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たったひとりの宿泊客 _2

そこは、小さな雑貨屋とパン屋、ガソリンスタンドだけが立ち並ぶ場所だった。パン屋の扉は閉まっている。

「この店ではたいていのものが揃いますよ」そう促され、雑貨屋へと足を踏み入れた。雑多な店内は足の踏み場がないくらい、物で埋め尽くされている。タライやハタキ、鍋、乾電池などの生活用品は埃を被り、何年も人が触れていないように見える。奥には雑誌や新聞が置いてある一角があり、カウンター近くにはお菓子類。

チョコレートを3つと小さな袋菓子を2つ、ポケットティッシュ、500mlのミネラルウォーターを3本買う。のっそりとした動きの店主は一言も言葉を発さない。店の外に出ると、若者が向かいのガソリンスタンドでガソリンを補充しているところだった。

ホテルへと戻り、唯一Wi-Fiがつながるという小部屋でメールをチェックする。

私は旅に出るといつも、現地の台所を覗いてみたい衝動に駆られる。現地の人と知り合いになり、自宅の台所を見せてもらったことも幾度かある。他に客がいないことをいいことに、思い切って若者に尋ねてみた。

「よければ、タジンを作る様子を見せてもらえないだろうか?」そのような申し出は初めてだったとみえ最初は少し戸惑っている様子だったが、「では18時頃に台所へ」と返事をもらえた。

まるで家庭の台所のように狭いその作業場には、中央にステンレスのテーブルと床にガスコンロが4つほど置いてあった。今日はひき肉と卵を使ったタジンを作ってくれるらしい。

若者は手際よく、タジン鍋にたっぷりのオリーブオイルとみじん切りにしたニンニクを入れ、みじん切りの玉ねぎもしっかりと炒める。そこへカットしたトマト、スパイスで味付けしたひき肉を団子状にしたものを加えて、肉の表面を香ばしく焼きつけた。さらにクミンやターメリック、シナモンなどのスパイス、野菜を追加し、卵を落として蓋をし煮込む。

タジン鍋さえ手に入れば、日本でも作れそうだ。若者に食材や調味料のアラブ語と英語を教えてもらい、忘れないようにメモを取る。レストランで待っているようにと言われ、裏庭を通ってホテル内へと戻った。ゆるく空調のきいた室内に足を踏み入れた途端、スッと汗が引いた。

運ばれてきたタジンは、半熟状の卵を崩しながら食べるとスパイスが和らぎ、ソースをパンにつけて食べてもおいしい。モロッコ各地でさまざまなタジンを食べてきたが、このひき肉のタジンが一番好みだった。またしっかりと汗をかいたので、食後のフルーツは星を眺めながら外で食べることにする。

残りの滞在期間、毎夕、台所で料理を作るところを見せてもらえることになった。若者もホテルでの話し相手は私1人。もしかしたら話し相手がほしかったのかもしれない。

数種類のタジンにクスクス、チキンのスパイス炭火焼などを一緒に作った。夕食後には空を見ながらフルーツを食べるのが日課になる。プライベートはお互いに詮索せず、目の前の料理や自然、音楽について当たり障りのない会話をする。それが心地よかった。

最後の夜、「日本で仕事がなくなったら、このホテルのキッチンで働くといい。あなたは料理の才能がある」と、若者が小さく呟いた。「覚えておきます」とだけ答える。

出発の日の朝、いつもと同じ朝食を済ませフロントへと向かった。「明日は予約が入っているんだ」と笑顔の若者。どうやら、宿泊客の人数に合わせてスタッフの数を調整しているらしい。

長距離バス乗り場までバイクで送ってくれるという申し出をありがたく受ける。午前中だというのに強烈な日差しを浴びて、私たちは猛スピードのバイクで疾走した。



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