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小説「氷磨と王子」第五章

これまでのお話

 下のマガジンにこれまでのお話をまとめてあります。第四章前半までは、あらすじをのせておりますがもう前回に引き続き要約が大変なので・・・省きます。


 これまでのあらすじと関係図を載せた、第四章前半はこちら。

 今回は第五章、物語はついに完結します。ちょっと校閲をサボってるのでまだまだ作業はありますが、とりあえず漢字やらなにやら細かいところは置いておいて、公開します。

第五章

第二十二節 暗雲

 空には厚く重苦しい雲が垂れ込めていた。
「今宵の月はさぞや美しかろうな。」
 王は空を見てにやりと笑った。お付きの小姓がそれを聞いていたが、この曇天の日に何を言っているのだろう、と思いつつ、教えられた通り小さく「はい、王様。」と同意した。
 一人の兵士が、甲冑をつけて王の前に現れた。王が言った。
「支度は。」
 兵士が答えた。
「万事整いましてございます。」
「よかろう。さあ、この国の憂いの雲は、一筋たりとも残さず、この儂が払って見せよう。今度こそ本当に、この神の国が成るのだ。」
 王の軍は城を発ち、東の山へ向かった。十年前、同じように東の山へ向かった兵士たちは、あの日を思い出した。

それは完全なる勝利の日であった。
それは凄惨なる殺戮の日であった。

 あの日を知ればこそ、もはやこの国に、王に逆らう者はいない。・・・東の山に在る者たちを除いては。

 東の山に近づくと、雨が降り出した。先頭の兵士が一人、王の所へ駆けてきた。
「王様、麓村に人がおりません。もぬけの殻です。」
 王は鼻を鳴らした。
「ふん、歓迎されてはおらぬようだな。…構わん。東の山を選んだのだろう。そんなにあの山の亡霊が好きなら、もろとも葬ってやろう。」
 王の側付きの位の高いらしい男が王に耳打ちした。
「本当に、王子様を…」
 王は一蹴した。
「お前は王子を気に入っていたな。裏切るのなら勝手にしろ。構わぬぞ。お前も死ねばいい。」
 男は何も言えなかった。この王のしていることが間違っていたとしても、自分にそれを止める力はない。あの将軍のような力も、将軍の部下たちのごとく自分を慕う兵も持たない。西の国の己の屋敷に妻も子もいる。十年前と同じだ。もう二度とあんなことはごめんだと思っていた。しかし、あれがそのまま己の身に降りかかることを恐れていた。守るべきは己が身、愛する妻と子。ならば今一度あの日に返るとも、厭うまい。

 雨は次第に激しさを増した。遠雷が不穏を告げていた。

 王の軍勢は王自らを先頭に、薄暗い山の広間に到着した。薄暗い木立の陰から、二人の人影が現れた。続いて背後に三人。王は手前の二人のうち一人、我が子、王子を見てにやりと笑った。王子はその手に刃を持ち、もう一人の頸に突き付けて、もう片方の手で、その者の両腕を背に回し、その自由を奪っていた。そのもう一人を、王は侍従であると思った。
「王子よ、とうとう己が運命を悟ったか。賢いぞ、死ぬのが怖くなって、侍従の首を差し出すか。」
 その時、王の背後で、空がすさまじい光と音とを放って裂けた。その光の中で、王子に刃を突き付けられた者が王を睨んだ。自信に満ちていた王の顔が一瞬にして青ざめた。王は取り乱して叫んだ。
「お前は誰だ!私は確かに殺したぞ!その顔を殺した!」
 「その顔」は王に冷たく言った。

「誰を、殺した。」

 王は震えていた。全身から震えが起こって止まらなかった。しかし神をも畏れぬ西の王は尚も笑った。
「ははは、ははははは。伯父上、いや兄上か?私がこの手で弑したのだ。あなた方は一体、今更なにができるというのか、私の邪魔をするな!消えろ!兵たちよあれらを討て!ここはすでに我が神の国であるぞ!かかれ!かかれ!亡霊もろとも討ち滅ぼせ!」
 すぐに兵たちの波が押し寄せるはずだった。ところが、全くその気配がない。王は我に返った。ふと側付きの男の声が耳に入った。
「王様、王様、何度も申し上げております、雷が落ちました。兵が混乱しております。我が兵団の只中に落雷があった模様、死んだ者が…」
 王は剣を抜いて、力まかせに横へ薙いだ。剣は男の腹に当たって固い甲冑をへこませ、男はもんどり打って倒れた。次の瞬間、大男が剣を抜き、王に正面から飛びかかった。将軍である。王の剣が将軍の頬をかすめたが、将軍は王をその万力のような力で取り押さえ、王の背後の兵に怒号を飛ばした。王の手から剣が落ちた。
「退け!そなたらの王を捕えた!天は王には味方しておらぬ!私は西の兵の誇り高きを知っている。その実力を知っている。徒に友を死なせるな。隣村まで伝令を走らせろ。麓村の者たちもそこにいる。武装を解き武器を捨て、怪我人を運べ。無下にはされるまい。王のことも案ずるな。殺す気はない。」
 王の剣を食らった男が立ち上がった。男は一瞬迷った。しかし将軍を見て、男は決心した。
「私は知っている。この将軍殿の人となりを。兵たちよ、そなたらも知るはず。この男を、この男が率いていたあの勇敢な兵たちを。人数で勝る我らに、果敢にも立ち向かったあのつわものどもを。天はお示しになった。もはや十年前のあの日には、再び立ち返るべからずと。」
 多くの兵が踵を返して退いて行った。残った兵もいたが、王を人質に取られては、なす術もなかった。

第二十三節 最後の賭け

 将軍に取り押さえられ、剣を首筋に当てられた王は、王子を睨んだ。
「どういうつもりだ。そ奴は何者だ。」
「父上、」
 王子は言い淀んだ。状況に面食らっていた。まさか雷が落ち、王が将軍に捕えられようとは。その手は横の者を未だ捕え、剣を向けていた。王子が何も言わぬかわりに、王子に捕えられた者が少々苛ついた様子で口を開いた。
「西の王よ、俺は亡霊ではない。あなたの兄でもなければ、亡き東の王でもない。残念ながら生きた人間だ。あなたは、私の父を、母を、兄姉を殺した、俺の仇だ。」
 王は鼻を鳴らした。
「ほう、東の王にはまだ子があったか。狸爺い、知っていたのか。」
 老人が答えた。
「東の王は、私に口止めをなさいました。確かにこの子、いえ、東の王子は、東の王の一番末の子、氷磨様にございます。西の王子よりひと月遅れて、この東の山にお生まれになったのです。」
 王の顔が歪んだ。
「ああ、やはりそ奴は亡霊だ。氷磨?兄上の名だ。あの男は私よりたったひと月早く生まれたというだけで、卑しき東の血が流れるにも関わらず、先王に王座を賜ったのだ。そして東の王、あの男は亡き兄上を、妻の胎に呼んだのだ。兄上の名までつけたのがその証。お前はやはり亡霊だ。」
 氷磨は、目の前の西の王を、己の仇を前にして、憎い、と思った。己の中にある底知れない闇が目覚め、大蛇のように鎌首をもたげた。しかしその向こうで、何かが言う。哀れだ、と。この男もまた、闇を抱えている。誰一人触れることすら許さない、巨大で孤独な闇。氷磨は、淡々と言った。
「西の王よ、俺が笛の主だ。そこの絆は私を庇ったようだが、それは私の望むところではない。こうして王子は俺を捕え、その刃のもとに屈服させた。」
 ようやく王子も口を開いた。
「父上、侍従の処刑を取り消していただきたい。そしてこの氷磨は我らに恭順を誓ってございます。麓村の者たちも、この者の命ある限りは西に逆らわぬと誓ってくれました。どうか、この者の命に、ご慈悲をかけていただきたい。」
 王は答えた。
「侍従は儂を謀った。そして亡霊は亡霊だ。殺せ。嫌だというのなら王子よ、儂は我が子とて容赦はせぬ。」
 老人が口を開いた。その声には抑えきれぬ想いが滲んだ。
「王よ、この期に及んで何を仰せられるか。亡き東の王、あなた様の御兄上の為にも、この者らをお許しなされ。王様の御心が休まらぬのは、満月の夜は一睡もお出来にならぬのは、あの方々をだまし討ちなさったゆえ。思い出してくだされ。幼き日々を。あなた様は御兄上にどれだけ愛されていたか。あなた様が兄を嫌うようになったのは、決して本来のあなた様が望んだからではございませぬ。母君の第二妃様を喜ばせるためです。またそれは母君のせいでもございませぬ。西の国の闇が、第二妃様や幼いあなた様を絡めとってしまった。兄、氷磨様はそれに心を痛めておられ…」
 王が「黙れ!」と遮った。
「兄上が私を愛していただと!ふざけるな!私を愛していたのは母一人だ。美しき西の姫、だが父は母を愛さなかった!卑しき東の女に心奪われ、母をないがしろにした!」
 老人は冷静だった。
「王様、本当は分かっておられるはず。母君は心を病んでおられた。無論あの方をないがしろにした父王様にも責任はございます。ゆえに母君はあなた様に縋った。あなた様を次の王にすることが心の支えだった。まだ幼いあなた様は、ただ純粋に自分を見て、愛してほしかったはず。爺は幼い二人の王子様が、お城のお庭で楽しそうに遊んでおられたのをよく覚えております。そしてある日、第二妃様がそれをお咎めになったことも。それからあなた様は、母君の望みを、幼いながら全て叶えようとなさってこられた。」
 王は激昂した。
「母上は正しい!私は一つも間違っていない!」
 降り続く雨が王を一層哀れに見せ、将軍が思わず少し手を緩めた。と、その瞬間将軍を眩暈が襲った。気付いた王が笑い、将軍の手を振りほどいた。「見よ、私は、儂は正しい!」
 将軍ははっとして自分の頬を、さっき王の剣がかすめた傷を触った。
「卑怯な、また毒・・・」
「気が緩んだか、我が最強の鉾であったお前が。いや、さすがというべきか、気を張っていれば己が毒に侵されている事すら気付かぬとは!」
 王は落とした剣とその鞘を拾い、剣を鞘に納め、再び抜いた。
「いや、毒、ではない。これは正義の剣。この鞘に仕込んだのは、薬だ。西の国の病の根源、東の卑しき者どもを消し去るための。」
 王子は氷磨から手を離し、白い刃を構えた。王の顔は青白く、しかし月のごとく冷たく冴えて、王子の背を凍らせた。王の様子は明らかに異常で、老人の言葉にすら固く心を閉ざし、もはやだれにも救いようがないように思われた。 
 侍従が氷魔にも対を成す黒い刃を手渡した。氷磨が侍従に耳打ちした。
「将軍を、頼む。」
「しかし、」
「頼む。屋敷へ連れていけば、サヤと姫様がいる。解毒薬もある。将軍の体力なら、まだ間に合う。王のことは任せろ。」
 将軍が力を振り絞って王に手を伸ばしたが、王は楽々と振り払い、尚も立ちはだかる大男の鳩尾に思い切り蹴りを入れた。倒れた将軍と王の間に氷磨が割って入り、侍従に命じた。
「行け。将軍を死なせるな。」
 王は剣を大きく振りかぶって氷磨を襲った。氷磨は身軽に避け、下段から斬り上げた。王は飛び退った。殺気立った氷磨に、王は左手を出して「待て」と言った。
「王子、どちらにつく。選べ。この亡霊を殺すか、父に殺されるか。」
 王子の答えはすでに出ていた。
「父上、どうあっても侍従を、氷磨を、殺すおつもりか。」
「ああ。それらは本来生きていてはならぬものだからな。」
 王子は息をのんだ。
「ならば、私は父上にこの刃を向けます。」

 王子は氷磨の隣に立ち、共に王に向け対の刃を構えなおした。氷磨が笑った。
「侍従、見ての通り、世話のかかる幼い王子はもうここにはいない。早く行け。」
 侍従は将軍の片腕を自分の肩に担いだ。
「すぐに戻ります。それまで、どうかご無事で。」
 王子も笑った。
「いらぬ心配をするな。それより将軍と姫たちを、頼む。」
 侍従は分かっていた。たとえこの場に残っても、自分は十分に戦える保証がない。十年前の心の傷の深さは、自分が一番よく分かっている。歩くこともままならない将軍を、引きずるように山の広間を去った。涙が滲んだ。それでも足を止めなかった。
 氷磨が老人にも「退がっていろ。」と言った。しかし老人は動かなかった。
「見届ける責任が、私にはございます。」
 そう言った。
 王の背後で、残っていた兵たちが剣を構えた。しかし、王が右手の剣をさっと横に振って牽制した。
「手を出すな。儂一人で十分。」
 氷磨がふっと笑った。
「卑劣で冷酷無比な西の王にも、まだ矜持はあると見える。」
 王は嘲るように言った。
「昨日立ったばかりの赤子が、この剣に一度も触れずに儂を倒せるつもりか。」
 王子が言った。
「もはや我らは子どもではございません。」
 王は目を細めた。
「ほう、いつの間に毛が生えそろった。いいだろう、受けて立つ。」
 王は二人の王子に突進し、斬りかかった。かに思われた。二人が避けることを予測して、王はそのまま二人を無視して進んだ。氷磨がはっと後ろを振り返って駆けだした。王は老人を真っ先に襲った。氷磨は素早く老人と王の間に割って入り、王の剣を受け止めた。王の剣をまともに受けては、力で押し負けてしまう。氷磨が王子を呼ぶよりも早く、王子が王の背に剣を向けた。王の動きが止まった。
「ふん、本当に父を殺す気か。」
「申し上げたはずです。私は、たとえ父上を弑し奉ることになろうとも、守りたいものを見定めました。私は今まで、私には何もないと思っていました。父上の子である以外なにも。父上に従っていればいいのだと、信じていました。」
 父の大きな背は、刀で脅そうとも微動だにしない。しかし、王子の言葉に耳を傾けるように動きを止めている。王子は柄を握る両手をぐっと絞った。
「ですが、今は違います。父上は間違っている。私はもう純粋無垢で誰かに守ってもらわねばならぬような赤子ではない。私は、この大地を踏みしめ一人で立つことができます。それに、大切なものを見つけたのです。愛する人、義に厚き兄、無二の親友。私は守りたいのです。共にありたい。鬼は鬼にあらず、神もまた神にあらず、容姿が、生き様がいかに異なっていようとも、信ずるものが違っても、手を取り合えると私は信じます。父上の兄君が、東の王が、望まれたように。私の母上と、侍従の母上が、私や侍従を等しく愛したように。」
 王はため息をついた。
「王子よ、そなたは若く、希望に溢れ、理想を掲げもするが、そなたが守らねばならぬものは目の前の大切なものではない。国だ。この世にあるは東の国のみならず、かつて我らが祖先が追われた海の向こうの大国、この東の山よりさらに東の国、我が国は彼の国々に蹂躙されるような弱い国であってはならない。我らが唯一神の御力をもって、一つの強い国を創らねばならぬ。そなたが耄碌爺いに何を吹き込まれたかは知らぬが、鬼の本性は所詮鬼だ。兄が私を愛していた?いいや、信じぬ。あれは私を内心あざ笑っていたはずだ。風邪をひけば見舞いと称してやってきたが、あの兄には風邪がうつらなかった。きっと呪詛をかけたのだ。母は難産だったという。私は体が弱かった。それも呪詛だ。東の王はその卑しい血で西の王族を乗っ取ろうとしたのだ。」

「違う」

 氷磨がはっきりと否定した。一点の曇りなく、あまりにも澄んだ赤子のような目で。
「耄碌したのは絆の爺様ではない。王よ、あなただ。呪詛?違う。呪い殺せるのならこの俺がとっくに憎き西の王を呪い殺している。あなたの兄が最期にあなたに賭けた言葉は、祝福のはずだ。“幸あるように”、そう言ったはずだ。許されざる罪を犯した、それでも愛してやまない弟のために。」
 王の顔がかっと怒りに染まった。
「ふざけるな亡霊!」
 王は剣を振りかざした。王子も身構えた。降ってきた王の剣を、氷磨は黒い刃で思い切りはじいた。王の剣にはもう先ほどのような重さがなかった。王の中で何かが、固く閉ざした牢をこじ開けようとしていた。次の瞬間氷磨は黒い刃を投げ、王の胴に組み付き、王の動きを封じた。すかさず王子がその背を袈裟に切った。が、浅かったようだ。王は倒れない。意地でも立っているつもりらしい。それどころか組み付いた氷磨の背に剣を突き立てようとした。王子は焦った。
「氷磨!離れろ!」
 氷磨が怒鳴った。
「構えろ王子!そのまま踏ん張れ!」
 構えた王子の剣に、氷磨は王を突き飛ばした。しかし鎧が邪魔をする。王子が渾身の力を込めても十分刃が通らない。王は剣を後ろへも振り回し、今度は王子を襲う。もうだめだ、と思った次の瞬間、王子の目の前が真っ暗になった。

 一瞬の暗転の後王子が我にかえると、王子は王の背の下敷きになっていた。刀の柄が王子の鳩尾に、鍔が王の鎧に触れていた。刃が王を貫いたのだ。王子を急に震えが襲った。終わったのだろうか。そう思った時、なんと王がむくりと起き上がった。腹には王子が手を離した刃が突き刺さったまま。王が起き上がると、ごろっと人影が転がった。王子は青ざめた。氷磨だ。腹から血が流れている。まさか王に組み付き、そのまま押し倒すように王子の刃で自分ごと貫いたのか。それだけではなかった。王の毒の剣が、その背を切り裂いていた。
 王子は氷磨に駆け寄った。王がそれを暗い目で見つめている。
「氷磨、氷磨、しっかりしろ。氷磨。」
 氷磨の顔を見て、王子はぞっとした。ぞっとするほど、氷磨は穏やかな顔をしていた。朦朧としながら、その口元が動いた。
「・・・愛している。私は・・・」
 そう、聞こえた。王の目が揺らいだ。王もまた失血で朦朧としていく中、氷磨の顔に兄の顔が幻のように重なった。兄は言った。
「私はまだ、そなたを愛している。たった一人の、愛しい私の弟。」
 そして笑った。
 地面に倒れ伏した王を、わずかな兵たちが麓へ運んで行った。そうするよう老人が命じた。

第二十四節 月満ちて

 将軍を屋敷へ連れ帰り、どうにか解毒薬を飲ませてサヤと沙耶姫に後を託した侍従は、広間へ向かおうとした。が、歩き始めてすぐに、氷磨を抱えた王子と鉢合わせた。侍従は青ざめたが、自分以上に憔悴しきった王子を見て、氷磨を引き受けて先に屋敷へ運び、サヤに任せてすぐに引き返し、王子に肩を貸した。
「爺さまは?」
「父上と共に、麓村に泊まり、明朝西の城へ帰られると。」
「王様は?」
「私の剣で深手を…だが生きておられるようだ。…氷磨は?」
「すぐに解毒薬を飲んだはずです。」
 雨は止んでいた。空は晴れて、やがて月が昇る頃には、将軍は安らかに寝息を立て、氷磨の容態も少し落ち着いて見えた。それを見てようやく、王子も眠りについた。沙耶姫も疲れて眠っていた。サヤと侍従だけが起きていた。
「サヤ殿、温かいものでも。」
 侍従が湯を沸かして、二人分茶を淹れてきた。
「ありがとうございます。」
 サヤはそう言って侍従の顔を見つめた。侍従は微笑んだ。
「きっと、大丈夫です。なにもかも、これ以上悪くはならない。」
 サヤは困ったように微笑んで、少し迷った挙句、侍従に請うた。
「笛を、吹いてくれませんか?」
 侍従は頷いた。満月に、美しい音色が響いた。彼らは知る由もないが、麓では王が兵たちに手当てを受け、その音色を聴いていた。王は目を覚ましていて、老人に問うた。その声は穏やかだった。
「あれはなんの音色だ。こんな美しい音色は聴いたことがない。」
「あれは満ち月の笛、今宵吹いているのは、我が弟子の方でしょうか。」
 王はしばらく黙った後、身体を震わせた。笑っているとも泣いているともつかない様子で、横たわったまま王は言った。
「そうか。あれが。…そうか。兄上。そうか、東の王よ。そうか、我が妃、王子の母よ。」

 呪いではなく祝福を。憎しみではなく愛を。恐れではなく信頼を。冷たいはずの月の光は、温かさを孕んでそう歌った。

第二十五節 氷磨

 夜明け前、サヤはふと目を覚ました。侍従の笛を聴きながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。笛の音がまだ響いていた。
「まだ、笛を吹き続けて・・・?」
 サヤは自分の寝ている場所に気付いて飛び起きた。自分が氷磨を寝かせた場所で、氷磨にかけた布団に、サヤは包まれていた。近くで侍従が寝息を立てていた。その手には笛がない。そしてまだ、笛の音は聞こえている。

「氷磨?…どこへ」

 庭へ出てみたが、氷磨はいない。笛の音に耳を澄ます。サヤははっとして走り出した。地面は雨でぬかるんで、幾度かすべって転びながら、サヤは走った。水音がする。大きくなる。川に近づく。上流へ。水をかき分け、岩や木をつたって、見えてきたのは滝、その側に祠。その場所で、氷磨は笛を吹いていた。傷を負い毒の抜けきらぬ体でどうやってここまで来たのか。サヤは呼びかけた。

「氷磨。」
「…サヤ。」

 この山奥ではわからぬが、少しずつ遠くの空は白み始めている。

 サヤは氷磨に駆け寄った。おもわず抱きしめた時、氷磨はサヤの腕の中へ崩れ落ちた。立っているのもやっとだったのだろう。
「月が、明るかったから。」
 氷磨は小さな声で言った。サヤは黙って氷磨を横たわらせ、その頭の下に自分の膝を当てがった。氷磨が柔らかく微笑んだ。
「サヤの顔を見たら、安心した。…少し、怖かった。」
 サヤは怒っていた。
「私が気付かなかったら!」
「どうしても、ここが、よかった。」
「氷磨、」
 サヤの目に涙が溢れた。ああ、この人は、いつから望んでいたのか。氷磨がそっと手を伸ばして、サヤの頬を伝う涙を拭った。
「サヤには、気付いてほしかった。でも、止められたくなかった。…すまない。水の中を。」
 サヤは首を振った。
「私は、大丈夫。…でも、」
「サヤ、きっと俺はまだ生きるべきなんだろう。でも、許してくれ。」
 氷磨はサヤの腹の方へ顔を傾けた。泣いているようだった。
「どうか、どうか健やかに。」
 そして再び顔を上へ向けて、サヤを見た。泣きながら、微笑んだ。
「幸あるように。愛しき人。」
 サヤは答える代わりに、背を曲げてそっと唇を重ねた。もう二人とも何も言わなかった。


 朝になって、サヤは一人屋敷へ戻った。庭先で沙耶姫が真っ先にサヤを見つけて駆け寄った。
「サヤ!どこへ行ってたの?氷磨は?こんなに泥だらけで濡れて…」
 サヤの手には、笛が握られていた。サヤは何も言えずただそれを見せた。沙耶は何かを察した。
「体を洗って、着替えましょう。今、侍従様が麓へ行っておられるわ。」
 続いて王子が駆けてきた。
「サヤ殿…!」
 サヤは王子を見た。王子はサヤの手の中の笛を見た。
「氷磨は?生きて、いるのだろう…?」
 サヤの目から涙が溢れた。王子は否定するように首を横に振った。サヤはどうにか口を開いて、王子に告げた。
「氷磨は、あの祠の側にいます。あの人は、帰ったんです。…愛する、家族の元へ。」
 サヤは膝から崩れ落ちた。泣きじゃくりながら、彼女は言った。
「王子様、お願いです。私一人では、とても。ですから、氷磨を、ここへ…」
 王子は混乱しながらも、「わかった」と言って駆けだした。沙耶姫がそっとサヤを支えて、屋敷の中へ導いた。

 侍従は麓につくと、王を訪ねた。老人と王は顔を見合わせた。王は言った。
「知らぬ。あらぬ疑いをかけられるは不愉快だが、あれが姿を消したというのか?あの体では確かに自分で動いたとも思えぬが、少なくとも儂は知らぬ。」
 老人も言った。
「昨晩は王も、ここの兵たちも、私も、疲れ切っておりましたので。」
 侍従は、王が本当に知らぬのだと悟った。疑うには王はあまりに穏やかであった。まるでつきものが取れたかのように。
「まあいい、もうあれには構うまい。儂は興味はない。侍従よ、王子に伝えよ。気が済んだら戻って参れと。次の王がいなくては困る。戻ったら祝言も挙げさせよう。したがって、お前と将軍は恩赦とする。この先も王子を支えよ。」
 侍従は王の前に跪いた。

「仰せのままに。王よ。」

 侍従が屋敷に戻ると、サヤが茫然と座っていた。侍従は沙耶姫から事情を聞き、教えられた方へ山を歩いた。王子が氷磨の身体を抱え、戻ってくるのが見えた。黙って王子に手を差し伸べて、二人で氷磨を運んだ。


 村の人々も呼んで、弔いの宴が催された。将軍は終始泣いていた。沙耶姫はずっとサヤに寄り添った。王子は村人と、氷磨のことを話した。侍従が笛を吹いた。
 サヤが言った。
「氷磨は、村にはあまり、なじまなかったけれど、村人は氷磨のことを愛していた。東の王様の御子だもの。あの方はずっと、私たちを気にかけてくださったの。…王子様、氷磨と絆を結んでくださってありがとう。氷磨の人生の中で、あれほど満ち足りて、生き生きとした時間は、東の王様が生きておられた時と、この幾月かだけだった。ここ最近は私も初めて見るような顔ばかり、ずっと見ていた気がするの。幸せだったと思う。」
 王子は答えた。
「いいや、与えられたのは私の方だ。氷磨がいなければ、きっと私は侍従の苦悩にも気づかず、間違った王の思うままだったことだろう。それに氷磨には、サヤ殿、あなたがいた。王の凶刃に倒れた時、氷磨は愛していると言った。私は、そなたのことを言ったように思う。」
 サヤの瞳が潤んだ。王子は微笑んで続けた。
「サヤ殿、私は必ず、氷磨に恥じぬ王となる。父が命を奪ったものたちの思いに恥じぬ王となる。氷磨は私を友だと言ってくれた。その言葉に報いたい。」
 サヤがふっと笑った。
「真面目ね、王子様は。そんなに気負わなくても、氷磨はきっと、あなたがこの先、王様になっても、お爺さんになっても、ずっと氷磨のことを憶えていてくれれば、変わらず友としていてくれれば、それでいいんじゃないかしら。」

 その時、さあっと風が吹き抜けた。サヤの笑顔に応えるように、侍従の笛に響き合い、将軍の涙を乾かし、沙耶の美しい髪を揺らして、王子の背中を押すように。一羽の鷹が、上空で輪を描いた。サヤは風に言った。

「幸あるように、愛しき人。…氷磨。」


 王子たちが西の城へ帰る日、サヤは笛と、黒い刃を侍従に渡した。侍従は拒んだが、どうしても、とサヤは半ば無理矢理その手に二つを握らせた。
「お願いです。あなたが持っていてください。どうか。氷磨もそう望むはず。」
 王子も侍従に言った。
「それらを携え、これからも共に歩いてほしい。もう二度と過ちを犯さぬように、その戒めとして。氷磨のことを忘れぬように、その証として。従兄上が私の傍らで、それらを持っていてほしい。」
 侍従は刀と笛を押し頂いて、言った。
「わかりました。私が預かりましょう。これより先も、私は東と西の絆として、お二人と歩んでまいります。どこまでも、共に。」
 サヤが言った。
「皆様、どうかお元気で。」
 沙耶姫が目を潤ませて、サヤを抱きしめた。サヤはその背に腕を回した。
「サヤ、どうかあなたも元気でね。身体を大切に。便りを送るわ、きっと返事をして頂戴。また会いましょうね。絶対よ。」
「ええ、沙耶様。」
「沙耶!」
 サヤが声をたてて笑った。
「ええ、沙耶。私の親友。幸あるように。」
「幸あるように。きっとまたすぐに会えるわ。」

 空はどこまでも青く、澄み渡っている。今宵の月は、きっと何より美しいだろう。

終章 子守歌の続き

 母は我が子に歌う。この国の言い伝えの歌を。

月の光の満ちし時
耳を澄ませば
笛の音響く

美しき調べは善き徴
恐ろしき調べは対のこと

善きことに進め我が子よ
悪しきは改めなさい
己が身を滅ぼすその前に

東の山には鬼がいた
心優しき
鬼がいた

月を愛して笛を吹き
人を愛して生き抜いた

人を愛せよ我が子よ
美しき鬼のように
愛にあふれた王子のように

 その歌に、幼い王子は安らかに眠り、側で遊び相手の少年が微笑む。王は東の塔に登り、傍らで侍従が笛を吹く。音色は優しく響き、東の山まで届くだろう。幸あるように、この国に。幸あるように、全ての人に。幸あるように、愛しき人。

あとがきとねたばらし

 ようやく終わりまでたどり着きました…(息切れ)。見出し画像も今回は書きおろしです。最初から最後まで読んでくださった方には本当にありがたすぎて表彰状を差し上げたいところですが、もしよければ感想などいただけるとなお嬉しいです。
 さて、このお話は、前にも書いているかもしれませんが、14歳ごろの構想が元になっています。そしてさらにその構想の元になったのがとある楽曲です。

Do As Infinity「誓い」「黄昏」

 
この二曲が始まりでした。「戦国BASARA」(カプコン)で使われていた曲のようです。さらに言えば、Do As Infinityというアーティストを知ったのは「犬夜叉」(高橋留美子)という作品からで、最初考えていた頃はこの物語の主人公「氷磨」も、もっと妖怪じみていました。「人を食う妖怪が出るらしいので、王子が退治に行き、しかし彼が人を食うというのはデマであり、次第に絆を深め、しかし最後には結局氷磨を殺すことになってしまう」そんな筋でした。そこから少しずつ世界を広げ、侍従や王様、沙耶姫、サヤ、登場人物が増えて言った模様です。「精霊の守り人」(上橋菜穂子)シリーズなんかの影響もあるかもしれません。

 この作品に込められているものはなんだろう、と今考えると、構想を練り始めた年齢からも、思春期のいわゆる「中二病」ともいうような、「光と闇」に強く感化される年齢のお話なのかなと。氷磨のように危なっかしく激しく、王子のようにまだ自立も十分ではない。それでも彼らなりの理想や正義を掲げて、世界に立ち向かっていく。「氷磨」なんて名前がもう中二病だよな、なんて思ったりもします(笑)
 ちなみに他の登場人物の多くには名前がありません。「氷磨」が王様の兄の名であり、その名前を東の王が我が子につけたのと、二人の「さや」という女の子たちを除いて。おそらくは、「サヤ」のようなカタカナ表記が東の民族の名前で、西では「沙耶」「氷磨」のように漢字を使うのでしょう。あくまで日本語による表現上での話にはなりますが。他の人物にも名前はあるはずなので、「王子が侍従の”名”を呼ぶ」なんてシーンも一瞬あったりはするのですが、どうにもしっくりくるものがなく、「王子」とか「侍従」とか言っていた方が筆者本人が人物を掴みやすかったのもあり、このような書き方になりました。侍従は絆とも呼ばれたり、どうしても立場から呼称が異なってくるのは難点でしたが。

 氷磨には本当は最近クライマックスを書く中で、生きてほしいとも思ったんです。しかしこの子は何しろ思春期の産物なので、大人の言うことを聞きません。クライマックスもここ数年何度も書き直して、ようやくすべてのピースがうまくはまった形がこれです。氷磨は結構前半から「自分が死ねば」と言っています。ただ最後、結果はどうあれ彼の中で、王子たちとの出会いによって、自己否定が肯定に変わっていたらいいなと、それだけは思って書きました。
 王子はようやくちょっとはしっかりしたかな、と。まだまだ彼には侍従や、王や、老人の知恵が必要で、困難も多いでしょうが、彼の中にはなにか、「目指したい理想」が見えたのではないかなと。無気力でめんどくさいのも思春期ですが、物語冒頭の王子はそれなので。

 そしてヒロインたち。二人とも危なっかしい王子たち(16歳)よりは少し大人な、それでも少女でもある19歳という設定をしました。この二人も出会うことによって人生が変わったのだと思います。天真爛漫な沙耶は、お城の中ではきっと女性たちの中で少し浮いた存在にもなりかねません。対して寡黙でぶっきらぼうなサヤは、村の娘たちとはしゃいだりすることは少ないのでしょう。この二人は全く身分も性格も違いますが、なんとなく気の合う二人です。きっと一生、親友でいるのだろうなと思います。

 読んでいただいた方、本当にありがとうございました。これからも少しづつなにかしら、書いていけたらと思っています。ちょっと挿絵も描いてこっそり付け加えるかもしれません。。。かも。あくまでも。

 最後に。作家さんってほんとにすごいな…!!

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