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「花束みたいな恋をした」の感想

「カルテット」や「大豆田とわ子と三人の元夫」の坂元裕二が脚本した映画。上記のドラマが大好きだったので、ずっと気になっていた映画をついに観ることができた。以下ネタバレあり。


☆☆☆

たまたま出会った二人が「押井守を知っていた」ことをきっかけに仲を深める。二人は小説の趣味も合うし、映画の半券を栞にするし、天竺鼠のライブにも行こうとしていた。女の子は「今度ミイラ展に行きたい」し、男の子は「最近ガスタンクにハマって」いる。

言ってしまえば典型的なサブカル系。こんな時代、自分にもあったなあと思った。深夜のラジオを聴いて、小説を読んで、映画を観て。そんなサブカル系の大学生にしてみれば、夢にまで見たような理想的な相手と理想的な出会い方。自分が大好きなものを、大好きだと言ってくれる相手。こんな理想的なことってない。同じものが好きで、同じ感性を持っている。二人は履いている靴だって同じだった。

物語が進んでいくと、二人は少しずつすれ違っていく。菅田将暉の演じる麦くんはイラストを仕事にしようとしていたが上手くいかず。ひとまずした就職によって、趣味の時間がなくなっていく。そんな麦くんに対して有村架純演じる絹ちゃんは、仕事を理由に二人の時間を少なくなることに不満をためていった。

「同じだけど違う」。これがこの映画を観てぼくが思った一番の感想だ。二人は「同じものを見ていたはず」だった。でも果たして「同じことを感じていた」のだろうか。この映画では象徴的に二人が自分語りをするシーンがいくつか挟みこまれる。それらは確かに二人が同じことについて語っているように聞こえるのだが、しかしながらその感想はまったく同じではない。

最後のファミレスで、二人は涙する。過去の自分たちを見ているかのような大学生カップルを見て、二人は号泣する。あれが「どこで間違っちゃったんだろう」という涙だとすれば、二人は何も間違っていない。ただ「違っていただけ」だとぼくは思う。「同じだと思っていた」としても、本当は最初から「違っていた」だけなんだと。

麦くんが家で仕事をしているとき、絹ちゃんがゼルダを始めるシーンがある。麦くんはそれに気づいて「音出してやっていいよ」とイヤホンをつけてしまう。このシーンを観てぼくの奥さんは「ここが一番悲しかった」と言っていた。「音出していいよ」は優しさかもしれないけど、一番やってほしくないことをされたのだと。でも男のぼくからすれば麦くんの気持ちも痛いほどわかる。

これどっちが間違っているとかって話じゃない。どっちも間違っていない、とぼくは思う。でも間違ってないけど「違う」んだと思う。それを「男女の違い」としてしまうのは今の時代的にどうかと思うけど、少なくともこの二人は違う立場で生きている。それは「間違い」じゃない。でもきっと「勘違い」だったんだとぼくは思った。

結果的に二人は別れることになる。数年後、カフェでばったりと再会するが、そこで関係が戻るどころか声すらかけない。結果だけを見れば成就しなかった恋ということになるのだが、これは果たしてバッドエンドなのかと少し考えてしまう。

なんとなくだが、これはこういう類のハッピーエンドなのかなとも思う。ぼくは恋愛経験が多いわけではないけど、なんとまあ素敵な恋だったではないかと、二人は思っているような気がする。タイトルの意味はいまいち理解できていないけれど、だからこその「花束みたいな恋をした」なのであり、まるでグーグルマップにだけ残るような、微かでひとときの鮮やかな恋だったのだろう。

まとめ

まずは序盤のサブカル大好き系の二人の恋が始まるくらいのところは最高だった。最高すぎて観てて恥ずかしくなったというか、こんな恋ができていたら死んでいたかもしれなかった(その場合は花束が菊になっていたかもしれない)。その意味では、あと10年早く観ていたら感性にぶっ刺さって心の致命傷になっていたかもしれなかったが、35歳のぼくはなんとか一命を取り留めることのできるレベルの甘酸っぱさというか、急所は外れたという感覚。

なんとなくだけど、「好きなものが同じ」っていうのは結構危ういとぼくは思ってる。だって好きなものって変わるから。だからゴールデンカムイも7巻で観なくなるし、今村夏子のピクニックを読んでも何も感じなくなってしまったりする。その意味では「こんな娘と出会えたら最高じゃん」という甘ったるい理想をこなごなに打ち砕く映画であるとも言えるのかもしれない。

オダギリジョーがかっこよすぎた。なんだあれ。ずるい。

81点


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