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角田光代『笹の舟で海をわたる』を読んで振り返った私と母の関係

普段はスカッとする型の池井戸潤とか、感動やモヤモヤいろんな感情を沸き起させる湊かなえ、推理小説の代名詞である東野圭吾などを愛読するが、どういうわけか題名に惹かれて角田光代を手に取った。彼女について全く知識を持ち合わせていなかったが、以前にラジオで『対岸の彼女』のレビューを聴いたことはある。読んだことはないが、おそらく女同士の微妙な気持ちの探り合い、嫉妬や妬み、気の使い合い、そんな描写が上手い人なのだとは思った。

『笹の舟で海をわたる』は、まさしく1人の女性の感情を、時代の変遷と共に変化する、あるいは変化させなければいけない感情を、読者にわかりやすく描写した作品だ。もし私に子供がいたら、より共感できることが多かったのだろう。子供がいない私でも、本のキャラクターと全く違う時代を生きている私でも、感情移入してしまう場面が多々あった。その中で1番心に刺さったというか、モヤモヤした感情を私の中に残したのが、主人公と娘との関係だ。

子供は親の思い通りに生きてくれるとは限らない。良い大学を出てある程度の収入がある良い人と結婚し、しっかりとこの国で腰を据えて生きていくことが真っ当な生き方だなんて、私からしたら時代遅れも甚だしいが、主人公の彼女が生きた時代からすればこれが王道であり、まともな人生なのだ。この価値観の押し付けが、彼女から娘を遠ざけた。

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私は所謂「反抗期」という時期を過ごした記憶はなく、思春期特有の難しい態度などで母を苦しめた記憶はない。母もまた、リベラルな性格な持ち主で、自分の価値観を私に押し付けることは絶対にしなかったし、「こうしなさい」とか「これはダメ」と言われた記憶はほとんどない。私が地元の北海道を出て関西の高校に行きたいと言った時も誰よりも応援してくれたし、留学する時も就職する時も、一切反対はしなかった。「人生は一度きり。自分の思った道を行け」これが彼女のモットーだった。

母は昔から変なシックスセンスを持ち合わせていて、母の言うことはだいたい当たった。どんな悩みを相談しても「お母さんがこう言ったから」と思うと妙に納得できた。母の言うことに間違いはないと思っていたし、母もまた、長女として私のことを信頼してくれていた。

20代前半のある日、4年半近く付き合い、お互いの親にも紹介していた彼氏に突然別れを告げられたことがあった。何の前触れもなくあまりにも突然だったため、混乱した私は物が食べられなくなり、眠れなくなった。辛すぎて実家の母に電話で打ち明けると、母は開口一番こう言った。

「やっぱりね・・」

私たちが別れたちょうどその日の夜中、就寝中うなされた母は寝言で「1年はかかるわ」と言ったそうだ。横で寝言を聞いた父は不思議に思い、翌日2人で「いったい何のことだろうね〜」と話していたらしい。私が別れたと聞いてなるほど合点がいった、と。母がまた第六感を発揮してきたと思った。それからずっと引きずってしまいなかなか立ち直れずにいたが、1年後に新しい彼氏ができ、完全復活を遂げたのだった。まさに母親の寝言通り、ちょうど1年の月日が流れていた。

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母の言動に悩み苦しんだ時期と言えば、思春期をすぎて遥か、大人になってからだ。弟2人が先に結婚してから、なんとなく少しずつ、母の私に対する態度が冷たくなっていた時期があった。たまの休みに実家に帰ると弟2人の嫁達への態度と私の扱い方が目に見えて違った。2人の嫁の前で吊し上げるようにバカにされたこともあったし、明らかに私よりも嫁達を気にかけていますよ、という態度を徐に出してきた。

ショックではあったが、息子の嫁を可愛がらず、小姑である実の娘をわざと溺愛する、よくある嫌な義母になられるよりはマシかなと思った。弟2人のお嫁さん達はとても可愛くて良い子だったし、私は一緒に住んでいないしいずれは違う家に嫁ぐ身なので、これで良いのだと思うようにした。

どうしてこんなことになったのだろう。今でもたまにこの時期のことを振り返るが、理由はよくわからない。私のことを思って信頼してくれていることは間違いないのに、以前よりも関係が希薄になったような気がずっとしていた。

決定的だったのは、結婚を前提に付き合い、家まで挨拶に行った彼氏を否定されたことだった。意を決して2人で結婚の挨拶に行ったが、ダメだった。父がOKしてくれたものの母が納得せず、翌月にわざわざ飛行機で北海道から関西まで出てきて諭された。「あんた達が一緒になることを全く想像できない。理屈ではない、でもわかる。あの人じゃない」って。

泣きじゃくったし、これがきっかけで私が自殺でもしたら責任取れるんか!と反抗した。母は一切泣かなかったし、冷静で淡々としていた。

最近私のことなんて気にしていなかったのに、なんでこんな時だけ出しゃばるの。それなら普段からもっともっと気にかけてよ。なんでこんな時だけ。母に対する憎悪の念がどんどん生まれてきて、母と別れた後、しばらく話すことができなかった。親子関係が終わったとまでは行かないが、少なからず関係は変わるだろうと思った。

しかし、親の反対する結婚なんかに踏み切れるわけがない。もう母が関西までわざわざ出てきたその時点でわかっていたいたのだ。昔からあらゆる場面でシックスセンスを発揮してきた母。どんなに冷たい態度を取られても、母に対する信頼が揺らぐことなんてない。母が言うことが間違っているわけがないのだ。彼との未来はない。悔しいけど、母の言うことはいつでも正しい。

その後1年ずるずると付き合ったが、私から別れを告げた。

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その数ヶ月後、高校からの親友と結婚することになり、母に「紹介したい人がいる」と電話で報告すると「あ、その人だわ」と。もうここまで来ると母の第六感が怖い。その後2人で、結婚挨拶のために北海道に行ったが、幸せいっぱい、全員大爆笑の「娘さんをください」の儀式になった。父も母も、心から喜んでくれた。

前述の彼氏との別れ。あの出来事は私の心に深い傷を残し、立ち直るのにけっこうな時間がかかったが、同時に嬉しかった。母が私の人生のために、わざわざ海を越えて会いに来てくれた。娘が泣いて訴えても自分の考えを絶対に曲げなかった。母だって、目の前で泣きじゃくる私を見るのは辛かったはずだ。でも頑なに引かなかった母。母はこの日が来ることをわかっていたのだ。

当時夫は南米に駐在しており、一時帰国中の挨拶だった。その後すぐに南米に戻った夫。お互いの実家も遠く離れていたため、私はほぼ1人で結婚式の準備をしなければならなかったが、母が北海道から2回も出てきてくれて、一緒にドレスを選んだりといろんな準備に付き合ってくれた。母親と2人きりで過ごすなんて何年ぶりだろう。久しぶりに1人で母を独占できて本当に嬉しかったし、同時に「もうこれが2人で過ごす最後の時間になるのかな」と思うと寂しくて涙が溢れた。母に愛されているとあらためて実感した。

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結局、何の恩返しもできないまま嫁いでしまった。沢山愛情を注いでくれ、時には冷たい冷淡な態度で示してくれた母。母があの時全力で反対してくれなかったら、今私はここにいない。心から感謝している。

実家近くに住む弟夫婦や孫達に囲まれて幸せそうに暮らす両親を見るのは本当に幸せだ。弟2人とそのお嫁さんたちは、私にできない恩返しをせっせとしてくれている。

いつになるかわからないし、どれだけ時間がかかるかわからないけど、日本に戻ったら少しずつ返していこう。両親が幸せな余生を送れるように、心からの手助けをしたい。


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