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父と五右衛門風呂

父のことを思い出すとき、決まって風呂の場面が現れる。私が小学6年生まで暮らしていた借家には、五右衛門風呂がついていた。光が入らない薄暗い風呂場で、以前使っていた蛇口が抜き取られた部分にポッカリと空いた穴が、人の目に見えてとても恐ろしかった。風呂場の扉はガラス張りで、トイレに行くとき、ガラス越しに誰かにじっと見られている気分になったものだ。

五右衛門風呂は入るのが難しい。底が熱いので敷板を浮かべるのだが、バランスを崩さないように、そっと板の上に乗らなければならない。風呂を焚く火が大きすぎると側面の釜も熱くなるので、周囲に触れないよう、体を小さく縮める必要がある。子どもの頃は一人で風呂に入ることはなく、たいてい父か母と一緒だった。そのため、狭い五右衛門風呂にぎゅうぎゅうに詰め込めれているような有様だった。

風呂を沸かすのは、主に父の役目だった。木片を交互に重ねて空気の通り道を作り、枯れ葉も少し重ねて器用に火をつける。もちろん、保温機能などついていないので、家族4人が間を空けずに風呂に入らなければならない。焚き口は小さな小屋になっていて、真冬など寒い日には、野良猫が火をつける前の焚き口に入り込み、眠っていることもあった。知らずに木片を追加しようとしゃがみ込んだ瞬間、猫がいきなり飛び出してきて心臓が止まる思いをしたこともある。

父は歌が好きな人だった。風呂ではいつも歌を歌っていた。今でも覚えているのはアグネスチャンの「ひなげしの花」。繰り返し歌っていたので、私も自然と覚えてしまった。不思議なことに、今でも歌詞がすらすらと出てくる。先日、母と一緒のときに私が不意に口ずさむと、「そんな昔の歌を知ってるの?」と驚いていた。

父は湯船の中にタオルを沈ませ、空気を含ませて大きな球をつくる。それを子どもたちの背後で思いっきり潰し、「誰だ、オナラしたのは?」と言っては喜んでいた。私はなかなかタオルを膨らませることができず、それをいとも簡単にやってのける父をすごいな、と思っていた。

二間だけのとても狭い家で、風呂場のガラス扉を内側から開けると、そこは私と弟の勉強机が置いてある部屋だった。夜になると、そこに布団を敷いて寝た。今思えば、風呂場からの湿気がすごかっただろう。でも、小さい頃はそんなことを考えたこともなかった。風呂場の「目」が怖いのと、和式のポットン便所が嫌だったことくらいで、狭さや暗さなどを気にした記憶はない。

壁が薄く、お隣さんのテレビの音や口ケンカの声が聞こえてきたけれど、そんなことまったく気にならなかった。大人になると、気になることが少しずつ増えてくる。些細なことが気になって、夜眠れなくなることもある。大人になることで、失ってしまうものは確かにある。

中学生になるタイミングで、すぐ隣の借家に引っ越した。部屋数が4つに増え、自分の部屋もできたけれど、私は以前暮らした狭い家のほうが好きだった。そこには、家族の楽しい思い出がたくさん詰まっていたから。

仕事帰りの父とキャッチボールをして遊んだこと、母の職場に毎週土曜にやってくるパン屋の「みかんクリームパン」を楽しみにしていたこと、飼っていた猫を弟と取り合うようにして眠ったこと。そんな些細な出来事が、今の私の核となっているのだろう。

引っ越しをした隣の家では、家族にとって辛く、記憶から消してしまいたいことがいくつか起こった。風呂で遊んでくれた父も、もういない。大学進学のために家を出ると、父との会話はほとんどなくなった。父が若くして亡くなったとき、もっとたくさん話しておけばよかったと後悔したものの、時間を取り戻すことはできない。

父を思い出すとき、決まってあの五右衛門風呂で笑っている笑顔が思い浮かぶ。アグネスチャンを歌いながら、顔を真っ赤にして、気持ちよさそうにしている父の姿を。