見出し画像

過去作「聖人」

 小説をなるべく週一更新で書いているのですが、今週はちょっとお休み。文芸部時代、17歳の私が書いた作品を載せます。

聖人


 俺は生まれながらに聖人であった。
 生れ落ちたその瞬間から、母でさえ俺を崇めた。確かに俺は聖人であった。幼い頃から多くの者を救い、多くの奇跡を起こしもした。実際人々にとって、俺は神よりも大切なものとなった。ただ、ゆえにしばしば狂信的な者たちのために争いごとが起こった。そこで俺は教典を創った。様々な約束事をさせ、教えを説き、人々の望む世界を実現しようと努力もした。少なくとも、悲しみや苦しみ、絶望に囚われている人々を一人でも多く救いたかった。実際多くの者を救ったし、多くの悪を改心させもした。時には異教徒が武器を持ち攻め寄せたが、忠実な信徒は教典を守り、彼らに応じなかった。俺は教えの為に武器を取るようなものを信徒と認めなかった。教えは国中に、さらには国境を越えて広がった。
 だがその時はやってきた。突如時の王が崩御、新たにその弟が王位に就いた。前王は俺の信徒の一人で、俺はその庇護のもとにあったのだが、その弟の新王は俺を良く思っていなかった。或いは前王は弟に暗殺されたのかもしれない。新王は手下をして一人の女を送ってきた。俺が一人寝付こうとした時、女が入ってきた。女は俺に強く迫り、しかし俺は彼女を説いて帰した。神の名の下に彼女を赦してやった。彼女は泣いて礼を言って、異国へ逃げ延びると言って去った。しかし、そんな事は賢い新王の予想の範疇。俺もわかってはいた。新王は彼女を付けさせていたようだ。彼女は逃げおおせられず、捕まってしまった。そして俺が彼女を犯したとの噂が、異教徒(し王にも宗教はあった。)の間に広まっていった。俺の信徒達は真実を知っていたから惑わされるものはなかったが。俺たちは潔白を主張し、裁判が行われる事となった。信徒の一人が証言台に立った。彼は彼女を説き伏せる場に丁度入ってきたのだった。彼は真実を語った。次に異教徒の一人が証言した。「女は泣いて私に救いを求めた。」と。ふざけるな。お前たちのしたのは逆の事ではないか。しかし異教徒は言った。「我らこそが悪であり、お前があの女を救ったと言うならなぜ、お前の神は女を守らなかったのか。」と。神の考えなど俺にわかったものではないし、神というものがそうも万能ならば俺を聖人として遣わす必要などないではないか。彼女を守りきれなかったのは俺で、神ではない。そう主張した俺に、彼らは言った。「ならば女に証言させよう。」
 しばらくして、ひとりの男が入ってきた。そして言った。「彼女は先刻、自ら命を絶った。」
 さすがの俺も蒼白になった。―殺されたのだ― 
彼らは勝ち誇って言った。「見ろ。これが何よりの証だ。」・・・彼女の遺体と遺書(と彼らは言う)が運ばれてきた。短刀を両手に握り、胸へ突き刺した形で彼女は死んでいた。遺書も見せられた。確かにこんな汚い字は獄卒や官吏やらが書けるものではない。
〈あの男は私を辱めました。私は死んで、神に救いとあの男への裁きを求めます。〉
 後で信徒の一人に聞いた。彼女を犯したのは他でもない俺をおとしめた者達のほうであった。それに無理やり遺書を書かせた。いくら彼女は自ら短刀を握っていたとはいえ、そのくらいいくらでも工作ができよう。彼らには彼女を自殺へ追い込むことなど造作はなかったろうし。
 有罪判決が新王とその神の名の元に下った。無論、死刑である。しかし、俺は前王崩御の折から、前王と同じく俺の信徒で、前王と親交の深かった隣国の王の元へ信徒達が行けるよう準備しておいた。この国から出てしまいさえすればこちらのものだ。それに俺さえ死ねば新王も文句はあるまい。しかし、予想はしていたが俺とともにこの国に残ると聞かない者もいた。説得する時間はあまりに少なかった。泣く泣く聞き入れた者と、頑として聞かない者に分かれた。残った者達を新王がどうするかはわからないが、仕方がなかった。
 刑の執行が迫った。刻一刻と足音を増す死を前に、俺は、聖人ではあっても自分が一人の人間であることを強く確信した。
 幼い頃から崇められ、友らしい友もできず、子どもらしい子ども時代も知らずに育った。内心周りの〈普通の人々〉が羨ましかったのも事実だ。しかしだからこそ、俺は人々を、世界を救うことで報われたかった。果たして実際どこまで報われたのかはよくわからないが、教えに救われる者達が生きている限り、俺という人間は存在意義を失わない。・・・しかし、俺はどんな時も、聖人としてではあったにしても、あんなにも多くの者に慕われ、愛されていたではないか。人々の愛は、今この瞬間も俺を包んでいるではないか。生まれて初めて俺は声を上げて泣いた。涙が溢れて止まらなかった。涙が流れていくほどに、心は透き通っていった。愛されていることが誇らしかった。―さあ、彼らの神の仰せのまま、裁かれようではないか。地獄だろうと恐れるものか。どこへでも堕ちてやる。何とでも言わば言え、笑わば笑え。ただ堕ちてはつまるまい。宙返りのひとつもしてやろう。
 時は満ちた。俺は公衆の面前で死刑台に登った。祈りを唱え終わらないうちに、俺は死んだ。
 ・・・・・・
 私達国に残った信徒は死刑執行のその日まで、師がせめて死ぬことだけは阻止しようと奔走しました。しかし駄目でした。師もそれを望まれませんでした。ただ、幸運なことに死刑執行前日、私は師と面会が叶いました。師は私に遺言を託されました。教えを守り、復讐などせぬように、と。そして最後に、
「奇跡や希望を信じるのはいい。だが、俺の復活など望むなよ。」と。
 確かに師の死後すぐに、私達の中には、師の奇跡の力で、そうでなければ何らかの方法で、師の復活を望む者達が出てきました。師は私達のことをお見通しだったのです。師の私達への愛は空よりも大きく私達を包み、私は涙が止まりませんでした。
  
愛する者達へ
 俺は彼らの神によって裁かれた。
 これより俺は彼らの言う地獄へ落ち行く。
 お前達は俺の復活を望むかもしれない。
 だが死なせてくれ。
 俺はもう死んだのだ、
 もう一度生きろなどと、
 酷いことを言わないでくれ。
 今世の俺という一人の人間は、
 もうとっくに死んだのだから。
 希望はお前達の為に。
 俺にはもういらない。
 だから死なせてくれ。

 案ずることはない。
 彼らの地獄へ落ちようとも、
 最後に裁きを下すのは、
 たった一人の我らが神だけなのだから。

あとがき

 17歳の私の脳内をちょっと覗いてみましたが、いかがでしたでしょうか。当時の私は、なんだかこれを書いたはいいものの、学内の冊子に載ったものの、気恥ずかしくて、感想を言われるのも恥ずかしくて、なんだか自分が本当にこれを書いたんだろうか、と言う気がしていたような記憶があります。そんな大層なものではないのですが、他の文芸部員の作品とは毛色が違いましたし、実際の宗教のことを語れるような知識もなく、ただ幼い頃漠然と信じていた「神様」というものについて、考えていた時期だとは思います。「神様」は世界を見れば一つではなく、それで人は争っていて、けれどもそれは本当に「神様」の望むことなんだろうか?そもそも「この世界に唯一の神様」が複数いることの矛盾をどう考えたらいいのか?

 幼いころから、神社にも寺にも教会にも連れていかれ、4月に花まつり(灌仏会)でブッダ誕生の話を聞き、クリスマスにはキリスト誕生の話を聞き、他にも古事記、旧約聖書、ギリシャ神話、北欧神話、ギルガメッシュ叙事詩などを分け隔てなく?お話として聞かされ、と各国の宗教をちゃんぽんして育ったので、どうもどの神様も嫌いにはなれませんでした。母の本を漁るのが趣味でしたが、聖書や、「キリストの生涯」みたいな画集があると同時に、手塚治虫「ブッダ」があり、星座とそれにまつわるギリシャ神話の本があり、どれも好きでした。

 この「聖人」自体、ちゃんぽんで作られています。キリストの話、ブッダの話、そして後輩が上演した「ジャンヌ・ダルク」あたりが、色濃く出た部分ですが、ほかにもたぶん色々入っているのでしょう。

 というわけで(どういうわけだよ)、これは宗教、「神様」について考える話ではなく、人間について考えた話だと思います。初期イメージは自分で書いた詩でした。「あなた方の道化になろう、地獄の底まで落ちて、宙返りでもして見せよう、でも私を救うのは私の神だけ。」というような。

 そして、この物語はあくまで彼、もしくはその信徒の目線で書いてある話であって、おそらくは違う視点から見れば全く違う景色が見えるのだろう、というのは当時の自分も思っていて、もう少し丁寧に、視点を変えながら書いているのが、今進行中の小説です。少しは成長しているはず・・・?

 小説は現在第三章まで公開中です。いつもお読みいただいてる方はありがとうございます。もしお暇な方がいらっしゃいましたら、こちらも読んでみてください…!では。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?