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ラピスラズリの祈り #2021クリスマスアドベントカレンダーをつくろう


 とうとう既読すら付かなくなったLINEの画面に、雪が降っていました。上から下へとスクロールするような新雪は降れども降れども積もることはなく、小さな板の中を流れてゆきます。

 隣で眠る人にわからないようにシーツの中でごそごそやっていると、暗闇に蠢く自分が何か悪いもののように思えました。事実これは悪いことなのかも知れませんが、不思議なことに、私には良いことのようにも思えてならないのです。

 ふと、あなたの名前を口にしました。

 虫の羽音ほどの声に、もちろん返事はありません。私が今こうしていることを、誰も知りません。

 しかし神様以外誰も知らないからこそ『祈り』と言えるのかもしれないと、唐突に思いました。

 雪は冷たく青く、手のひらの中に降り積もります。


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 あの頃、あなたは何かにつけて「俺は東京の美大に行く」と言っていました。あなたが頻繁にそう口にするようになったのは、中学二年生の時に担任だった谷口先生の影響でしょう。

 先生は私たちでも名前を知っているような有名な大学で油絵を描いていたそうでした。卒業後も働きながら作品を仕上げ、何度か小さな個展を開いたこともあると言いました。

 印象的だったのは、やはりあの言葉でしょうか。東京からはるばる田舎の学校へ赴任してきた若く美しい男性教師は、ひどく整った標準語で私たちに言いました。「小さな円の周りを歩き続けても、人生は何も変わらない」と。

 高層ビルどころか5階建て以上の建物すら珍しい田舎街です。あなたと私に限らず、近所の子供達はみな兄弟のように育つ街です。彼の所帯じみたところのない鮮烈な物言いはあっという間に私たちを虜にし、あなたに至っては美術部の門戸を叩いたほどでした。

 しかし私は知っていました。あなたは絵が苦手で、美術の成績に2より上の数がつかないこと。濃いピンク色や朱色はすべて赤と呼び、信号の色や春先に芽吹く葉の色を一緒くたに緑と呼ぶこと。

 繊細そうに揺れる長い前髪に対して、さほど繊細でないあなたのこと。

 美術室へ通いつめたって、絵を描くよりもお喋りする時間の方が長かったのではないでしょうか。しかし都会的でかっこいい先生と友人のように親しくなってゆくあなたを、私は少し羨ましく思っていました。

 やがて中学を卒業し、高校生になったあなたは美術部へは入らず、隣町でアルバイトを始めました。何のためにお金がいると口にはしませんでしたが、授業が終わると一目散にママチャリに乗って駆けてゆくあなたは、古典や化学なんかよりもずっと素敵なものを見つけているという顔をしていました。

 しかし高校一年生の秋を境に、あなたの蒸気したような横顔は少しずつ、少しずつ色をなくしてゆきました。

 ひとつだったアルバイトがふたつになり、いっぺんに辞めたかと思えば何を売っているかよくわからない店に勤めてみたり、学校を遅刻してくることも増えました。犬の散歩で朝早くに近所を歩いていると、腫れぼったい目付きによれよれの制服姿で歩くあなたを見かけたこともありました。

 時々学校で顔を合わせると、あなたは「音楽で食って生きたい」だとか「芸能関係の仕事がしたい」だとか、支離滅裂に話しはじめました。おそらくそのときすでに彼の目には私の知らないものが映っていたか、もしくは映すべきものを失っていたのかもしれません。彼はもう「東京の美大に行く」とは言いませんでした。

 その頃の私と言えば、ふたつ上の学年だった彼氏と大学進学を期に遠距離になり、以前のように連絡が取れないことがいつも不安で仕方ありませんでした。突然あんぐりと口を開けた隙間に、不満や寂しさ以外に与えるべき餌が思いつかなかったのです。私が事あるごとに彼を詰り、我に返ってまた縋り付く。まるで空になった古巣で癇癪を起こす雛鳥のような恋でした。

 自身に振り回されるのにも疲れた高校二年生の冬、私は駅前の喫茶店であなたと顔を合わせていました。学校でもすれ違えば挨拶くらいしていたはずなのに、血色の悪いあなたの頬を見るとずいぶん長いこと会っていなかったような心地がしました。

 注文したコーヒーが届くのを待ってから、前置きもなしにあなたは言いました。

「好きな人がいる」

 えっ、と漏らした自分の唇が冬の寒さに少し乾いていました。女の子と恋バナをするのは日常茶飯事でも、男子の口からその言葉を聞くのはとてもめずらしいことで、戸惑いと緊張が一気に走り抜けました。

 誰? 同じ学校の人? と尋ねると、あなたはゆっくりと首を振ります。

「ここにはいない。東京にいるんだ」

 東京、と口にした彼の頬の薄さに、私は谷口先生のことを思い出しました。先生ならきっと彼の恋を応援するすべがあるだろうと思ったのです。

 しかしあなたはまた首を縦には振りませんでした。

「先生、結婚したから」

「うそ、いつ?」

「俺たちが高一の終わりくらいに」

 湯気の中に角砂糖を落とす音がやけに大きく聞こえました。とぷん、と黒に飲み込まれていった甘さはあっという間に崩れてゆきます。

「でも相談くらいしてもいいんじゃ、」

「これ以上先生に迷惑かけたくないから。もう、いいんだ」

 あなたの痩けた頬に一筋の影が伸びました。それはさらさらと落ちる長い前髪と一緒になって、段々とあなたの肌に馴染んでゆきます。それがあなたという男の子を人知れず大人にしてしまったようで、私は呑み込んだ息に溺れるように苦しくなりました。

 濃いピンク色や朱色はすべて赤と呼び、信号の色や春先に芽吹く葉の色を一緒くたに緑と呼ぶこと。模試に出題される英単語くらい色の種類に疎いあなたが、それでも先生の使う絵の具の難しい横文字だけは全部覚えていたこと。「先生ってクリスマスが誕生日なんだぜ」とどこかくすぐったそうに言ったこと。

 はめ殺しの窓に散りばめられたステンドグラスの青色を、無垢な唇が祈るように呼ぶこと。あなたの声が少し震えていたこと。

 どれひとつとしてあなたを救わないのに、そのどれが欠けてもあなたはあなたでいられなくて、それならば私たちは一体何なのでしょう。

 あなたに首を振らせてばかりいる自分がなんだか情けなくて、私はぐい、と前を向きました。視線と触れ合うと、あなたはほんの僅かだけ口の端を持ち上げて笑いました。まだ痛いだけの傷に触れないようにしながら、私たちは好きな人の話をしました。

「いるはずなんだ。東京に行けば、東京になら、きっと、」

 時々けたたましいほどの電車の音が日曜日の昼下がりを乱暴に浸し、濁った空に茫々と煙った光だけがやけに静かに降り注いでいました。


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 高校3年生の夏が来る前にあなたはひっそりといなくなり、しばらくの間は多少のやりとりもありましたが、それもとうとう潰えたようでした。

 私は地元の大学を出たあと親族の経営する会社に就職し、そこで出会った四つ歳上の男性と結婚しました。隣で眠る彼はとてもおおらかで、私を癇癪ごと抱きしめてくれるような人です。来年の春には実家から三十分も離れないところに新しい家が建ちます。小さな円の周りを歩き続けるような人生ですが、それなりに幸せなつもりです。

 高校を卒業して上京していく友人たちを羨ましく思ったこともありましたが、都会の風が肌に合わずに帰ってくる子も少なくなく、のろまな私なんかはきっとすぐに匙を投げただろうと思います。

 あなたが町を出てから、ただの一度も戻ってきたという話を聞きません。あなたの肌には東京のよく研いだ風が合ったのでしょうか。それとも鋭い刃から身を守る暖かな場所を見つけたのでしょうか。

 今年はまだ雪が降らず、柔らかい月明かりの降る夜が続いています。人々の枕元にはそろそろ近くて遠い誰かのぬくもりが届く頃かもしれません。

 祈りは冷たく青く、手のひらの中に降り積もります。




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