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たったひとりの宿泊客

20畳ほどあろうか。がらんと広い部屋には大人がゆうに3人は収まりそうな大きなベッドと枕元の円形のデスク、全身を映す姿見、シャワールームがある。日本円で1泊1,200円。これまでに泊まってきた数々の安ホテルの中でも最高の部屋といえるだろう。

長距離バスで到着したその砂漠の宿は、シーズンオフということもあり宿泊客が私1人だけのようだった。まずは重いバックパックを床に降ろし、ベッドに横になる。疲れがたまっていたのか、気づいたら外が暗くなりかけていた。

このホテルでは朝食と夕食が食べられるらしい。フロントに行くと、チェックインの対応をしてくれた若者が「食事にされますか?」と片言の英語で聞いてきた。お願いすると19時半には用意ができると言う。それまでホテルの周辺を散策しようと裏庭へ出てみると、そこには一面の砂漠が広がっていた。

予定の時間ちょうどにレストランへ行くと、やはり私の他に客は誰もいない。テーブルにはカトラリーとナプキンが1人分用意されていた。温かみはあるものの仄暗い灯り。手元の料理がやっと見えるくらいの明るさだろう。

メニューはあらかじめ知らされていない。料理を運んできたのは先ほどフロントにいた若者だった。どうやら、彼が1人でフロント、キッチン、清掃などをすべて担当しているようだ。

「レモンとチキンのタジンです」

運ばれてきたのはモロッコの伝統料理タジンだった。モロッコでは塩漬けにしたレモンを料理によく使う。この料理にも生ではなく、発酵させた塩漬けレモンが丸ごと使われていた。大振りのチキンもスパイスでおいしそうに色づいている。きゅうりやトマト、紫玉ねぎなどをダイスにカットしたモロカンサラダには、黒オリーブが添えられていた。

昼ごはんを食べ損ねていたため空腹でもあったが、それを差し置いてもとてもおいしいタジンだった。さっぱりとしたサラダに、皮がパリッと香ばしく焼けたパン。食後にはシンプルなブランマンジェが供された。「とてもおいしかったです」と若者に伝え、レストランの扉から裏庭へ出る。目の前には頭上に降り注ぐかのように星が輝いていた。

このホテルへは5日ほど滞在する予定だ。翌日も相変わらず他の泊まり客の姿はない。広々としたロビーで本を読んでいると、件の若者が楽器らしいものを抱えてやってきた。「お邪魔でなければ、モロッコの音楽を演奏してもよろしいですか?」ぜひにとお願いすると、木製の弦楽器を鳴らしはじめた。楽器の名前を聞き忘れてしまったが、少し哀愁を感じるメロディーが陽がふんだんに差し込む明るいロビーと似つかわしくなかった。

翌朝、8時にレストランへ向かう。席に座ると間もなくカゴに入った温かいパンとジャム、バター、フルーツ、ヨーグルト、オレンジジュース、ミルクたっぷりのコーヒーが運ばれてきた。数分後にはパセリの緑が色鮮やかなスクランブルエッグも。バターの香りが食欲をそそる。

朝食をさっと済ませ、フロントへと向かう。昼食にもなるスナックを買いたいが、ホテルの周辺には店が見当たらない。どこで手に入るかと若者に相談してみた。「11時頃でよければ街に行くので、お連れしますよ」ありがとうと礼を言ってひとまず部屋へと戻った。

約束の時間に入口に向かうと、そこにあったのは小さなバイクだった。ヘルメットを渡され、後ろに乗るように促される。車で行くものとばかり思っていた私は躊躇したが、他に手段はなさそうだ。恐る恐る荷台とも呼べそうな後部座席にまたがり、若者の肩をしっかりと掴む。

自身はヘルメットをかぶっていない若者はかなりのスピードを出している。車や人の姿は見当たらず、慣れるとまっすぐな茶色の土の道を走るのは爽快だった。15分ほど走り、彼が「街」と呼ぶエリアに到着した。

2へ続く





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