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出発の場所「坂下1丁目」

※写真出典:https//ja.wikipadia.org

私が東京に出たのは高校を卒業して直ぐですから、今から50年近くも前になります。始まりは、先に上京していて、バスガイドとして働いていた3つ違いの姉のアパートに転がり込んだコトです。

姉は板橋区の蓮根(はすね)という、その頃の私の眼から見て”へんぴ”に思えた場所に住んでいました。

当時は、山手線の巣鴨駅から高島平駅までを都営地下鉄6号線(現・三田線)が運行していて、蓮根は終点からふたつ前の駅でした。

初めて地下鉄に乗った田舎者には、暗い暗いトンネルの中を、何処までも遠く連れていかれるような気がしたものです。

姉は私と同居して一年も経たず他県に嫁いで行ったので、私ひとりではとても賄いきれない家賃のアパートを引き払い、直ぐに安アパートに住み替えました。

そんなことを繰り返し、豊島区西巣鴨の(当時の)「癌研前」にあった3畳間に落ち着き、7年間程やっかいになりました。そこはかなり狭い部屋でしたが、大家さんが本当に良い方で、長く住むこととなりました。

奥さんと出会ったのは、私が姉と通った蓮根のオープン直後のコーヒーショップで、高校生だった彼女がアルバイトをしている時でした。

それから8年程の月日を経て、私たちは結婚。西巣鴨の狭い部屋から、また蓮根に戻り、新築のマンションを新居として新婚生活を始めました。

30歳になる直前に体調を壊した私は、不安がる奥さんを強行に説得して田舎のある茨城県に”帰る”こととしました。

当時、自分の出身地である高萩市には、仕事口があるとは思えなかったので、県庁所在地の水戸市に職を求め再就職することになりました。

それから10年の時を経て、水戸市に家を建てました。

その間に、男の子と女の子を授かりました。

男の子は中学を卒業すると、電車の運転手になりたい希望を叶えるために、奥さんの実家のある東京から、おじいちゃんおばあちゃんの世話になって、池袋の鉄道専門の学校に通いました。

そして、卒業後、念願通り鉄道会社に就職しました。

女の子は父である私の職業に憧れて、外国語の学校を卒業。都心のシティホテルに就職しました。

彼女の最初の部屋探しは当然のように、お母さんの実家近くからスタートしました。周辺駅も含め最終的に選んだアパートは、蓮根駅から歩いて数分という場所でした。

住所は板橋区坂下2丁目です。
また暫くして息子は結婚し、豊島区長崎に居を構えました。

私たち夫婦は40年程前、結婚して最初に住んだ場所を忘れないようにするために、蓮根のマンションの所在地を本籍地として役所に届け出ました。

ですから、私たちの本籍は、東京都板橋区坂下1丁目です。

こうして、私たちの大切な”希望の種”であるふたりの子供たちは、それぞれ、私たちの「出発の場所」近くに蒔かれました。

この至極あたりまえにも思えるような、変哲のないめぐりあわせに、40代の若さで亡くなった姉の何気ない”導き”を、今更ながらに、強く強く感じるのです。

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