見出し画像

「アウトドア」15歳の夏の記憶

私は子どもの頃から大津波に襲われ、逃げ惑う夢を幾度となく見ることがありました。

実際に津波に遭遇したことはありません。幼児の頃、海岸の浅瀬でいきなり波に足をすくわれた経験がトラウマとなったのでしょうか。今でも海は、私の恐れの対象です。

写真は、「nanashiの乗り鉄&もろもろ撮影記」さんのブログ(2016/1/1)から借用した茨城県日立市の伊師浜海岸です。

この海水浴場は国民休養地、日本の海水浴場88選、快水浴場百選、日本の白砂青松百選、コアジサシやハチドリの営巣地、アオウミガメの産卵地等として有名です。

3.11以降、実家のある高萩海岸やこの伊師浜海岸の様子がどうなったのか、まだ見ていません。

伊師浜海岸に突き出すようにあるのが鵜の岬です。鵜飼いのための海鵜(ウミウ)の捕獲が日本で唯一許可されています。

岐阜県の長良川など、全国の鵜匠・鵜飼いに海鵜を供給していることでも有名な岬で、天然記念物のイブキ樹叢(じゅそう)もあり、地元では一帯をイブキヤマと呼んでいました。

この鵜の岬や伊師浜海岸は日常生活から少し離れた環境ですが、実家から車で15分とかからない場所にありました。

これは、私が中学3年生の時の夏休みの話です。

当時、私を含む友人3人が集まり、中学生最後の夏に記憶に残る「冒険」をしようということになりました。

私たちは、夏・海・キャンプという、素直な連想から、イブキヤマをその目的地に選びました。

文字通り、やっつけの計画だったので、キャンプ道具などは一切持ち合わせていませんでした。しかし、子ども心のなんでも出来てしまうという不思議な感覚が、このときも何とかなるという無鉄砲な行動を後押ししました。

ただ、野宿するのにテントが必要なことは誰もが納得することだったので、私の母に、私たちがオーダーしたテントの代用品が、我が家で使わなくなった蚊帳(かや)でした。

岬の林の中に野宿する計画は、そこにいるであろう夏虫を避けるのに、蚊帳がテントの代替となるという、一石二鳥の素晴らしいとそのときは誰もが思った私のアイデアでした。

母親から、その日の夕食としてかなり大き目のおにぎりを受け取った3人の少年たちは、自転車に折り畳んだ蚊帳を積み、勇躍イブキヤマを目指しました。

行きは我が家からの下り坂と海に近づく平坦な道で、あっという間に目的地に到着しました。その後、鵜の岬の林の中の木に釘を打ち付け、蚊帳を吊り、私たち少年は日の暮れるのを岸壁を行きつ戻りつ待ちました。

あたりがだんだん暗くなり始めると、3人の心の中には、それまでのウキウキ感とは逆に、小さな不安が湧き始めました。それが徹底的な不安に変わるのに、多くの時間を要しませんでした。

海辺は暗くなると、当然何も見えなくなります。聞こえるのは打ち寄せる波の音だけ。昼間は軽快なリズムを刻んでいるように聴こえたそれが、暗闇では地獄の底から聞こえる悪魔の咆哮のように感じられるのです。

蚊帳では夜を越せない!という、誰が考えても当たり前の事実に即刻直面した”少年探検隊”の3人は、林の暗闇の中で、ほとんど確認出来ないお互いの不安気なその表情を見つめていました。

そんな時です。岬の崖の下から、人の歓声が潮風に乗って聞こえて来たのです。

声の方向を望むと、キャンプファイヤーの火が見えました。岬の下は伊師浜海水浴場です。私たちは何の躊躇も無しに、その炎に吸い寄せられるように崖を駆け降りました。

そう、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のカンダタが、虚空から降りてくる蜘蛛の糸を見つけたときのように無我夢中でそれにすがったのでした。

幸いキャンプをしていたのは、とても優しい若者たちでした。

私たち中学生3人が突然、暗い岬の方角から、降って湧いたように現れて驚いたようですが、それまでの経緯を話すと、なんと自分たちのテントを空け渡して、私たち3人に寝床として提供してくれたのです。

ただ、そのやり取りの間に、リーダーの青年が急に胃痙攣(いけいれん)を起し、心配した彼の恋人に、私たちの存在が疎ましく思われていたであろうことが、子ども心にもひしひしと伝わり、非常に申し訳なく、肩身が狭まかった記憶が強烈に残っています。

翌日、どうやって帰って来たのか、まったく覚えがありません。

ただただ自転車を転がして、田舎道の国道6号線を、敗残兵のようにとぼとぼと帰路につく3人の中学生の疲れた姿があったのでしょう。

程なく私の実家の縁側で、かなりの長い時間、大の字になって昼寝する中学生3人組を、事情を知らない私の母親が怪訝な表情で眺めていました。

この経験以降、私の辞書から「アウトドア」という言葉は消えました。


今から50年以上も前の鵜の岬、15歳の「夏の記憶」です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?