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シンガポール・スリングの誘引




「ね、お願いだから付き合ってって」

「無理って言ってるでしょ。どれだけお願いされても無理」


これはまたキツい一言だな、と思いながらカウンター席の男女の背中をぼんやり眺めていた。


男はシルエットの綺麗なジャケットの背を丸めて、子供がお菓子をねだるように「お願いだから、ね?」と横の女を見上げている。

仕草に似合わずすっきりとした横顔の引き締まり具合から、歳は二十代の後半くらいだろうか。整ったS字を描く鼻筋から顎にかけてのラインが先日テレビで見た人気の若手俳優に似ている。

さらに左腕につけた時計、あれと同じものをつい先日バーにやってきた40代くらいの男が自慢げに見せびらかしていた。


同じ男から見ても「これは」と思うような好条件なのに、左側に座る女は一切靡こうとしない。


それどころか面倒臭そうな声でマスターに「シンガポール・スリングひとつ」と注文をしていた。その間は完全に男を無視している。やたらと交際を迫ってまとわりついてくる年下の男、と言ったところだろうか。

前を向いたまま身動ぎの少ない女は、顔こそ見えないが後ろ姿から美人が滲み出ていた。すっと伸びきった背筋に落ちる黒髪、遠目に見ても明らかにほっそりした手足、深いブルーのサマーニットに映える白い肌。振り返ったらどれだけの美人だろうかと期待してしまう。

声は落ち着いて毅然としているところから、おそらく30代の前半くらいだろう。背中から匂い立つような色気も、いい具合に仕上がった生粋の美人を連想させた。


ビジネスマンの多いビル街で見たらできるキャリアウーマンと期待のルーキーに見えるふたりだが、会話は終始男が女を口説くばかり。時折世間話程度の冗談が入るが、基本的には愛を囁く男をその気のない女が一刀両断、といった雰囲気。


「じゃあどうしたら俺と付き合ってくれる?」

「絶対にないって言ってるでしょ。歳下には興味ないの」

「そんの分かんないよ、これから興味出るかもしれないじゃん」

「ないって言ってるのに、」


何を言われても打ち返す男も男だが、一切甘さを見せない女も女だ。顔面の整い方に関わらず、あれだけ迫られたら少しくらいは靡いてもいいものなのに。いやそこで簡単に落ちないのが美人の条件というやつなのか。


俺は手元のウィスキーに入ったゴツい氷がカラ、と音を立てるのを聴きながら一口含んで唇を湿らせる。身体にじんわりと染み入るアルコールは心地よく、また人の色恋沙汰はちょうどいい酒の肴だった。


それにしても、あの男。誰が見ても第一印象に高評価をつけるであろう容姿の持ち主のくせに異様に腰が低い。というよりもイヤに年下ぶったような、身につけている服や小物の小綺麗さに似合わない幼い仕草が目についた。

どうせならもっと自分を活かすような、自信と若さに溢れた態度を取ればいいのに。少なくとも、俺があれくらいの歳の頃はそうありたかった。残念ながらそれほど容姿にも経済的にも恵まれておらず、数を打てばなんとやらが関の山だったが。


そのうちに女がグラスの中身を飲み干し、小さくなった氷と食べられずに置かれた真っ赤なさくらんぼだけが残る。「ごちそうさま」と行儀よくマスターに礼を言った唇は予想した通り形がよく、濡れた質感と柔らかそうな丸みが印象的だった。

男には何も言わず、背の高いピンヒールをコツコツと鳴らしながらバーを出ていった。歩くごとに店内を鈍く照らすオレンジ色のライトが彼女の髪を、指先をキラリと反射して輝かせる。あっけなく終わった色恋の余韻を味わうには充分だった。






と、思われたのも束の間。


「また連れて来るよ、マスター。今度は彼女として、ね」


丸くなった背中に沿って張っていたジャケットの生地がすっと立ち上がり、この男は背も高かったのか、と改めて思う。夏の湿気でしなった髪を後ろになでつける何気ない動作さえも様になっていて、はじめて見た目と動きがぴったりとハマって見える。

もう女の前で見せていた甘えるような雰囲気は夜風を前にしたアルコールのごとく消えていた。

ピンヒールよりはいくらか控えめな革靴の音を響かせながら、男はいつの間に会計を済ませていたのかごく自然な様子で店をあとにした。


客がひとりになった店内で、俺は思わずカウンター席に移ってマスターに聞いた。


「なぁ、さっきのどういうこと?」

「おや、聞いておられましたか」


マスターは柔和な笑みを浮かべながらシルクの布でグラスを磨いている。俺は彼ほど「マスター」という呼び名を乗りこなしている男を見たことがない。

薄くなった飲みかけのウィスキーを喉に流す。差し出したグラスに二杯目を注ぎながら、マスターは角のない低い声でこう話した。


「先程のお客様、本日でご来店は3回目になるんですが、最初にいらっしゃったとき、女性のお客様の方はお連れ様がおすすめだと言って注文したシンガポール・スリングを一口も召し上がりませんでした。

ですが2回目は半分ほど、そして今回は最後まで飲み干されて出て行かれました」

「じゃあ多少は進歩してる、ってことか?」


そう問いかける俺にマスターはウィスキーのグラスを滑らすように差し出した。


「お酒だけではありません。先程彼女が何と言って交際の申し出を断ったか覚えてらっしゃいますか?」

「”年下には興味ない”、だったかな」

「そうでございました。ですが最初にご来店された際、彼女はお連れ様に”わたし、結婚してるから”と言って左手の薬指を差し出されました」


目の奥に、女が店を出ていくときに輝いたものが浮かび上がる。鈍い光を受けて主張する、あれは確かに指輪だった。装飾のないシンプルそうな形は法的な「契約」を容易に結びつける。


「多少の進歩、ではありません。大きな一歩、と言えるかもしれませんね」


マスターはまた柔和な笑みを浮かべて、グラス磨きに戻っていった。




後日、店を訪れるとあのときの男女がテーブル席で顔を突き合わせていた。俺はふたりがけの別の席に座り、ウィスキーを注文して耳をそばだてる。


「いくらなんでも変わり過ぎじゃない?」

「だって透子さん、プライドの高そうな男には絶対に靡かないでしょ。だからそれとは真逆の男を演じてみたってわけ」

「何もそこまでしなくたって、」

「いい女を落とすのに、ちゃちなプライドなんて守ってられないよ」


女の顔がほんのり赤く染まる。これが"本物"ということなのか。

男のプライドなんてものに執着しない横顔は、確かに女を射止めたらしい。


そのうちにふたりは空になったグラスを残して店を出て行った。シンガポール・スリングのグラスにはさくらんぼの種が裸になって入っていた。"透子さん"と呼ばれた女の左手も、すっかり裸になっている。



俺は水割りのウィスキーだけじゃ物足りなくなって、二杯目はロックで注文しようと決めた。甘すぎる色恋沙汰にはロックがよく合うのだ。




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