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裏庭に永久に #月刊撚り糸おまけ


 彼女から告白されないよう細心の注意を払ってきたのに、その瞬間は冷然と僕を襲った。

 授業を終えて人気のなくなった教室に足を踏み入れると、窓際の席にひとりの女子生徒が座っているのが見えた。耳よりも少し高い位置で結んだポニーテールと骨の形が透けて見えそうなほど真っ直ぐに伸びた背筋がこちらを向いている。すぐに彼女だとわかった。

 室内は暖房が入っておらず、冬ざえた外の景色と同じくらい冷たく張り詰めた空気が漂っていた。確かにこの空き教室に集合しようとみんなで決めたはずなのに、予定していたメンバーは僕と彼女を除いて誰もいないし、近づいてくる足音もない。おそらく、僕だけが彼女と二人きりになることを知らなかったのだ。

 見えない網に取り囲まれて観念した僕は、それでも往生際悪く何も気づいていないという顔をして彼女の背中に声をかけた。

「ミズキ」

 彼女はすぐに振り向かなかった。緊張を誘うような間をたっぷりと一拍分開けてから、ようやくその整った横顔を伏目がちに僕に見せた。頬骨の上が青白く発光している。

 振り返ったミズキが椅子を引いて立ち上がる。震えるまつげと少し乾いた形のいい唇。平均台の上を歩くようにして慎重に避けてきた状況に追い込まれたのは僕なのに、彼女の方がずっと追い詰められた顔をしていた。

「あたし、遠野のことが好きなの。……たぶん、知ってたと思うけど」

 遠慮と言うよりは多少の皮肉すら混じった口ぶりに、僕はわざとらしく驚くのをやめて素直に頷いた。彼女の性格からして僕を責める気持ちはないのだろうけど、恋人以前に仲の良い友人だからこそ変に避けるようなことはしないで欲しかった、といったところだろうか。彼女を苦しめているのが自分だとわかってはいても、言外に含まれた意味を思えば痛々しくて堪らなかった。

 ミズキは、とても綺麗な子だった。一学年の生徒数が400人にも登るこの私立高校で噂になるほどの美人で、一目惚れした他校生から待ち伏せされていたこともあった。しかし容姿を鼻にかけて気取るようなところもなく、勝ち気で愛嬌のある性格がさらに彼女の魅力を引き立てていた。

 僕にとっても彼女は好ましい存在だった。吹奏楽部で同じフルート奏者として遅くまで練習を共にし、涙も喜びも分かち合った仲だ。好きが嫌いかの二択で選ぶなら圧倒的に前者だったし、何より彼女の明るさに励まされてきた一人だという自覚もあった。

 しかし、と僕はわずかに下唇を噛む。

 ミズキにとっては何とも理不尽なことかもしれないが、僕にとってはこの上なく変え難いものを彼女は持っていた。それも無自覚に。

 僕はそれが許せなかった。知らず知らずとはいえ、踏み躙ることを仕方ないの一言で片付けることが出来なかった。

 だから僕はミズキの気持ちに気づかないふりをした、いや正確には気づいていながら無視をするという仕打ちで彼女を困惑させた。

 その姿を見て満足するような最低なことをしていたわけではないが、それまで彼女が得てきたものを考えれば当然の仕打ちかもしれないくらいには思っていた。その時点で僕がミズキに対して持っている感情は、およそ友人に向けられるべきものではなかったのだった。

 僕は何かを考えるふりをして沈黙したあと、彼女に言った。

「少し、時間をもらってもいいかな」

 ミズキは左手で自分の右手首を握り、強く締め上げた。光沢のある丸い爪が段々と赤みを帯びていく。僕はまだかろうじて平均台の上で蹲っているようだった。



 三年生で同じクラスになったときから、自分が多少なりとも鈴原に疎まれる存在だということはわかっていた。

 僕の知る限り、鈴原とミズキは高校に入学して間もない頃からすでに恋人同士だった。同じ中学の出身だったふたりは遡れば幼稚園からの付き合いらしく、友人としても恋人としても自然に見えるという不思議な距離を保っていた。

 部活の同期として親しくなったミズキの口から聞く”しょうちゃん”という角の丸い愛称を、僕ははじめのうちは鈴原翔一だとも知らなかった。彼女が話すのはちょっとわがままで、甘ったれで、でもどこか嫌いになれない愛嬌のある恋人のことだったから、体格が良く、いつも人の輪の中心にいるような鈴原のことだとは考えもしなかった。

 ミズキが鈴原のことを僕に話すように、僕のことを鈴原にも話しているだろうと察しはついていた。付き合っている恋人の話によく出てくる男、などという存在が好意的に迎え入れられるはずもないだろうと思っていたから、3年生にしてはじめて同じクラスになった鈴原の少々皮肉的な物言いにはむしろ爽やかさすら感じていた。「遠野は女子に混ざっても違和感ないもんな」とゆるい嫉妬と牽制をあえて隠さないところは自信すら垣間見えるようだった。

 7月の初旬に入り、大抵の3年生が部活動を引退していくのと同時に鈴原も野球部を引退した。勝てるはずだった最後の試合、内野手の小さなミスが災いして逆転負け。鈴原はしばらくの間教室でもぼうっとしていることが多く、その横顔は持て余した残り火が消えるのをじっと待っているようだった。

 僕とミズキが所属する吹奏楽部はというと、未だにせっせと練習に励んでいた。他の部活動に比べて最後のコンクールまで日が長い僕らは、続々と受験勉強へとシフトしていく友人たちに焦りながら日々を過ごしていた。放課後、いつもなら日が暮れたあともグラウンドにいたはずの鈴原がミズキを迎えに来る。ひとつずつ終わっていくべきものに囲まれていたのだと2年以上が経ってようやく気がつくのだった。

 夏休みを目前にしたその日は朝から雨だった。まるで梅雨時期のようなしめやかな雨粒が気づかないうちに肌も服も濡らしている。透けた制服のYシャツはどこか心許なく、僕らを無口にさせた。

 朝、教室に現れた鈴原はいつも通り他クラスにミズキを送ってきた後のようだった。他の生徒と同じように湿ったYシャツの袖とスラックスの裾を捲くり、後ろの出入り口から入ってくる。

 最後尾の席に座る僕は鈴原に声を掛けた。特別な用事があったわけではなく、ただ彼と何でもない話をするためだけに声を掛けた。湿った気配をまとった彼が声に反応して僕を一瞥する。

 一瞬だった。ほんの一秒にも満たない時間を置いたあと、鈴原は「はよ」とだけ言って窓際の席についた。それ以上言葉はなかった。しかし目が、彼の深い切れ込みの入った目頭の赤さが、僕を拒絶していた。そう確信するくらいに彼の瞳が燃え上がる速さは暴力的で、そして加速度的だった。僕は思わず濡れたYシャツの袖をシワになるほど強く掴んだ。

 その日の放課後、鈴原が音楽室に姿を現すこと
はなかった。次の日も、その次の次の日も、鈴原はやってこない。息を潜めて混乱する周囲に反し、ミズキは変わらず快活な笑顔を振り撒いていた。

 何かがあったことは明白だった。あれだけ絶え間なく近づきあっていたふたりの距離が引力などというごく自然的な力で離れるとは思えなかった。ふたりを割いた原因があるはずだった。そしてその原因が知らぬうちに僕の形をしていただろうということにも、僕は薄々気づいていた。


 それから鈴原は季節を追うごとに一層暗い目をするようになった。段々と陽が沈むように明度を落とすこともあれば、まるでスイッチを切ったように真っ黒な眼が唐突に僕を見ていることもある。

 「仲が悪くなって離れたわけではない」。ふたりの別れについてはミズキ本人から聞いていた。彼女は鈴原が迎えに来なくなったあとも嬉々として”しょうちゃん”のことを話題に上げていた。ミズキにとって鈴原は、恋人でなくても当然存在するべき日常の登場人物だったのだ。

 だから彼の怒りがそう単純に片付けられないことも、僕はわかっていた。終点を見失った列車のように、鈴原は今でも夜を彷徨いながら加速し続けている。静まり返ったホームにミズキはもういない。いないのに、向けられた親愛の笑顔が痛い。痛くて、苦しいほど、その鏡のような切っ先が僕を鈍く映し出す。

 無理もないことだと、素直に思った。乾き喘ぐほど欲しても手に入らないのなら、いっそのこと存在そのものが消えてしまった方がどれだけ楽だろう。もう好きじゃない、ではなく、あんたなんかはじめから嫌いだったと詰る方が優しいし、望まない笑顔を与えられ続けるくらいならもう二度と思い出さなくて済むだけの距離が必要だ。

 しかしそうできない原因を鈴原は抱え過ぎていた。たった数センチ距離を変えたくらいで攫われていくような信頼関係ではなく、ミズキの眼差しは今でもわがままで、甘ったれで、でも嫌いになれない愛嬌のある、弟のような鈴原翔一がそばにいると信じている。彼の目の奥行きに隠された業火にも気づかないまま。

 そして暮れていく夏を見送った秋口のこと、帰りのHRが終えたあとのざわついた教室で鈴原は呆然と僕を見やった。信じられないとでも言いたげに唇を薄く開いたまま、音にならない呼吸が熱く吐き出される。坊主頭に近い短髪からさらけ出された耳が明らかに怒りで紅潮していた。

 それを僕は床に両手をついたまま見上げた。背中を地面に打ち付ける瞬間、慌てて左右の手をついたせいか肘にかけての骨がギリギリと痛んだが、頭上で怒りに震える鈴原の顔から目を離すことができない。

 同い歳の男だとは思えなかった。自分よりも一回りは体格のいい男に覆い被されたせいでそう感じるのか、そもそも鈴原自身の圧倒的な迫力がそうさせるのかわからないが、僕の中が激しい音を起てて燃え始めていた。いつからあったかもわからない薄汚れた赤いガソリンタンクに引火したみたいに、天井にまで届こうという勢いが早くも僕の端から端までを覆い尽くそうとしていた。

 後ろの出入り口から誰かが走り去る高い足音がした以外、教室内はやけに静かだった。

 長すぎる沈黙に耐えかねたように、鈴原は声を絞り出す。

「絶対に、弄ぶようなことだけはするな」

 それだけ言い残して出て行った鈴原の背中は元野球部のキャプテンらしく厚みがあって、彼と比べれば僕はずいぶん骨ぼねとした体つきをしていた。先生が息を切らしてやってきたのはその少しあとのことだった。


 鈴原が僕を殴った、という噂はあっという間に広がった。

 教師陣の間ではちょっとした男子同士の喧嘩程度で収められたらしかった。事実いくら体格の良い鈴原でも人を殴り慣れているはずもなく、節ばった手が殴るとも突き飛ばすとも言えない曖昧さで僕の胸を突いたに過ぎなかったし、大事にならなかったことに僕も安堵していた。

 しかし生徒の間ではそう単純にはいかなかった。鈴原と僕、そしてミズキの関係を聞いた者なら想像できることは多いだろうし、実のところ原因は彼女のことに他ならなかった。

 この頃、僕はすでにはっきりとミズキから好意を向けられていることに気づいていた。偶然ふたりきりになったときに快活な彼女が急に無口になる束の間も、他の女子部員と話していると感じる視線も、単なる僕のうぬぼれではないと確信し始めていた。

 その上で僕は彼女の好意にまるで気づいていないという顔をした。それが難しくなると、気づいた上で無視をし続けた。日に日にミズキの言葉は粘度のある液体のように滞り、時折ぽたりとこぼれ落ちるだけになっていった。太陽が翳りを見せた分だけ月は爛々と地上を睨め付けるように、鈴原は焼き切るような目で僕を見る。あの放課後も、そうやって彼は僕を見ていた。

「ミズキちゃんってまさかの処女?」

 友人が差し向けた冗談めかしの質問に僕は澄まし顔で応えた。僕が知るはずもないことを、それも彼女を貶めるようなことに応じている自覚はあった。しかし僕は僕を止められなかった。

 どうしてそんなことを、と思うだろうか。ミズキを嫌いなわけでもないし、ましてや鈴原の言う通り弄ぶようなつもりもない。ミズキは綺麗な子だ。付き合えばきっと自慢になるだろうと想像がつく。それができないのなら、目に見える形で示すのが友人としての義理だとも思う。

 しかし僕はミズキの好意をほんの少しずつ飲み込んだ。日に一滴だけしたたり落ちる雫のように、潤しすぎないよう、または舌が渇きすぎないよう、注意を払いながら飲む。やがてそれは僕の一部となっていく。

 鈴原はミズキを愛しているから、僕の背後に透けるようになった彼女の気配を起用に感じ取って苦しむ。揺れる視線を反らすこともできず、鈴原の厚い瞼が僕を見る。それだけで僕の中が次々と引火していく。

 弄ぶなんて、とんでもなかった。僕が彼女にしていることは、おそらくそれよりもずっと酷いことだ。

 彼らの間に他人が入り込む隙間などなかった。例えミズキが鈴原を恋人として愛していなくても、ふたりには確かに隣り合い続けてきた者の自負と平穏があったから、僕は疎まれる自分を受け入れ続けてきたのだった。

 何も知らない他クラスの生徒から、鈴原が恋人を奪われた腹いせに僕を殴ったんだろうと確信を持った声で聞かれた。否定せず曖昧に微笑めばすべては真実として受け取られる。そういった声が増えるほど鈴原は僕を憎むだろう。憎んで憎んで、いつかその憎しみからミズキへの気持ちすらも消え失せる瞬間を僕は待っているのだった。

 他人の恋人に恋をするなど、ほとんど架空の物語に恋をするようなものだ。それでもミズキさえ衒いなく鈴原を好きだったらこんなことにはならなかった。ふたりの間を裂くような真似が、この細腕にできるはずもなかった。

 彼女が以前のまま清廉であるほど、僕は自分がしている酷い仕打ちを当然のものとして納得してしまう。許せない、彼を傷つけるミズキを許すことができない。

 だって僕は、鈴原翔一が好きだったのだから。



 ミズキが僕らのどこまでのやりとりを聞いたのかは知らない。けれど、あれ以来ミズキの口から"しょうちゃん"の名前を聞くことはなくなった。僕なんかを殴ったというだけで家族同然だった鈴原を軽蔑したのだ。翳りを知らない彼女にそういう一面があったことを、僕は後ろ暗くも嬉しく思っていた。

 だがミズキは鈴原に対してだけでなく、僕にも不信感を募らせた目を向けるようになった。彼女にしている仕打ちを思えば当然のことだと思う。

 だからミズキの告白はほとんど楔を切るようなものだったのだろう。人から愛され慣れた子だ、僕に執着する意味などないと気づく日はきっと遠くない。


「お前らってあれからどうなったの?」

 大抵の生徒が進路を決め終えた3月の半ば、久しぶりに騒がしい雰囲気の教室で前の席の友達に聞かれた。お前ら、も、あれから、にも、すぐに察しが付いたけれど、僕はわからないふりをした。卒業を目の前に控えた今、誰か一人にくらい言ってしまってもいいかと思う気持ちがないわけでもなかったが、"振り"ばかりしてきた日々のどこから話し始めれば良いのかもうわからなかった。

 卒業式の予行演習のあと、名残惜しげに散っていく生徒の間を縫って僕は裏庭に向かっていた。今日を過ぎればあとは卒業式の日まで顔を合わせない友人の方が多くなる。呼び出されるなら今日だろうという予想はあっけなく当たり、鈴原は植え込みの縁に腰掛けてぼうっとグラウンドを眺めていた。野球部の白いユニフォームが高く空を切った白球を追いかける。頭上の音楽室からは仰げば尊しがしめやかに聞こえていた。

 あれから、僕らはどうなったのだろう。そもそもあれから、とはどこからのことなのだろう。鈴原が僕を殴った日だろうか、それとも鈴原とミズキが別れた日だろうか。もしくは僕の火が燃え始めた、その瞬間からだろうか。

「返事、したのかよ」

 鈴原が僕を見ずに言った。しかし体格の割に細く通った鼻筋の横の目が躊躇いがちに僕を睨んでいた。厭わしいとも妬ましいとも言い切れないその色には迷いのようなものが波打っている。

 何かを言い淀んだ唇の歪みで、彼がまだ僕に対してクラスメイトへ向けるべき親愛を捨てきれていないことがわかった。18年かそこらしか生きていない僕らに、他人を心の底から憎むのは難しいことだった。

  僕は薄く湿った校舎の壁に手をつき、僕を見ない鈴原を見つめた。薄っぺらい肋骨に収まった心臓が激しく脈を打つ。

「鈴原には関係ないよ」

「そうだな、」

 丸くうなだれた背中に嘘を吐くのはやはり胸が痛んだが、今更あとになど引けないという思いが強く働いて僕は冷たく言い放った。

 本当は、とっくに決着はついていたのに。

「私、もうしょうちゃんとは会わないことにした」

 ミズキの真っ直ぐで明朗な髪はサラサラと溢れるだけで犬の尾のように揺れはしなかった。毛先まで彼女らしい様に僕は口をつむぐ。

「人を傷付けるなんて、しょうちゃんがあんなことをしたのは私のせいだから。私といたらしょうちゃんは自分を犠牲にしてででも戦ってくれるから。でも私はそれを望まない。しょうちゃんにはしょうちゃんだけの幸せがなくちゃいけないんだよ」

 言い聞かせるような声だった。何度も繰り返し言い聞かせて磨き上げた意志のある瞳がうなずくように瞬く。まるで先程の告白など些末でどうでも良いことのように、彼女の決意は冷たい部屋の中で明確な熱を灯していた。

 ミズキははじめから僕の答えなど求めていなかったのだった。顛末に行き着くまでの道中に彼女が僕を好きだった事実があって、その先に鈴原との分かたれた未来を捉えていた。人を殴った彼を軽蔑するのではなく、慈しむように守るようにミズキは言う。

「あのときはごめんなさい、私のせいで」

 僕は自分が燃え盛るのを感じた。彼女の言葉を火種に、怒鳴りつけたいような泣き出したいような感情にとらわれる。

「違う、ミズキの、ミズキのせいなんかじゃ、」

 自分の声がかすり傷のように滲んだ血で湿っていた。ふたりの間に僕なんかが入り込む隙間などなかったこと、ミズキの聡明な美しさ、そして鈴原が僕の胸を突いたその熱の一欠片さえも奪われようとしていることに、僕は抗わずにはいられなかった。

 しかしミズキは何もかもわかったようにもう一度前髪を揺らして「ごめんなさい」とつぶやき、教室を出ていったのだった。

 後戻りなどできるはずがなかった。例え手の中に残ったものが幸福と呼ぶに値しなくても、それでも手放したものの大きさを忘れることなどできはしないし、出会ったその瞬間から好かれてなどいなかった僕はミズキよりも、鈴原よりも不幸なはずがなかった。

 鈴原は相変わらず目だけで白球を追いかけたまま、唇をわずかに開いて硬直していた。坊主に近かった短髪が伸びて顔の輪郭が曖昧になるのと一緒に、彼の鋭い熱を帯びた表情もぼんやりと白け始めていた。

 拍子抜けした僕の耳が頭上から降ってくる仰げば尊しの後奏を追う。細く伸びやかな音が重なり合うのを聞きながら、あの教室から見下ろした景色を、もう二度と見ることはないのだと強く実感する。

 それは擦り切れるほど繰り返した光景だった。放課後の練習の際、ミズキはいつも3階の空き教室の窓を開けていた。暖かい西日が差し込む午後5時頃、彼女の柔らかそうな髪を風が攫っていく。

 ミズキがオレンジ色の空に目を向ける。と同時にキン、と鋼を打つような音が飛び上がり、家へ帰るカラスの群れのあとを白球が追いかけるように放られた。ミズキが楽器を置いて窓の縁に肘を付きすっと目を細める。

 すると次の瞬間には張り出した右手が左右に大きく振られていた。短い間の出来事だったが、僕は彼女の背中を抜けたその先に振り返される分厚い手のひらを確かに捉えていた。不思議なことにミズキが窓の外に目をやるとき、そこには必ず眩しい人がいた。暗がりに目覚めた子供がはじめての夜明けを見るように、ふたりはいつも出会うのだった。

 気がつくとミズキはもう一瞬間前のことなど忘れたように楽譜を眺めていて、鈴原も背を向けて走っていってしまう。目を離せなくなるのはいつも僕ひとりだった。

「遠野、卒業したら海外に行くんだろ」

「そう、だけど……」

 面食らって途切れた語尾を言い直す間もなかった。確かに僕は卒業を待ってすぐに知人の音楽家のもとで世話になることが決まっていた。才能というよりは運に近いものが僕の手を引っ張っている気がして、あえて聞かれない限りは周囲に言わないでいた。

 そのためか鈴原が僕の進路を知っているなんて想像もしていなくて、そもそも僕はミズキのことを取り除いた自分が鈴原に見られることなど考えもしなかった。望むことと想像できることは、気づかないうちにずいぶんとすれ違っていたのだった。

 回れ、と叫ぶ声を耳が拾う。引き締まった白いユニフォームが埃っぽいグラウンドを滑るように走る。聞き慣れたような、それでいて初めて聞いたような響きだった。回れ回れ、と力強い声が夕暮れの中を駆けていく。

「あ、その、頑張れよ、向こうに行っても」

 それは丸く甘酸っぱい果実のように響いた。本当はあの時のことを謝るつもりでいたのかもしれない、と彼の少し照れ臭そうな頬を見て思った。だが中途半端に憎んだ僕に、最後まで素直にはなれなかったのだ。そして代わりに贈る言葉を選んだ彼が、僕は愛おしくてたまらなかった。

 何が彼の熱を冷ましたのかはわからなかった。時間か、周囲の目か、本人の意志か、ミズキの優しさか、わからないけれど鈴原はそっと僕を見た。その瞳は迷子のように揺れ、そして罪悪感がひたひたと滲んでいた。僕は全身が粟立つような感覚を覚えた。

 周囲から見れば、手を出したのは鈴原の方だと思うだろう。しかしそうなるように仕向けたのは僕だった。彼が罪悪感など感じる必要はないし、むしろ感じてはいけなかった。僕は彼に憎まれたかった。憎しみでもいいからのその眼差しを向けられてみたかった。それが叶った今、僕はみっともなく狼狽えたまま潰れそうな心臓を薄っぺらい体の中に収めている。悪いのは僕だ、僕だけが悪いのだ。

 言い終えると鈴原は厚みのある肩を真っ直ぐに伸ばし、堂々と立ち上がった。地平線のように緩やかなカーブを描いた背筋が、どこか見覚えのある景色だった。ミズキだ。ミズキの背骨が透けるような正しすぎる制服のラインが思い出される。ふたりはお似合いであると同時に、とても良く似たふたりだった。

 呆然と立ち尽くした僕を、もう鈴原はその瞳に映さなかった。握られた拳がふっと解かれるのが見えたあと、鈴原は振り返らずに校門の方へ消えていった。裏庭はまだ濃く湿った気配で淀み、僕にまとわりついて身震いさせる。やはり目を離せなくなるのは僕ひとりきりで、きっと今日のことを忘れられないのも僕だけだろうと思った。

 でも、と僕は確認するように自分の手のひらを解く。伸びすぎた爪の跡が生命線を中間あたりで遮っていた。しかし不幸だとは微塵も思わなかった。微塵も思えなかった。どう足掻いても不幸になどなれなかった。最低な人間が撃ち落とされないなら、世の中はなんて残酷で優しいんだろう。

 細ければ細いほどに輪郭が濃く見える月みたいに、きっと鈴原の気配は歳月をかけて段々と美しいものになっていくだろう。それを僕は窓際に座って眺め続けるのだ。いつになっても、いくつになっても。


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