あなたがほしいものは #触れる言葉




喧嘩をすると、彼は決まってわたしに背中を向けてじっとしていた。



駅から歩いて10分の場所にあるワンルーム。ひとり暮らしをするのには丁度いい8畳間に小さなキッチン、ユニットのお風呂とトイレがついている彼の部屋。東向きの窓から太陽の光がさんさんと立ち込めるところがわたしも気に入っていて、彼が友人や会社の人とでかけているときでもたびたびこのワンルームで過ごしていた。

しかし難点もある。廊下が狭くてふたりで並んで部屋に入れないこと、窓のすぐそばにある桜の木から虫が入ってくること、そして言い争いになったあとに頭を冷やそうと思っても空間を区切るものがなくて小競り合いのようなやりとりを繰り返してしまうこと。


彼は口喧嘩に疲れると壁際に置いたベッドに背中を丸めて座る。決して寝っ転がったりしないのは、彼なりの精一杯の誠意なのかもしれない。それなら一言「ごめん」と言ってくれればいいのに、と思いつつも同じ言葉が吐き出せない自分ももどかしく、また結局はいつも先に折れてくれる言葉少なな彼の優しさがちらついた。

彼がじっとしている間、わたしは冷蔵庫から麦茶を取り出して注いだり、つけっぱなしのテレビをぼうっと眺めたりしている。別のことをすると心が落ち着き、大抵は「あぁ、自分が悪かったな」と思い直すことができた。彼に原因があることもあるけれど、すぐに感情が溢れ出してしまう自分の悪癖が3回に2回は顔を出す。今日も例のごとくそうだった。


謝りたいな、謝ったら許してくれるかな。


彼に気付かれないようにベッドの横に座り込み、丸い背中を見つめる。彼があぐらをかいて座っている場所がたわむように沈み込んで白いシーツが波打つ。今はベッドサイドに追いやられている橙の小花柄の掛け布団は、わたしが「これにして」とわがままを言って選んだものだった。


左手の指先をそっと、広い背中に伸ばす。浮き出した背骨に沿って、つう、と数字の1を描くように線を入れようとして、寸前で怖気づく。いつもそうだ。

彼は優しい人。じっと目を見つめて、こちらが照れてそらすまでひたすらに、わたしを見てくれる人。

その瞳が今は固く閉じられているのか、それともなにか別の一点を見つめて漂っているのか、背中越しからは伝わらない。わたしを見ない目は何も語らないから、わけもなくこわくなる。


白いTシャツのキャンバスに指先で「スキ」なんて滑らせてみたら、彼は振り向いてくれるだろうか。いいや、そんな勇気も可愛らしさもないのだけど。

人差し指の爪の、白く透けた部分が宙をかく。昨日落としたはずのネイルの赤が端の方に残っていて、それがわたしの自信を根こそぎ刈り取っていった。もう少し頭を冷やそう。


「気づいてたよ、ずっと」


彼の目がわたしを見つめていた。まるで360度視界が開けているみたいに、彼の右手に彷徨っていたわたしの左手を正確に掴み取られて動けなくなる。


「さっきはごめん」


彼がそのまま左手を自分のものみたく握り込むから、引きずられるようにしてベッドに身を乗り出した。白いシーツがさらにたわみを作り、そのひずみにわたしが言えなかった”ごめん”が落ちていた。やっぱりいつだって子供なのはわたしの方だ。

下から見上げると、彼の伏し目がちのまつげがわたしの方を向く。カーラーで重力に逆らった女性のそれとは違う、男の人のまっすぐな切っ先に射抜かれるような心地がして、握られた掌が急激に息をし始める。

どれほどの時間が経っただろうと思ったけれど、おそらくはほんの数秒間。瞬きよりはいくらか長いくらいの触れ合いだったと思う。


「もう、迷わせないから」


彼は合図するみたいにぽそりとつぶやき、自分のものみたく抱え込んでいた左手を解放してくれた。

弾くように離れてしまったぬくもりが全身を這っていくのを感じながら、わたしはベッドに乗り出していた身体をぺたりと床につける。フローリングの表面的な冷たさが熱を冷ましてくれた。彼は「アイス食べる?」と自己申告なのかわたしに聞いているのかわからない声のトーンでキッチンへ出て行った。

わたしはシーツの波にさらわれた”ごめん”を拾い上げようとして、左手の指に収まった違和感に気が付く。


ねぇ、どうして今なの。こんなわたしの、何がよかったの。わかんない、わかんないよ、わたし、子供だからさ。


彼に渡そうと思っていた”ごめん”を拾うのも忘れて、キッチンへ行った彼を追いかけた。その骨ばった左手の薬指に同じ銀色がついているか、彼が”ごめん”じゃなくて”ありがとう”をほしがっているのか知るために。





***





こちらの企画に参加しています*

告知が出たときから楽しみにしていたゆいさんの企画。結局ギリギリになってしまいましたが…笑 書けてよかった。

普段から小説を書くときは「余計な引っ掛かりのない文章」を意識して書きますが、今回のような「滑らかさ」「気持ちよさ」を意識したのははじめてのことでした。

はじめてのことをすると、新しい表現に出会える気がしますね。楽しかったです。

こういうテーマ別の企画はもっと参加してみたいなぁと思うし、自分でお題を設定して書いてみたりもしたい。

新しい楽しみができました、企画してくださったゆいさんに感謝です*




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