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古語に引きずられつつ歌を詠む。

わたしが短歌の世界に入ったきっかけのお話を。

もともと本を読むほうではなく、読んでみようかな、と思ったときには人生の残りが見えていました。

時間がない。ここは根っこを押さえよう。
そうすれば、どの時代の作品にも通底するものが分かるだろう。
でも文芸の根っこってなんだろう……?

その時たまたま読んでいたのが幻想文学のアンソロジーで、佐藤春夫を見つけました。
「病める薔薇」を読み、その作中で推されていたのが「雨月物語」。
そちらで随分と和歌が散りばめられていることに気づき、古今和歌集へ。
その頃、大阪府立大学で教鞭をとっていらした村田右富実先生による万葉集の講演会に通うようになり……

根っこ見つけたぜ、古事記歌謡!

と相成りました。
その同時期に、Twitterで黒瀬珂瀾さんの短歌に出会ったのです。

殺人を犯すときさへその口で謝るやうな奴だねおまへ
──黒瀬珂瀾


この歌で、えっ、これが現代短歌!?とびっくりしました。
さらに追っていくと……


晩酌にうまざけ美輪の明宏がほほと笑へし涙ぐましも

初雪をに献じ笑む弟よ知る人ぞ知るなれの荒淫

黄昏くわうこんのわが識閾にしのびこむ秋の吐息を落葉といふ

──以上三首、黒瀬珂瀾



すごいと思いました。
一首のうちに上代から現代にいたる息づかいが見事に融合しているのです。

「わたしもやる!」

……単純な子です。


しかし、現実はそんなに単純ではありません。
冒頭に書きましたが、そもそも本を読んでいません。
それが古典から息を吸い込みつつ、現代の心を詠む。思いっきり古典に引きずられます。ひとつの言葉がおびただしい背景を引き連れているからです。わたしの薄っぺらい言語体験なんて吹き飛ぶレベルです。それでも持ちこたえて歌を詠めるのは、ただ「今ここに生きて存在している」という杭があるから。

わたしが文語(あるいは古語)を使うのは古にも心をしっかりと置くためですが……。
古典がちゃんと血肉になっていれば、現代語で詠んでも「遠い過去と遠い未来をつなげる」ほどの歌になることでしょう。
俵万智さんがその最たる歌人だと思います。

まあ、そんな大それたことは望んでいないけれど。

悠久の時を吸って、この今に吐く。
あるいは、この今を吸って、悠久の時に吐く。
そんな深呼吸をするように歌が詠めたらいいな。
……なんて思っています。



今日の短歌は過去作から。
ある方に「万葉集を思い起こさせるような」と評された歌。


山を越えか黒き道をゆくひとに月よ寄り添へわが影として
──壱羽烏有、毎日歌壇・伊藤一彦選 2019年6月11日掲載

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