことに聞く耳を持たなかった。その後、しばらくは父親からの連絡はなかった。北隅は父親は自分を説得することを諦めたのだと思った。しかし、それはただの思い違いだった。
 例年ならもうすぐ梅雨明けだと気象予報士が発表してもいい頃だった。そんなあくる日、今度は北隅のマンションに妹の泰子がやってきたのだ。
「お兄ちゃん、大学卒業したらいわきにもどってきてもらえない。今、お父さん大変なの」
「なんかやらかしたのか」
「お父さん癌なんだって。胃がん」
 北隅はそれを聞いた時、悲しい気持ちにはならなかった。寧ろ自分が愉快な気持ちなっていることに困惑し、戸惑った。
「それで俺にどうしろって言うんだよ」
「お父さんはお兄ちゃんに大学を卒業したらこっちに戻ってきて、仕事の手伝いをしてほしいみたい。たぶん長くないだろうから、自分の仕事を受け継いでほしいみたい」
「市議の仕事をか? そんな受け継ぐとかそういう仕事じゃないだろう」
「お父さんには市議としての想いがあるんだよ。それを受け継いでほしいみたい」
「知らねぇよそんなこと」北隅はそれ以上父親の話を聞く耳を持たなかった。
 その夏、北隅はThe Runsのギタリストとして各地のフェスに参加した。新人バンドとしては異例の観客動員数を記録するフェスがいくつもあった。しかし、観客が増えていく度に、北隅は「自分は何のために音楽を作り、ギターを弾き、ステージに立つのか」そんなことを考えては答えが見つからず路頭に迷い、煩悶する日々が続いた。そして、北隅は飛び降りた。
 The Runsは彼の自殺未遂後、セカンドアルバムの制作は中止、予定していたライブもなくなり、事実上解散となった。

 四人は大学を無事卒業し、片桐と綿引は都内の会社に就職をし、元橋はThe Runsが所属するレーベルで新人を発掘する仕事をすることになった。北隅は地元のいわき市に戻り、父親の秘書として働いた。
 北隅の父親は彼が秘書として働きだして、一年も経たない内に息を引き取った。父親が亡くなってから、父親と親しい市議や地元の人たちから市議にならないかと誘われたかが、自分がこの街に貢献できることはないと北隅は断った。その後、北隅はいつのまにかリッチモンドへ移住をしていた。元橋がそれを知ったのは大学を卒業して、バンドのメンバーたちが別々の道を歩み出してから十年の月日が経ってからだった。その十年、お互いが変な気を使い、連絡を取り合うことはなかったのだった。

 十年なんて経ったことなんて誰も気づかない、そんなある時、元橋の携帯に北隅からメールが届いたのだ。
『今、俺カナダにいるんだけど、遊びくる?』
 元橋はすぐに返信をし、しばらく北隅とメールのやり取りが続いた。十年の月日はメールではほんの十数件で表現できるものであった。
 この頃、元橋はレーベルを退職し、高円寺で古着屋を始めていた。
『じゃあ、古着の仕入れのついでに会いに行くよ』
 それからというもの元橋は北隅の様子を窺うついでに古着の仕入れに彼の住むリッチモンドを訪れるようになったのだ。

 レコーディングは一週間ほど続いた。一曲だけのレコーディングに一週間もスタジオを取ったのは、北隅のギターをレコーディングするためだったのだと元橋は思った。
 北隅と元橋はマスター音源を聴き終わり、言った。
「自分が弾いておいて、あれだけどギターソロ気持ち悪いな」
「だな」
「でも、こういうことなんだろ?」
「依頼には完璧に応えてるな」
「なんかギターソロを弾いてる時に昔のことを思い出したよ」
「昔って」
「おれたちがバンドやっていた頃のこと」
「初期か?後期か?」
「そんな初期も後期も語れるほどの時代を俺たちは持ってないけどさ、強いて言えば、後期だな。あの時はひどかった。その時のことを思い出しながらギターソロを弾いたよ。それがよくこの不協和音に出てると思う」
「なるほどね。あの時の北隅の想いがギターソロに込められてるわけか」
「レコーディングも終わったし、じゃあ飯でも食べにいくか。ロブソン通りからちょっと入ったところにうまいギリシャ料理屋があるからそこに行こう」
「ギリシャ料理か。全然料理の想像がつかないわ」
「お前は世界観が狭いな」
 その後、北隅と一緒にカナダ観光を満喫した元橋はマスター音源、それから長瀬誠と新里摩耶へのお土産を持って日本へ帰国した。


第十一話「荒妄」

 電車が中野駅に到着し、扉が開くと熱風が車内に入り込んできた。
電車を降りた坂上昭二は明和大学までの道のりを考えると、また電車に乗り込んで引き返そうかと思ったくらいだった。しかし、今日から始まる新しい薬を早く試したいという気持ちがそれを押し留めた。
中野駅から徒歩で十分程で明和大学には到着するが、義足を付けた坂上の足では二十分はかかってしまう。五分も歩けば坂上の額からは滝のような汗が流れ出した。
大学が見え、坂上にはオアシスのように見えたが、大学内に入ってみると思ったよりも涼しくなく、彼は誰に向ければいいのかわからない怒りをぐっと堪え、エレベーターで五階へ上がった。
 五階に着くとすぐに彼は相談室の受付のドアを開けた。
「こんにちは。二時に予約をしている坂上です」
「坂上さん、こんにちは。板垣先生が来るまで座ってお待ちください」いつもと変わらない受付のおばさんがいつもと同じ言葉を坂上にかけた。
 坂上はどさっとソファーに座り、乱暴に荷物を降ろした。受付兼待合室には坂上しかおらず、効いているのかわからないエアコンの音だけが響いていた。
 坂上は数年前に鬱病と診断され、それ以来、明和大学の相談室でカウンセリングを定期的に受けていた。
ここにカウンセリングに来る前の話だ。彼は鬱病と診断される直前に新宿駅で電車に飛び込んでいた。命は助かったが、その時に左足と左手を失ってしまった。

 坂上は自分の見た目にコンプレックスを持っていた。学生の時からずっと体型はぽっちゃりで、顔を含め、その見た目から周りからはカバ男くんと呼ばれていた。
カバ男くん、一見愛されキャラになりそうだが、坂上は違った。
彼のどの時代を振り返っても、いい思い出と呼べるものはなかった。彼の人生の大半は怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望が支配していた。しかし、彼は必ず自分のことを見て評価してくれる人が必ずいると信じ、腐らず、真面目に勉強をし、それなりの大学を出て、それなりの会社に就職をした。
彼の努力や希望に反して社会人になっても彼の人生は劇的に変わることはなかった。
坂上は「いつか誰かが評価をしてくれる」という「いつか」を社会人になったその時と期待していた自分がいた。しかし、期待に反してそれは一向にやってくる気配はなかった。
またしても彼の生活の中に怒り、悲しみ、恐怖、屈辱、孤独、絶望といった感情がふつふつと支配し始めようとした頃、宮前桃花は彼の前に現れた。
ある日、仕事が終わり、唯一職場で気兼ねなく話させる同期の臼田に誘われ、アイドルのライブに行くことになったのだ。最初は乗り気ではなかった坂上だったが、一目、彼女たちのライブを見ると、たちまちファンになってしまったのだった。

坂上は相談室のソファーにもたれながらスマホを取り出し、SNSのアプリを立ち上げた。SNSの検索機能を使い『宮前桃』と打ち込んだ。すぐに宮前桃花に関するツイートが画面に並んだ。
『宮前桃花、さすがにクビでしょ』
『宮前桃花の相手ってだれ?』
『俳優のSが宮前桃花の彼氏確定?』
 宮前桃花に関するツイートを見るたびに坂上は死にたいという気持ちが強くなっていくように感じた。しかし、どうしてもツイートを追ってしまう。そして死にたくなる。宮前桃花のスキャンダルが出てからというもの、その繰り返しであった。宮前桃花のスキャンダルはこれが初めてではなかった。
「坂上さん」板垣がドアの隙間から声をかけた。
「あ、はい」坂上はスマホをポケットにしまい、待合室を出た。
「今日も暑いですね」
「そうですね」
「すみませんね、そんなに涼しくなくて。大学から節電、節電てうるさくてね」
「そうなんですね」
「最近、何か生活で変化がありましたか。いつもとちょっと様子が違うみたいなので」
「まぁ、なんと言いますか」
「あれですか、追っかけをしてあるアイドルの方の」板垣はそこまで言って、坂上の返答を待った。
「そうですね、まさに」
「相当ハマっていますものね。僕も若い頃、ハマってたアイドルがいたんですけどね」
「板垣先生もアイドルとか好きだったんですね。意外です」
「いや、人並みにですよ。その僕が好きだったアイドルが突然結婚しますって会見をしたんですよ。その時はショックを受けましたね。なんかこうクラスの中に好きな女の子がいて、その子に彼氏がいたってわかった時と同じ衝撃を受けたというか。その後は失恋したみたいに落ち込みましたね」
「失恋ですか。確かにそれに似たような感情かもしれませんね。んー、でもなんか違うか」
「どのように違うんですか」
「なんて言うんでしょうね。裏切られた」
「裏切られた」
「はい。裏切られて、悲しい、辛い、そんな感情のような気がします」
「そこに死にたいという気持ちはありますか」
「正直、はい」
「そうですか」
「そういう気持ちがあると新しい薬は服薬できないですか」
「いえ、寧ろ服薬した方がいいです。というのも、今回、試してもらう治験の薬は死にたいという気持ちを軽減できる可能性がある薬なんです。だから今、坂上さんが死にたいと思っているなら、服薬をしていただきたいと思っています。いかがでしょうか」
「死にたいとは思っていますが、死にたくないとも思っています。一度、死にかけてますからね。変ですかね」
「変ではないです。それが普通です。しかし、このままその死にたいという気持ちを持ったまま生活を続ければ、いつかまた突然坂上さんは死を選んでしまうかもしれません。そうならないように、この薬を服薬してみましょうか」
「そうですね」
 坂上は板垣が用意した書類にサインをし、服薬時の注意事項等を聞いた後に、治験用の薬を渡された。
 その日から坂上は服薬を開始した。板垣が言っていたように、死にたいと思う気持ちは日に日に軽減していくように感じた。それから定期的に板垣とのカウセリングがあり、体調の変化等の報告をし、問題がないことが確認されると服薬は継続された。
 九月になり、坂上は薬の効果で以前よりも体調がよくなっていることを実感していた。それもあってか、久し振りにライブに行こうと思い立ったのだ。以前までは同じアイドルグループのファンの仲間たちとライブへ行っていたが、宮前桃花の度重なるスキャンダルでファンを辞める仲間たちが多くいた。それもあり、一緒にライブに相手は見つからなかった。そこで、坂上は明和大学の相談室が開くピアサポートの会で出会ったまだ大学生だという大和田喜一を誘うことにした。彼は以前からアイドルのライブに行ってみたいと坂上に語っていた。

 坂上はいつも決まった時間に薬を飲む。朝起きてからと、仕事が終わった後だ。それは板垣からの指示であった。会社に行っている間に不安を感じないように、そして仕事が終わって何の不安もないまま次の日の朝を迎えられるようにとその時間の服薬を指示された。
 夕方六時、仕事を終えていつものように坂上は薬を飲んだ。それから坂上は会社を出た。大和田とはライブ会場で待ち合わせをすることになっていた。
 高円寺駅の南口を出て歩いているとすぐにガールズバーの女の子たちに声をかけられるが、坂上な小声で「大丈夫です」と申し訳なさそうに手振りを付けながら言い、先を急いだ。坂上がそういった客引きの女の子たちの前を通りすぎると必ずくすくすと笑い声が聞こえた。坂上は自分の容姿で笑われているのだとわかっていた。
 これまでの人生で異性と話をしたことなんて数えられるくらいしかなかった。自分からは話かけにはいけないし、異性からも話しかけてくることはなかった。その異性と話したというのも、友達同士で話すような内容ではなく、事務的な何かを伝えるだとか、そういう伝達の道具としてそこにコミュニケーションが発生したというものにすぎなかった。
気象神社のある坂を下り、下りきったところで右に曲がる。更に南へ進むと右手に目的地のライブハウスがある。もうすでに物販は始まっていて、客たちが列を成していた。坂上は小走りでライブハウスに向かった。
 ライブハウスの入り口横で物販が行われており、サンプルのTシャツなどのグッズには売切れの文字がまだないことに坂上は安堵した。物販の列に並びサンプルのグッズを眺めながら坂上は宮前桃花のことを考えていた。

彼女と初めて話をしたのは、握手会の時であった。会社の同期に連れられて行った初めてのライブの後、握手会があるからお前も試しに行ってみろと誘われ、まあ握手くらいならと軽い気持ちで握手会の列に並んだのだ。列に並び、握手会の様子を見ていると、握手をするだけではなく、ファンとアイドルが一定時間握手をしながら会話をしていることに気付いた坂上は軽いパニックを起こしていた。
これまで異性と実質話したことがない坂上は何を話していいのか頭の中が真っ白になったのだ。前に並ぶ臼田に何を話せばいいのかと助けを求めると、「自己紹介とか、今日のライブよかったですとか話してらすぐ時間になる」とアドバイスなんだかよくわからないことを言われたが、坂上は依然と脳内パニックは続き、列がどんどんアイドルたちに近づいていくと、いよいよ背中に冷たい汗が伝った。
 臼田がまずアイドルたちと慣れたように握手をした。その様子を後ろからガチガチに緊張をした坂上が見ていた。
「次の方どうぞ」とスタッフに呼ばれ、坂上は意を決してアイドルたちの方へ足を踏み入れた。
 そこにアイドルたちは四人並んでいた。彼女たちは慣れたように緊張している坂上に声を掛けた。
「こんばんは、今日は来てくれてありがと。また来てね」
「初めてですか、また来てくださいね。絶対ですよ」
「臼田さんのお友達ですか? じゃあまた臼田さんと来てくださいね」
 坂上は一言も発せず、握手をしながら、やや俯き加減で彼女たちの声を聞くのが精一杯だった。
「あー、なんかカバさんみたいでかわいい」宮前桃花は坂上の顔を覗きながら言った。
 坂上ははっとして顔を上げ宮前桃花の方を見た。
「また来てくださいね、カバさん」そう言うと宮前は坂上の手を強く握りしめた。
「また来ます」坂上はそれだけ宮前に伝え、スタッフに剝がされた。
 その瞬間、坂上の中で何かが弾けたように感じた。それは、本来ならば青春時代に多くの人が体験するであろうそれを坂上はこの瞬間に感じることができたのだ。

物販で目的の物を購入し終わった頃、漸く大和田喜一が現れた。
「すみません、遅くなりました」
「お疲れ様。ほい、これ」そう言うと坂上は大和田にペンライトを渡した。
「何ですかこれ」
「ペンライトだよ。知らないの?」
「あー、よくヲタ芸とかで使うやつですね」
「そういうのは知ってるんだ逆に。違くて、これで推しを応援するんだよ」
「あー、そういうやつか。こうやってですか」そう言うと村上はペンライトを光らせて頭の上でペンライトを振った。
「いいよ、今はやらなくて。推しいないだろ、今」
「それもそうですね」
「それで、貸したDVDとかCDで予習してきた」
「はい。行くなら楽しめた方がいいと思ってしっかり予習してきましたよ。僕、あの歌好きです。夏休みが〜なんちゃら〜みたいな」
「真夏のココナッツな」
「それですそれ。なんか振り付けも楽しいですよね。DVDで見ましたけど、お客さんもみんなでやるんですね」
「そうそう。きっと今日もやるから大和田も恥ずかしがらずにやれよ、ちゃんと」
「やりますよ、もちろん」
「推しは決まったのか」
「んー、全員かわいいんですけど」
「それはわかる。その中でも」
「その中でも、中川秋奈ちゃんですかね」
「やっぱりな」
「なんで、やっぱりなんですか」
「入り口はあきちゃんなんだよ」
「入り口ってなんですか」
「あの子、目立つというか、人目を引くだろ」
「確かに」
「ほとんどのファンがあきちゃんから好きになって、その後、ファンは他の子の魅力にも気付いて、推し変していくんだよ」
「へぇ。そしたらあきちゃん可哀想じゃないですか」
「それが一番ファンが多いのはあきちゃんなんだよ。さすがだよ、あきちゃんは。アイドルの鏡だね」
「坂上さんもちゃあきんから入ったんですか」
「いや、俺はももりんから」
「そうなんですね。それで、その坂上の推しは今日復帰なんでしたっけ」
「ながらく謹慎してたけど、漸く復帰。復帰したってことは世間で言われてることは真実ではないということだ」
「そうなんですね。アイドルも大変ですね。そのことについてライブで話したりもするんですかね」
「どうだろうね。ももりんのことだから話さないんじゃないかな。でも、なんか新曲を発表するってSNSで言ってから、それが彼女からのメッセージなのかもしれないな」
「メッセージですか。深いですね、アイドル」
「沼だよ、沼」
 ふたりが話していると、ライブ会場の入り口から開場のアナウンスが聞こえた。
「それでは、これから開場いたします。番号を呼びますので、呼ばれた番号のチケットをお持ちの方からから中にお入りください。では、整理番号一番から五番の方どうぞ」
 坂上は自分のチケットを確認した。チケットには二百五十と書かれてある。ライブハウスのキャパは三百人程度なので、坂上がライブ会場の中に入れるのはだいぶ後の方である。一方の大和田はビギナーズラックとでも言うのか、一桁台のチケット持っていて、早々にライブハウスの中へと消えていった。
 漸く坂上の番号が呼ばれ中へ入ると、すでにフロアは客で埋め尽くされていた。大和田を探すが見当たらなかったので、坂上はPA卓の横に陣取り、そこで今回はライブを見守ることにした。
 ライブ開始定刻になり、会場が暗転すると歓声が上がった。そして、様々な色のペンライトが会場内で波を打っていた。会場内にSEが流れると観客たちは更に歓声を上げた。
坂上はペンライトは振り上げ、推しの名を叫んだ。
「ももりーん!」
 すると別の場所からも、ももりんと声があがる。それが連鎖していき、ももりんコールが起こる。みんなももりんの帰りを待っていたのだと坂上は感極まった。
 歓声が続く中、ステージ袖からスーツを来た男が現れた。ステージの真ん中に立つと、彼は慇懃に頭を下げた。
「皆様、本日はご来場ありがとうございます。プロディーサーの浦沢睦月です。この度は、メンバーである宮前桃花のスキャンダルで皆様には多大なご心配をおかけいたしました。私の指導の至らなかったことが原因です。本当に申し訳ございませんでした。今後のこのようなことが起こらないように運営、メンバー共々精進してまいりますので、今後とも宮前桃花、そして虹色クリーミーガールをよろしくお願いいたします」浦沢はそう言うとまた、深々と頭を下げた。
 客席からは激励の言葉が飛び交う中、浦沢はステージ袖で客席に向かって頭を下げ、舞台上から去っていった。
 会場はどこか異様な空気が漂っていた。そんな中、ステージ下手からメンバーたちが登場すると、これまでにも増して大きな歓声と拍手が上がった。そして、最後に宮前桃花がステージ上に現れると会場から「おかえり」という声が多くあがった。坂上も喉が潰れるのではないかというくらいの声で叫んだ。
宮前桃花はステージに立ち、客先をまっすぐ見て、マイクを通さず、「ありがとう」と声に出さず、その口の形だけで感謝を告げた。
 一曲目のイントロが会場に響くと、大きな歓声が上がり、イントロのリズムに合わせて、客先からは「ウリャ!」「オイ!」とコールが始まった。
 アイドルたちは激しく、そして華麗にステージ上で舞っていた。
 坂上は宮前桃花から一切目を離さず、彼女の身体の細部にまで目を凝らし、そして、彼女の声にだけ耳を澄ましていた。
 一曲目が終わるとすぐに、二曲目へと突入した。一曲目と同様に昔からのファンには馴染みのあるロック調の激しい曲で、ファンたちは激しくペンライトを振り、推しが歌えば、その子をコールし、曲と客がまるで一体化していると言っても過言ではなかった。
そして、畳み掛けるように三曲目のイントロが鳴る。
「まだまだ行けるだろー!」とファンを煽るのはリーダーの城井凛である。
「おー!」とそれにファンたちが応える。
 三曲目も激しいパンクロックナンバーでアイドルたちも時折、滴る汗を拭いながらパフォーマンスを続けた。ファンたちはそれ以上に熱気を出し、Tシャツはすでに汗でびしょ濡れになっていた。
「ありがとうございます」三曲目が終わるとリーダーの城井凛が深く頭を下げて言った。
 会場からは拍手が鳴り、歓声があちらこちらであがっていた。
「今日は来ていただいてありがとうございます」城井凛がタオルで汗を拭いながら言った。「ごめん、ちょっと飲むね」そう言うとペットボトルの水を喉に流し込んだ。
「おつかれー!」
「いい飲みっぷりー!」
「りんちゃーん!」
 客席から声援が上がる。
「ありがとう。私のことはいいからさ、今日はももの復活祭だから。ね、もも」
 城井がそう言うと、客席の視線が宮前桃花に向いた。
 宮前は客席にいるファンを見回し言った。
「ただいま」
「おかえりー!」すぐさまファンたちからの声が上がった。
「みんな、待っててくれてありがとう。もも、今まで以上に頑張るから、そしてみんなのこと幸せにするから。だからこれからも宮前桃花をよろしくお願いします」そう言うと頭が膝に付くくらい深くお辞儀をした。
 会場から拍手が起こる。宮前は拍手が止むまでずっとお辞儀をしたまま動かなかった。漸く拍手が止むと、宮前は前を向き言った。
「次の曲は新曲になります。私の再起にかける想いを曲にしてもらいました。歌詞はわたし、ももが書きました。聞いてください、『愛が要る』」
 歪みの効いたギターの切れ味の良いカッティングからイントロが始まると、すぐに歓声が上がった。アイドルたちは下を向いて微動だにしない。ギターが四分休符し、一瞬無音になるが、すぐにベース、ドラム、シンセサイザーが加わり、その爆音と共にアイドルたちの激しいダンスが始まった。
 アイドルたちはステージ上で荒々しさと可憐さをバランスよく組み合わながらせパフォーマンスを見せた。
 坂上は『愛が要る』が始まり、曲が最初のサビを終えた頃に自分に異変が起こっていると感じた。
彼女たちのパフォーマンスを目を逸らさず見ているはずなのにも関わらず、彼女たちが一瞬にして違う場所に移動していたり、曲が飛んで聞こえたりするのだ。
二回目のサビが終わりギターソロが始まった時だった。坂上は誰かに頭を何か硬い重たい物で殴られたような衝撃を受けた。そして、目の前が真っ暗になり、何の音も聞こえなくなってしまった。
 ギターソロに合わせてアイドルたちはステージ上を愛らしく、そして激しいダンスを見せた。ファンたちも絶妙なコンビネーションで「ウリャ!」「オイ!」とコールを入れている。
 そんな盛り上がる中、突然、客のひとりが後にいた誰かに勢いよく押されたのか、その場に倒れた。その反動でその客の前にいた客も倒れ、数名がドミノ倒しのように倒れていった。どうした? と他の客たちが倒れた客たちの方を見ると、今度はステージ上で悲鳴が上がった。
 坂上がステージ上に上がり、宮前桃花の両肩を掴んでいた。
 宮前桃花は坂上と対峙し恐懼に満ちた表情をしていた。
「ごめんなさい」宮前がか細い声でそう言った。
 その瞬間、坂上は宮前の首に噛み付いた。坂上は彼女の首の皮を噛みちぎると、さらに首の筋肉を噛み、首の外に引き摺り出すかのように引っ張った。限界まで伸びた首の筋肉はパチンという音を立てて切れた。
 宮前桃花の首から大量の血が噴水のごとく飛び散り、他のメンバーや客が彼女の真っ赤な血を浴びた。
 ステージ袖から体格の良いマネージャーの男がステージに勢いよく飛び出し、その勢いのまま坂上に体当たりをした。坂上と宮前は飛ばされ、ステージに転がった。床に叩きつけられたことで坂上の義足と義手が外れた。しかし、坂上は宮前を掴んだまま離さなかった。
マネージャーの男は宮前を掴む坂上の腕を取り、引き離そうとするが、彼の力が強く、まったく動じなかった。坂上は構わず宮前の首に食らいついた。ぶちぶちぶちと不気味で耳障りな音がマネージャーの聴覚を不快にした。マネージャーは宮前の首に噛み付く坂上の頭を踏みつけた。それでも彼は食べることをやめなかった。
 マネージャーは近くにあったマイクスタンドを手に取り、マイクスタンドのマイクホルダーを取り外した。そして、マイクスタンドの先端を坂上の頭目がけて振り下ろした。
 マイクスタンドは坂上の頭を貫通したが、それでも彼は宮前の首に噛みつこうともがいていた。
 マネージャーは坂上の頭に突き刺さったマイクスタンドを引き抜いた。すると、マイクスタンドを引き抜いた頭の穴からどす黒い血が溢れ出てきた。
 マネージャーは今度は穴の空いていない部分を目がけてマイクスタンドを振り下ろした。マイクスタンドはまた彼の頭を貫通した。すると、坂上の動きが鈍くなり、いよいよ動かなくなった。
 マネージャーは息を荒くし、頭に刺さったマイクスタンドを強く握りしめた。
 坂上はまったく動かなくなっていた。同じように宮前桃花も指先ひとつ動かなかった。
 ライブハウスの外からパトカーのサイレンの音が鳴っていた。その音に気付き、マネージャーが周りを見るとライブハウスの中にはもう誰も残っていなかった。
 マネージャーはステージ上から誰もいなくなった客席に降りた。その時、勢いよく客席の入り口の扉が開き、警察数人が突入してきた。警察はマネージャーに拳銃を突き付けて言った。
「動くな!」
 マネージャーは反射的に両手を挙げた。
 警察はジリジリとマネージャーに近づき、腕一本分の距離に近づいたと思った瞬間にマネージャーの膝の裏に蹴りを入れ、体制が崩れたところをそのまま床に倒れ込ませた。
「容疑者確保しました」
「俺、犯人じゃないです。犯人はステージの上です」
「ステージの上」警察がステージの方を見ると、倒れている人間がごそこそと動いていた。
「こいつを頼む」警察のひとりが別の警察にそう伝えると、ステージへ近づいていった。
 そこには頭にマイクスタンドが刺さった男がもぞもぞと動いていた。その男の隣には血まみれの女が倒れていた。警察はさらに男に近づくと信じられないものを見たかのような表情をした。それもそうである。頭にマイクスタンドが突き刺さった男が血まみれの女を食っていたのだから。
「やめろ! 何をしている!」警察が男に向かって叫ぶが男は構わず女の首の肉を自らの口で剥ぎ取っていた。
 警察は男を女から引き離した。脳が損傷しているからだろうか、先ほどよりも男の力は弱っていた。
 警察は倒れている女に近づき、脈と呼吸を確かめた。しかし、彼女は息絶えていた。
「先輩、うしろ!」
警察がその声に反応し、振り向くと頭にマイクスタンドが突き刺さったまま立ち上がっている男が警察の前に立ちはだかっていった。
 殺られる、そう思った警察は咄嗟に拳銃を取り出し、男の顔を目かげて発砲をした。
 弾丸が男の顔を貫通すると、そのまま後ろに倒れ、動かなくなった。

 ライブハウスの入口付近は騒然としていた。何人かの客やアイドルの子たちが警察に事業を聞かれている姿も見られた。その中に大和田の姿もあり、困惑と何かに怯えているような表情で警察に何かを伝えていた。
 野次馬も増え、ちらほらとマスコミも集まってきていた。その様子を人混みに紛れて浦沢彩月は眺め、微笑を浮かべていた。
「総理、初の実験は成功しました。次の段階に移ります。次はうちの大学のクライエントの石川という男性で実験を行います。いよいよ始まりますね、怨音プロジェクト」


第十二話「プレリュード」

「PTSDってご存知ですか」
「はい。一応、心理学を学んでいるので」
「今、長瀬さんはその状態にあります」
「僕がPTSDですか」
「その原因に思い当たる節はあるはずです」
「それは」
「思い出さなくて結構です。今、日本中でPTSDで苦しんでいる方が増えているようです。あんな事件を目の前で見たらどんな人間だってショックを受けます」
「これから僕はどうしたらいいですか。眠れないのはやはり辛くて、それからイライラすることも最近多いんです」
「まず、不安を抑えるお薬を出しておきますので、数週間それで様子を見ましょう」
「わかりました」
「処方箋出しておくので受付で受け取ってください」
「わかりました。ありがとうございました」 長瀬誠は主治医に会釈をし、診察室を出た。

 研究室で起きた事件の後から長瀬誠は精神のバランスを崩していた。それは自分でも自分がおかしくなっているとわかるような状態であった。しかし、そのうち時間が経てば、元に戻るだろうと考えていたが、状況は改善するどころか、日に日に、食欲が落ち、眠れる日も少なくなり、何かのタイミングでフラッシュバックが起き、感覚が過敏になり、何気ないことでも苛つき、そして何かを破壊してしまったり、時には自分を気付けることもあった。いよいよ、どうにも自分では対処できないと諦め、自宅近くの精神科クリニックを訪れたのだ。
 研究室で起きた事件以来、長瀬はそこにいた人たちとは一切連絡を取っていなかった。だから、新里摩耶も彼女の兄も、浦沢彩月も、他の学生もその後どうなったかわからなかった。
ただ、ニュースで坂垣と飯田は死亡し、その日、研究室で起きた惨劇と同じ事が日本各地で起きたことも大々的にテレビなどで報道されていたのでわかっていた。
その後、事件を起こした人たちは、事件後にまた誰かに危害を加えることはなかったという。そして、事件を起こした人たちのうち警察に逮捕された人たち全員が犯行時の記憶がなく、彼らは精神鑑定後、謂わゆる精神病院に移送され、そこで生活をしていた。彼らの大半は日が経つに連れて元の自分に戻っていった。ただ、犯行時の記憶は一切思い出すことはなかった。
 その当時、日本中で新薬を服薬した全員が一斉に暴徒化し、他人を食ったが警察がその事件を起こした人たち全員を捕まえることは不可能であった。警察に運よく捕まらなかった者たちは血だらけの自分の姿を見て自分が何をしたかを察したが、その時の記憶は一切なかった。
彼らの中には自首する者もいたが、大抵の者たちは元の生活に何事もなかったかのように戻っていた。その後、その中で警察の捜査により逮捕される者もいたが、逮捕されなかった者たちが大半であった。
 テレビでは連日、犯人たちの責任能力についての議論が絶えず放送されていた。それに加えて、犯行に及んだ人たちが服用していた薬に付いても連日、メディアなどで話題に上がっていた。
流通していた薬はすべて回収されたとメディアでは伝えていたが、SNS上では、その薬はまだどこかに存在し、ゾンビドラッグと呼ばれ、裏で取り引きをされているという噂も流れていた。しかし、ニュースなどでは人が人を食べた等という事件は一切報道されることはなく、ゾンビドラッグは噂に過ぎず、月日が流れるに連れ、人々は事件のことを忘れていった。時折、ニュースで事件を起こしたヒトの裁判の判決結果が伝えられたが、長瀬誠が見た報道のすべてが無罪と伝えていた。

 長瀬誠が医者からPTSDだと診断を受け、薬を服用し始めてから二週間が経ち、再び新高円寺にある精神科クリニックを受診していた。
「調子はいかがですか」
「何も変わっていないと思います。夜は眠れませんし、食欲もないし、ちょっとしたことで苛ついてしまうことも変わりないです。これはつまり薬が聞いていないということでしょうか」
「そうですね。そう考えるのが妥当かもしれませんね」
「違う薬を試すということは可能なのでしょうか」
「そうですね。私も様々な可能性や方向性を考えていました。長瀬さんはこれからどんな生活を望みますか」
「どんな生活」
「はい」
「できるなら病気になる前の自分になりたいですね」
「なるほど。私も前回、長瀬さんのお話しを聞いた時にそのような生活を望んでいるのではないかと思い、あの薬を処方したんです」
「でも、効かなかった」
「ええ。そこで、提案なのですが、まだ治験段階の薬があるんですが、試してみるというのはどうでしょうか」
「どんな薬なんですか」
「ご存じかもしれませんが、SSRIつまり、選択的セロトニン再取り込み阻害薬の一種でして」
「抗うつ剤ですよね」
「はい。試していただきたい薬は従来の抗うつ剤よりも意欲を高めるという効果があるようです」
「意欲を高める」
「何かをしたいという意欲が高くなる傾向があるとこれまでの研究では明らかになっています。結果的にその意欲が生きる力となり、以前のような生き生きとした生活を送ることができるようになるということです」
「それは魅力的ですね。副作用も何か違ったものがあるんですか」
「いえ、個人差はありますが、一般的な抗うつ剤の副作用と変わりはないと言われています」
「そうですか。先生」
「なんですか」
「その薬を飲んで、ゾンビになったりしないですよね」
「なるわけないじゃないですか。あの事件以来、更に治験は厳しく管理されるようになったんです。それにこの薬はアメリカと日本の共同開発なんです。だから心配ありませんよ」
「アメリカとの共同開発なんですね。あんな事件があったのに、アメリカもよく日本と共同開発なんてしようと思いますね」
主治医はそれに対しては返答はしなかった。
「わかりました。その薬試してみます」
「では、こちらの書類に必要事項を記入していてください。私は薬を持ってきますから」そう言うと医者は診察室から出て行きしばらく戻らなかった。
「お待たせしました。ちょっと電話をしてたもので。書き終わりましたか」
「これで大丈夫ですか」
「大丈夫です。じゃあこれが薬になります。二週間分入っています。夕飯の後に服薬してください。何か少しでも変化を感じたらすぐに連絡をください」
「わかりました」長瀬は主治医から薬を受け取り、鞄にしまった。

 その日の夜から長瀬は薬を服用し始めた。薬を飲んだ後、短めにお風呂に入り、お風呂から出ると水をコップ1杯だけ飲み、ベッドへ横たわった。薬の効果か、長瀬はそのまま眠りに落ちてしまった。夢は見なかった。目を覚ました時に久しぶりに感じる脳がすっきりしたような感覚を味わった。
 長瀬はベッドから降り、トイレで用を足した後、すぐに朝食の準備を始めた。長瀬は空腹を感じていた。これも久し振りに感じる感覚であった。トーストを焼き、ハムと目玉焼きをフライパンでカリカリになるまで焼いた。その焼けた匂いで腹がぐぅと鳴った。皿にトーストと焼けたハムと目玉焼きを乗せ、テーブルへ運んだ。コップに氷を入れ、そこへコーヒーを注いだ。これで朝食の完成である。
 長瀬はテーブルに着き、出来上がった朝食を眺め、久し振りに味わう小さな幸せに喜びを感じていた。薬が効いているのだ、彼はそう思った。
 長瀬は朝食を食べ終えると、どこかへ出かけようと思った。そんな風に思うのも久しぶりだと、少し心が躍るように感じた。
 身支度を済ませ、部屋を出た長瀬は特に行く宛も考えず、散歩でもしようと阿佐ヶ谷の方へ歩き出した。住宅地を通り抜け、中杉通りに出ると、長瀬は区役所の方へ向かった。区役所まで辿り着くと、今度は青梅街道を渡り、また住宅地を練り歩き、しばらくすると善福寺緑地に出た。
 長瀬は善福寺川の川沿いにポツポツと並ぶベンチのひとつに腰掛け、川沿いを散歩したり、走っている人たちをぼんやりと眺めながらしばらそこで過ごした。
 大学にはまだ行くことはできていなかった。今日は行くことができるかなと思ったが、自然と大学とは反対の方へ足が向いていた。大学のことを考えたり、大学へ近づいたりすると、あの日の惨状がフラッシュバックしてしまうのだ。昨日から飲み始めた薬が効いて、元の生活に戻れることを長瀬は期待していた。そして、また新里摩耶に会えることを心から願っていた。彼女は今どこにいるか、彼女だけではない、彼女の兄の新里亨、浦沢彩月もそうだ。彼女たちはいったい何をしたのか。そんなことを考えていると、不意に遠くから声をかけられた。
「おーい」と言いながら長瀬の方へ駆け寄ってきたのは高校の時の同級生で長瀬とは違う大学院に通う麻田武であった。
「久し振り、長瀬おまえめっちゃ痩せたな」
「麻田か。久し振り」
「なんかいろいろ大変だったな、おまえの大学」
「まぁな。それよりこんなとこで何してんだよ、麻田は」長瀬は事件の話題を反らせた。
「何って言われても、強いて言えば暇だな。長瀬こそこんな平和な公園で何してんだよ」
「暇だよ」
「一緒じゃねぇか。じゃあさ、長瀬ん家行こうぜ」
「うち? なんでだよ?」
「久し振りにやろうぜ。家にあるんだろ?」
「何があるんだよ?」
「ボードゲームだよ」
「あー、何を言い出すかと思えば」
 ふたりは高校時代にボードゲームにハマっていた。周りの友人たちはスマホやゲーム機で遊ぶ中、長瀬と麻田はボードゲーム同好会まで作り、熱心に様々なボードゲームを放課後を問わず、休日も夢中で遊んでいた。
「家に何ある?」麻田は目に期待の色を浮かばせて聞いた。
「ガイスター」
「くぅぅ。懐いな。よし、じゃあ行こう」
「ほんとに来るのかよ」
「当たり前だろ。こんなところで偶然出会って、ボードゲームしないなんて狂ってるぜ」
「狂ってはないと思う」
「いいから行こう」
 ふたりは高校時代に熱中していたボードゲームの思い出話をしながら、長瀬の家へと向かった。

「到着」
「ここがかの有名な長瀬邸ですか。では、おじゃまいたす」
「どうぞどうぞ、ちょっと散らかってるけど」
「おい、長瀬。お前にはこれがちょっとの散らかりに見えるのか。俺にはゴミ屋敷にしか見えんぞ。ゲームの前に片付けだ」そう言うと麻田はテキパキと不必要なものを遠慮なくビニール袋に押し込んでいった。長瀬もビニール袋を片手に不要なものをそこへ入れていった。三十分もすると、部屋は見事に綺麗になった。
「ありがとう、麻田」
「部屋は綺麗な方がいいだろ」
「だな」
「よし、部屋も片付いたことだし、やるか」
 ふたりは夜遅くまでボードゲームをしながら、お互いの話をした。お互いというよりも長瀬が堰を切ったかのように、これまでのことを麻田に話しをした。
「PTSDか。それは辛いな」
「この辛さをひとりで背負って生きていくのは本当に辛いなって最近感じることがある。でも、麻田に話しを聞いてもらったことで、少し気持ちが軽くなった気がするよ。やっぱり毎日気が滅入るから部屋に閉じこもったり、人となるべく会わないようにって思って生活をしちゃうんだよね。これはきっと自分でしか解決できないことだって思ってるところもあってさ。それが余計に殻に閉じ籠る原因でもあるってわかってるよ。でも、なんか今は麻田が話しを聞いてくれたから、何か違う自分が生まれたような感じもする。次のステップに行けるかもって」
「次のステップか、いいね。じゃあ何する」
「いや、それはまだ何かは思い付かないけどさ」
「じゃあ、一緒に行くか」
「どこに?」
「アイドルのライブ」
「アイドルのライブ?」
「いいぞーアイドルは。じゃあ決まりね。チケット取っておくから。ちなみにだな、日にちは二週間後な。どうせ暇してんだろ。騙されたと思って来てみろよ」
「考えておくよ」
「詳細はLINEに送っておくから。ってことで、おれは帰るわ。もうこんな時間だし」
 時計を見ると夜の十一時を過ぎたところだった。
「もうこんな時間か。なんか久しぶりの楽しい時間を過ごせたよ」
「俺も」
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
「おう、今度はアイドルのライブでな」
「それは考えておくよ」長瀬は穏やかな笑顔で麻田を見送った。

 二週間後、長瀬は麻田に誘われたライブの前に精神科クリニックを訪れていた。
「調子はいかかですか?」
「とても良い状態だと感じています」
「詳しく聞かせていただけますか」
「夕飯の後に薬を飲んで、次の日の朝の目覚めがとても良くて、目覚めた瞬間からすっきりとしているんです。前までは寝られないことがありましたが、それもなくなって、途中で目覚めることもなくなりました。ぐっすりと眠れていると感じます。脳が休めているという感じがします。日中も活動が増えました」
「日中はどんなことをしてるんですか?」
「最近は、朝起きてすぐランニングをしています。その後に朝食を食べて、少し休んだら身支度をして、出掛けています」
「どんなところに行くんですか?」
「最近は福生に行きました」
「横田基地があるところですよね」
「そうです。あの辺りにはお洒落なカフェとか雑貨屋さんがあったり、昔、米兵が住んでいた住居が博物館になってたり、面白いところなんですよ。先生は行ったことありますか」
「いえ、ないですね」
「あと、僕がPTSDと診断されたことで、PTSDについて自分なりに調べたりしたんですよ。いろんな本を読んだり、映画を見たりした中で、アメリカンスナイパーっていう映画にとても興味を持ったんです。先生は見たことありますか」
「ええ、それなら。クリントイーストウッド監督の作品が好きでよく見るので、その映画ももちろん見ています。それで横田基地にも」
「それもありますね。米兵に会って戦争の話しとかを実際に聞いてみたりしたかったんですが、結局、お洒落なカフェと雑貨屋巡りで満足して帰ってきちゃいましたけど」
「お話しを聞く限り、薬は長瀬さんに効いているようですね。このまま続けましょうか」
「そうですね。続けてみたいです」
「では、また二週間分持ってきますね」
「先生」
「なんでしょう」
「夕方くらいなると手が震えることがあるんですが、これは薬の効果が切れてしまっているという身体の合図みたいなものなのでしょうか?」
「そうですね。ちょうど二十四時間が経つ頃に薬の効果が切れるというデータがあります。長瀬さんの場合は手が震えるんですね」
「はい」
「それは薬を飲めば治まりますか?」 
「治まります」
「わかりました。記録しておきます」
 主治医はパソコンに何かを打ち込み終わると診察室を出て、すぐに薬を持って戻ってきた。
「では、また二週間後に来院してください」
「わかりました」
「今日はもうお帰りですか?」
「いえ、これからアイドルのライブに行くんです」
「アイドルのライブですか。いいですね。時にアイドルのライブは人生を狂わせると言いますからね、長瀬さんも気をつけてください」
「そんなにどっぷりとはハマりませんよ、きっと。今日は友人に誘われて行ってくるんです」
「そうでしたか。では、楽しんできてください」
「ありがとうございます」長瀬はそう言うと診察室を出た。
 クリニックを出ると、さっきまであった青い空は所々、灰色の雲に隠れてしまっていた。
 長瀬は新高円寺から電車を乗り継ぎ、下北沢へ向かった。


最終話「感染」

 長瀬誠はコンビニで買ったおにぎり二つを食べ、それを食べ終えると鞄からピルケースとペットボトルの水を取り出した。ピルケースを持つ手は震えていた。薬の効果が薄れてきているのだろう。長瀬は昼間の主治医との話しを思い出していた。震える手で薬を取り出し、すぐに口の中に放り込んだ。そして、ペットボトルの水を勢いよく喉に流し込み、深く息を吐いた。
「早かったな。待ったか」
 長瀬が振り返ると麻田が挨拶代わりに光らせたペンライトを振っていた。
「まぶしいよ」
「いやー、気持ちが抑え切れなくてさ。お前もそんな陰気臭い顔してても案外楽しみにしてたりしてな」茶化すように麻田は言った。
「楽しみってわけじゃないけどさ」
「けどなんだよ」
「誘ってくれてありがとな」
「なんだよ、改まって。水くせなぁ。お前のその痩せ細った身体とあの散らかった部屋を見たらなんかできねえかなって思っただけだよ」
「それで、アイドル」
「そうだよ。アイドルは病んだ心に刺さるぞー。俺も幾度となくアイドルに助けられたもんだよ。アイドルは薬みたいなもんだな」
「薬ねぇ」長瀬の頬に一粒の雨が伝った。

 外からアスファルトを砕くような激しい雨の音がしていた。ライブハウスの中はすでに多くの客で埋め尽くされていた。長瀬と麻田は前方に行くことを諦め、ライブハウス後方の壁に寄りかかっていた。
「そういえば、今日のライブってなんてアイドル」
「言ってなかったっけ。ソルシエールってアイドルだよ」
「ソルシエール。有名なのか」
「ある意味有名ちゃ有名だな」
「ある意味ってどういうことだよ」
「お前最近テレビとかネットとか見てないもんな。このソルシエールってアイドルのメンバーはさ、いろいろあった子たちが集まったアイドルグループなんだよ」
「なんだよ、いろいろって」
「俗に言うスキャンダルを起こした子だったり、メンバーの中に病気の子もいたりしてさ。そいう子たちが集まって再出発しようっていうコンセプトで始まったアイドルなんだよ。最近の話しなんだけどさ、もうすでにスキャンダルの噂が上がってて、メンバーのひとりのニヤちゃんて子がプロデューサーと出来てるっていうんだよ。いろいろやばいだろ」
「へぇ、そうなんだ。曰く付きのアイドルなのか」
「言い方よ。曲聞いたら絶対お前も人生変わるぞ」
「んな、大袈裟な」
 長瀬が客席が隙間なく埋まっていく様子を眺めていると、ひとりの男に目が留まった。
「あ」長瀬が男を見て思わず発した。
「どうした」
「ちょっと知り合いがいたから声かけてくる」そう言うと長瀬は人混みを掻き分け、その男に近づいた。
「店長」長瀬はそう言い、男の肩を叩いた。
 男は呼ばれた方へ顔を向けたが、誰に声をかけられたかわからない様子だった。
「元橋店長、僕ですよ」
 元橋は長瀬の顔をじっと見つめて言った。
「長瀬! お前、体調は大丈夫なのかよ」
「やっとわかりましたか。おかげさまで良くなってきています」
「そうか、それはよかった。でもお前、めちゃめちゃ痩せてんじゃねぇか! どこいったんだよ、あのハンバーガーでできた肉はよ」そう言いながら元橋は長瀬の腹のあたりを摩った。
「ちょっとやめてくださいよ」長瀬は笑いながら言った。
「なんでこんなとこにいるんだよ。おまえ、アイドルとか聴かないだろ」
「友達に誘われて試しに来てみたんですよ」長瀬は麻田の方を見て言った。それに気づいた麻田が元橋に会釈をした。
「店長こそ、なんでアイドルのライブにいるんですか」
「聞いて驚け」
「なんですか、その得意げな憎たらしい顔は」
「ソルシエールは俺のプロデュースだ」
「え?」長瀬は目を見開き、元橋の顔を見た。
「もうひとつお前にサプライズをやろう」
「なんですか?」
「ソルシエールのメンバーにあの子がいるぞ」
「あの子ってだれです」
「新里摩耶ちゃんだよ」
 長瀬はその名前を聞いた瞬間、自分の心臓に強い衝撃を感じた。そして、鼓動は早くなり、呼吸も乱れていった。元橋が何か得意げに話しているが、長瀬は何ひとつその内容は頭に入ってこなかった。
「じゃあ、俺は楽屋戻るから。楽しんでいけよ」元橋は長瀬の肩をひとつ叩くと後方のドアから出ていった。

 辺りを見ると身動きが取れないほど客がライブハウスを埋め尽くしていた。どこか異様な雰囲気が会場に流れる中、会場は暗転し、低音のよく効いたSEが流れ始めた。客たちはそのビートに合わせて手拍子を始めたり、メンバーの名前を叫んだり、歓声があちらこちらで上がった。麻田も飛び跳ねながらペンライトを振り「あいかー!」と叫んでいる。
 やがてSEが止まり、それと同時に客の歓声も消え、静寂が辺りを包んだ。長瀬の耳の奥底で残響が蠢いていた。
 スポットライトがステージを照らすと、ステージ袖から静かに女の子たちが現れた。静寂は保たれている。残響は続く。
「ソルシエール、始めます」真ん中に立つ女の子がそう告げると、スピーカーからディストーションの効いたギターイントロが会場を響かせた。そこに、ドラム、ベースが重なり、最後にサイケデリックなシンセサイザーが疾走感のあるメロディーを鳴らした。
 客たちはお互いに体をぶつけ合い、叫び、ペンライトを振り回している。
 ステージ上の彼女たちは髪を振り乱し、激しく、可憐に舞っていた。そのアイドルの中のひとりに長瀬を蠱惑する眼差しを向ける女の子がいた。長瀬もじっとそのアイドルを見つめていた。
 一曲目の演奏が終わる。
「いいだろ、ソルシエール」麻田のペンライトを握る手に力が入っていた。興奮しているのだ。
「なんか思ってたのと違って驚いてる。なんかもっとアイドルアイドルしてるのかと思ってた」
「だろ。このギャップがいいだよ」
「ニヤって子はどの子」
「あれだよ、あのツインテールのピンク髪の子」
 長瀬は心臓をぎゅっと握り潰されるような痛みを感じた。ニヤは新里摩耶であった。
「じゃあ、早速次、新曲行きますね」そうアイドルの子が告げると、客たちは太い声を会場に響かせた。
「この曲は九十年代のメロコア 、スカコア、ハードコア、ミクスチャーが盛り上がっていたその当時に活躍されていたバンドの方が書き下ろしてくれて曲です。その当時の想いや、そういった音楽が廃れてしまった哀しさ、そして、私たちの再起にかける想いがこの曲に詰まっています。それでは聞いてください」アイドル全員がマイクを口元に近づけ、息を吸い込んで言った。
「真夜中に咲くガランサス」
 スラップベースからのイントロ、そこへ四つ打ちのバスドラムが加わる。さらに、ハイハット、そしてスネアのリズムが客たちの体を揺らす。そのまま、囁くような彼女たちの歌が乗っかる。重なる音がループする。
 長瀬はぐるぐると会場が回っているように感じた。
 十六小節それが続き、十六小節目の最後、突如音が止まり、二分休符が入る。
 パンと破裂音が鳴った。何が破裂したのかわからない。実際に何かが破裂したのか、自分の頭の中の何かが破裂したのか、長瀬は混乱していた。
 客たちはお互いに体をぶつけ合ったり、肩を組んだり、手を上げて身体を揺らしたり、あちらこちらで咆哮があがっている。
 長瀬は口を大きく開け、眼は白目を向いていた。麻田は彼の様子に気づかず踊り散らかしている。
 長瀬は次第に手が震え出し、頭を左右に大きく振り始めた。そして、奇声を発し、ステージ目掛けて走り出した。長瀬は客たちを突き飛ばし、柵を乗り越え、新里摩耶の前に立ちはだかった。長瀬は一瞬だけ口角を上げた。そして次の瞬間、長瀬は新里の首元に噛みつき、首の皮を噛みちぎった。新里が持つマイクが首の皮が引きちぎられるぶちぶちぶちぶち! という耳障りな音を拾った。
 新里は何が起こったのか分からず、暖かく感じる首元に手を当てた。その手を見ると、手は赤く染まり、首から肩、胸元へ温かい血が流れ落ちた。
 長瀬は新里を見つめながら口を大きく動かし、彼女の首の皮を咀嚼していた。
 彼女は我に帰り、「いやー!」と叫んだ。マイクがそれを拾い、キーンとハウリング音が客たちの耳に突き刺さった。
 音楽が止まり、他のアイドルたちの叫び声が連鎖する。マネージャーらしき男がステージ袖から駆け出してきて、長瀬に飛びかかった。マネージャーと長瀬はステージ上に転がり、揉み合っている。それに寡勢しようと客席にいた客たちが次々と柵を越えてステージ常に上がってくる。長瀬は客たちに羽交締めにされて身動きが取れなくなっているが、笑みを浮かべながら咀嚼を続けていた。
 首の皮を噛みちぎられた新里は他のメンバーに連れられて楽屋に運ばれていた。彼女の意識は朦朧としていた。タオルで止血をするが、すぐにタオルは赤く染まっていく。客席の方で「救急車」だとか「警察」だと叫び声が聞こえる。他のアイドルたちは血で染まっていく彼女をただ見ているしかなかった。
「おい、おまえなにやってんだよ!」麻田が取り押さえられている長瀬に近づき言ったが、長瀬には彼の声が届いていないようだった。
 麻田は何人もの男たちに取り押さえられ、それを振り解こうと必死にもがく長瀬をただ呆然と静観することしかできなかった。
「きゃー!」楽屋の方から複数の叫びが聞こえた。それと同時に楽屋で何かが倒れる音や「やめて!」「来ないで!」と叫ぶ女性の声がステージ上まで聞こえた。その叫び声が推しのアイドルのものだと気付いた麻田は反射的に楽屋へと駆け出していた。
「あいかちゃん!」楽屋に入るや血の臭いなのだろ、それが彼の鼻の奥を突いた。
 フロアには首から血を流し倒れている女の子がいた。その血でフロアが血の沼のようになっている。その女の子は陸地に打ち上げられた魚のようにビクンビクンと身体を痙攣させていた。
「あいかちゃん!」麻田はその女の子が自分の推しだということにすぐに気付き、駆け寄り、うつ伏せになる彼女を抱き上げた。
「しっかりしてよ、あいかちゃん」彼女の首の肉は抉られ骨が見えていた。そこから止めどなく血が溢れ出る。
 彼は周りを見回した。楽屋の隅で怯えている女の子たち、そして彼女たちと対峙してステージ上で長瀬に首を噛みちぎられた新里摩耶があいかの首の肉を咀嚼をしながらじっと彼女たちを見つめていた。
「どうなってんだよ」彼は目の前の不気味な光景に震えが止まらなかった。
 新里はにたーっと笑いながら怯えるアイドルたちに近づいていった。
「来ないで」
「摩耶ちゃんやめて、お願い」
「どうしてこんなことするの」
 アイドルたちは目の前の恐怖によってその場から動けずただただ悲痛な言葉を新里に向かって叫んでいるが、新里にはそれが面白いのか、彼女の口角は徐々に上がっていった。
 麻田は首から止めどなく流れる血を流すあいかをなんとかしようと思うも、何もできずにいた。
 客席の方からは男たちの怒号や悲鳴が続いていた。
 こんな状況にも関わらず、麻田はなぜこんな悲惨なことになってしまっているのか考えていた。

 それは、ちょうど一カ月前に遡る。
麻田はカウンセリングをしてくれる精神科クリニックなどを探していたところ、自宅のポストにPTSDを専門にしている臨床心理士がいるカウンセリングルームのチラシが入っているのを見つけ、すぐに予約をしたのだった。
 この頃、日本中でPTSDで苦しむ人たちが増え、病院の精神科、精神科クリニック、そしてカウンセリングルーム等の受診が難しくなっている状況だった。
 そこは、高円寺のあずま通り商店街の路地を少し入ったところにある築年数四十年は経つであろうアパートの二階の一番奥の部屋にあった。部屋のドアには「カウンセリングルーム マツユキソウ」と書かれたマグネットシートが貼られてあった。
 麻田がインターホンを押すと、中からドアが開き、「どうぞ」と髪の短さが印象的な女性が麻田を迎え入れてくれた。
「予約した麻田です」
「臨床心理士の鈴木亜希子です」
 麻田は鈴木亜希子を名乗る彼女をどこかで見たことがあるか、どこかで会ったか、などと記憶の奥底を探索していたが彼女の質問にそれはかき消されてしまった。
「今日はどうされましたか」
「最近うまく眠ることができないんです。いや、眠れるんですけど、無理やり寝ているというか」
「今日はお酒は飲まれていますか」
「すみません。匂いますか」
「ええ。お酒は一日どの程度飲まれるんですか」
「朝起きてまず飲んで、一時間ぐいらいですかね、ぼーっとしてまたお酒を飲んで、お昼くらいに出かけるかってなるんです。それで、散歩とかに行くんですけど、コンビニとかを見つけると、そこに入ってお酒を買うんです。それで、それを飲みながらまた散歩をするんです。それで、今日はここに来ました。すみまんせん」
「だいぶ飲まれてきたということになりますね」
「すみまんせん」
「率直に申しますと、今のお話を聞く限りでは麻田さんはアルコール依存の可能性が高いと考えます」
「やっぱりそうですよね。だと思いました」
「その原因はわかりませんが、アルコール依存症を治すためには原因を探る必要があります。しかし、今の麻田さんの状態では、それを探るのは難しいと考えます。ですので、まずはアルコールを抜いてきてください。ずっととは言いません。今から明日のこの時間までお酒を飲むのを我慢してください。そして、また明日、ここへ来てください。できますか」
「頑張ってみます」
「これ、麻田さんの趣味に合うかわかりませんが、お酒を飲むことから気を逸らせるかもしれませんので、試しに持っていってください」
「なんですか、これ」
「ソルシエールというアイドルのDVDです」
「アイドルのDVD?」
「アイドルにはあまり興味はありませんか?」
「いえ、以前ハマってことがありましたが、そのアイドルが解散して熱も冷めました」
「そうですか。きっと麻田さんを元気にしてくれると思います。アイドルは薬みたいなものですから」
「薬ですか。なんとなかわかります。見てみます」
「では、また明日」
 麻田はカウンセリングルームを出ると自宅へまっすぐ戻ることにした。自宅へ戻る途中には当然のようにコンビニやスーパー、そして酒屋もある。しかし、麻田は店の前を通る度に俯き、拳をぎゅっと握って「明日まで禁酒、明日まで飲酒」と囁くようにそれを唱えながら店の前を通り過ぎていった。
 漸く自宅に着くと、麻田は冷蔵庫を開けた。もちろん、冷蔵庫の中にはキンキンに冷えた酒が何本も入っていた。麻田はそれらを取り出し、キッチンへも持っていくと、プルタブを開け、中身を流しに捨て始めた。「明日まで禁酒」とまた唱えながら、すべの酒をキッチンへと流した。
 明日のカウンセリングまであと二十三時間かと麻田は思うと手が震え始めた。
 麻田は気を紛らわすために本を読むことにした。本棚を眺め、最近ネットで購入し読み始めたばかりの本を手にした。麻田はその本の「私と兄は生きる屍」というタイトルに惹かれ、購入をした。
 内容は、私(彼女)が兄の自殺現場を見てしまいPTSDになってしまったというところから話は始まる。なぜ、彼女の兄は自殺をしなければいけなかったのか。彼女はその真相を兄の婚約者と共に探り、真実へとたどり着いたという。約一年前に日本中が地獄と化したあの日に彼女もゾンビとなり、復讐を遂げたのだ。ゾンビ化した人たちは全員、その時、つまり人を食っている時の記憶は一切ないという。彼女も同じように復讐を遂げている時の記憶は一切なかった。だからその描写は書かれていなかった。しかし、麻田はその日、人が人を食う現場に居合わせていたこともあり、その描写が本の中になくとも彼はその様子を思い浮かべることは容易であった。麻田はその時の記憶を思い出すと、激しい動悸に襲われたり、吐き気を催したりすることがあった。
 麻田は本を読むことを一旦止め、鈴木亜希子から渡されたDVDを見ることにした。嫌な気持ちを吹っ飛ばしてくれるのではないだろうかと麻田は期待をしながらDVDを再生した。
 DVDはソルシエールのライブ映像が収録されたものだった。ライブが始まり、すぐに麻田は彼女たちのパフォーマンスに釘付けとなった。特に麻田が目を引いたのは、柏木あいかというメンバーだった。メンバー五人の中でも飛びぬけて目立つ子でもあった。どうしても柏木あいかに目がいってしまうのだ。彼女を見続けていくうちに、いつの間にか、麻田の心の隙間に彼女がすっぽりと入り込んでいた。一時間程度のライブ映像だったが、麻田はすっかり柏木あいか、そしてソルシエールのファンとなっていた。ライブ映像が終わり、彼の心臓の鼓動はドラムロールが鳴っているようなそんな今までに経験したことの感情が湧き出そうとしていた。
 麻田は夜風に当たって落ち着こうと散歩に出ることにした。部屋を出ると、もうすぐ陽が暮れる時間だというのに熱い空気が彼の呼吸を苦しくさせた。アパートを出てすぐに自動販売機で炭酸水を買って、喉を潤した。本当はキンキンに冷えたビールかハイボールで流し込みたいところだが麻田は、もう一口炭酸水を喉に流し込んで我慢をした。
 麻田の散歩コースはいつも決まっている。善福寺緑地公園の善福寺川沿いを歩き、和田堀公園を通り過ぎ、大宮八幡宮でお参りをして帰ってくる。時間にして三十分程度の散歩コースだ。
 麻田はスマホを取り出し、音楽配信サービスアプリを立ち上げた。そして、ソルシエールと検索し、彼女たちの曲のタイトルが画面に出てくると適当に一曲再生をし、その後はランダム再生で歩きながら彼女たちの曲に酔いしれた。
 いつものように散歩コースを歩いていると、善福寺緑地公園の川沿いのベンチに行き交う人々や川の流れを物憂げに見つめる青年に目が止まった。彼は高校の時の同級生だった長瀬誠だった。麻田はイヤホンを一旦外し、彼に声をかけようと思ったが、声をかけることを止め、イヤホンをまた付け散歩を続けた。久しぶりに見た長瀬はやせ細り、自分と同じ何か重たいものを抱えているようにも思えた。
 大宮八幡宮でお参りをし、来た道を戻ると、まだ長瀬は同じベンチに腰かけていた。麻田は遠くから彼を眺め、再び歩き出し、自宅へと戻った。
 麻田は少しだけ気持ちが落ち着いたと感じ、本の続きを読むことにした。
 彼女は復讐を無事遂げることができたことを、その現場に居合わせた兄の婚約者から聞かされた。それを聞いた彼女は心から安堵した。そして、心に痞えていた何かが取れたようにも思えた。しかし、その痞えていたものすべてが取れたと彼女は思えなかった。まだ、自分の中に異物がある。しかし、それはなにかわからない。彼女はその異物は何なのかを抱えながらどこかで暮らしている。そこで本は終わった。
 窓の外はしっかりと暗くなっていた。時計を見ると、十一時を少し過ぎたところだった。
 麻田はまだ眠気を感じていなかった。いつもならこの時間にビールとチューハイを数本開け、いつの間にか寝てしまっているというのが常だった。しかし、今日はそうもいかず、腹を満たせば眠くなるだろうと、カップラーメンを食べ、ベッドで横になりながらユーチューブでソルシエールの動画を見ることにした。自分でも不思議だなと感じるのは、なぜアイドルを見ていると心が落ち着くのだろうということだ。特に推しのアイドルの歌って踊る姿、特に中身がなく、つたない彼女たちのトークを見ていると心が安らぐのだ。
 いつの間にか麻田は眠りに落ちており、目が覚めるとカーテンの隙間から太陽の光が漏れていた。慌てて時計を見ると、まだ朝の六時であった。麻田は起き上がり、水道の水をコップ一杯飲んだ。アルコールが体内にない状態で朝を迎えるのはいつぶりだろうかと麻田を考えていた。身体はいつもより軽く感じた。
 お昼前、麻田はカウンセリングルームマツユキソウへと向かった。
「ここにいるといことは約束を守れたということですね」
「そうなりますね」
「昨日はどのように過ごされたんですか」
「昨日は、お酒の代わりにたくさん炭酸水を飲みました。それから本を読んでDVDを見て、散歩に行きました。先生」
「なんでしょう」
「ソルシエール最高ですね」
「そうでしょ。女性の私でもファンになってしまうくらい彼女たちは魅力的なんですよ。特にニヤは私の推しなんです」
「へえ、そうなんですね。先生はライブとかには行かれたりしないんですか」
「私は映像の中にいる彼女たちで充分です」
「そうですか。僕はライブに行きたいって思いました。生で彼女たちを見てみたいです」
「いいじゃないですか。是非行ってきて感想を聞かせてください」
「でも、ひとりで行くのはちょっと勇気がいりますね」
「どなたか友達を誘って行けばいいのではないですか」
「友達ですか。あ、先生、昨日、昔の友人を見かけたんです」
「お話はされたんですか」
「いえ、なんか声をかける勇気がなくて」
「どうしてですか」
「わかりません。彼とは高校の時の同級生で、仲が良かったんですよ。でも昨日、彼が病んでるというか、もしかしたら僕と同じようなことで悩んでいるのかなって見えたんです。先生だったら同じ状況なら声をかけていましたか」
「どうでしょうね。今の自分の状況を隠したいと思うなら声をかけないでしょうね」
「あー、それかもしれませね。僕が彼に声をかけなかったのは」
「でも、もし同じ悩みを抱えていたとするなら、その悩みを共有したいと思う気持ちもありますね」
「共有ですか」
「はい。同じ悩みを持つもの同士でお互いの悩みを聞き合うんです。ピアサポートというものなんですけどね」
「ピアサポート?」
「同じような立場の人がお互いを助け合うんです。同じような立場だから、お互いの痛みや何を求めているかということがわかるんです。今度また彼と会ったら話かけてみたらどうですか」
「そうですね。ピアサポート。いいですね、それ」
「そして、その彼とソルシエールのライブに行ったらいいと思いますよ」
「DVDであれだけ僕を元気にさせてくれたんですもんね。これは誘うしかないですね」
「是非誘ってあげてください。その方の名前はなんというですか?」
「長瀬誠です」
「長瀬誠さんにも、よろしくお伝えください。ちょっと電話をしてくるのでお待ちくださいね」
「わかりました」
 先生はスマホも持ち、外に出ていった。
「お待たせしました。それでは今日はこれで終わりということで」
 麻田はカウンセリングルームを出ると、「今日もいるかもしれない」と思い、善福寺緑地公園の方へ歩き出した。そこにはやはり長瀬の姿があった。麻田は長瀬に声をかけた。

 さっきまで、男たちの怒鳴り声や悲鳴が聞こえていた客席はいつのまにか何の音も聞こえなくなっていた。
 麻田は、暴動は収まったのだと思った。その瞬間、新里摩耶と睨み合っていたアイドルたちが悲鳴をあげた。
 楽屋の入口から顔や身体を血だらけにした男たちが雪崩れ込んできて、ソルシエールのメンバーたちを襲ったのだ。
彼女たちの血が天井や壁に飛び散り、楽屋を真っ赤に染めていく。そして、血しぶきが上がる度に彼女たちの悲鳴が徐々に小さくなっていき、肉を引きちぎる音、その肉を咀嚼する音だけが聞こえていた。
 麻田は絶望を感じていた。死がそこまで来ていることを感じていた。もっと生きたかった。そんなことを考えていると、右腕に激しい痛みを感じた。その右腕を見ると、柏木あいかが麻田の腕に噛みついていた。そして、一瞬にして右腕の肉を嚙みちぎった。麻田はその痛みからくる怒りで反射的に柏木あいかを蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた柏木は、麻田の方を向いてにたーっと笑っていた。
 麻田は頭の中、いやそれだけではない、体中が怒りという感情で浸食されていくように感じた。そして、麻田もまた柏木と同じようににたーっと笑うのだった。


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