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小林健太の写真は、どんな未来を写す鏡なのか?/一日一微発見246

最近ぼんやりとよく考えるのは、「東京」「オリンピック」によって僕らは何か変わったのかなということだ。

正確に言えば、スポーツの祭典としての東京オリンピックではなく、その「世界的な祭典」をあてこんで「未来」を歌いあげて「都市の変容」や「新しさ」、「クールな国としての日本」を無理やり前に進めようとした人々の「もくろみ」のことである。

コロナ禍によりその野望は、「残念にも」すべてついえさせて、夢は去った。
「彼ら」の思惑は、世界に対して「おもてなし」というキーワードでインバウンド観光立国=日本の列島改造をすすめ、世界第一都市としての東京を作り出すことだったろう。
そのような大風呂敷と未来の虚像を作り出し、人々の目を矛盾から逸すことが狙いであったろう。

しかし東京オリンピックという「から騒ぎ」は空振りに終わり、天文学的なムダ金が消え、今はアフターオリンピックの茫然自失とした中に東京はいる。

おまけにオリンピックは去っても、コロナは去ってはくれず、人々は、国や知事の言う「非常事態宣言」に耳など傾けず、「勝手」に振る舞おうとしている。

東京の渋谷や新宿、銀座を歩けばいい。人々はコロナ感染なんぞは、ワクチン接種により済んだ話として、普通に飯を食い、(隠れて)酒を飲み、笑いあっている。
前進も後退もなく、ただ「今」をそうやって過ごしているのだ。
ついに「未来」というコトバの魔力は失効し無時間的な「今」がひたすら続く時代に突入したのだろう。

ならば、どこへ向かって歩き出せばよいのか?

僕はマスクをつけていない若者たちが行きかう六本木交差点を抜けて、ANBというアートコンプレックスに向かう。写真家の小林健太(コバケン)の新作個展「#smudge」を見るためである(ちなみにsmudgeとは「指先ツール」のことである)。

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