箱士

 いやな朝だった。生臭い匂いが全身にまとわりつく。目を開くと腐った茶褐色の空が広がる。そんなことが気になるのは、これから始まる安っぽい芝居のせいだろう。
 オレは、ぎしぎしなるベッドから降りると手早く皮の服をまとって扉を開けた。正面の壁の鏡に、自分の姿が映る。中肉中背の特徴のない中年男。うっすらと生えた無精ひげ、短く刈り込んだ黒髪、灰色の目。どこにでもいる、誰でもない男だ。
 居間の床には、父が寝そべっていた。ぶよぶよと太った巨体は、カバの屍体を連想させる。
「やっておいた」
 どんよりした目をオレに向け、酒臭い息をまき散らして父が言った。それから大儀そうに玄関にある背嚢を指す。オレは無言で背嚢を負い、外に出た。背負ってみると、さすがに重いがしかたがない。
「お楽しみだな」
 父の声が聞こえた。オレは扉を蹴飛ばして閉めた。

 家から市場までは、山道を小一時間歩かなければならない。苦痛だが、それは背嚢が重いからじゃない。
「お出かけなの?」
 背嚢から可愛い声がした。
「ああ、そうだよ。市場に行くんだ」
「あたし、市場に行くの初めてだね。なんだかうれしい。ありがとう、お兄ちゃん」
 お兄ちゃんという言葉を聞いた時、心臓をわしづかみにされた。急激に不安と後悔が広がる。まだ遅くない。妹と仲良く一緒に暮らすんだ。そうささやく声がした。
「お兄ちゃん、疲れるでしょ。あたし歩けるよ。ひとりで歩けるもん。ね、おろしてちょうだい」
 背嚢がもぞもぞと動き、妹の小さな手が動いているのがわかる。
「だめ」
「だいじょうぶだってば。お兄ちゃんと手をつないでいれば、どこまでだっていけるもん。この間は一緒に、お魚釣ったでしょ。覚えてるよね。手をつないで歩いたでしょ。もうなんでもできるんだよ」
 オレの脳裏に、妹と手をつないで帰る時の光景が浮かんできた。このあたりには珍しくきれいな夕焼けだった。妹は、ねえねえとなにか言いたげに立ち止まり、オレの顔をじっと見た。それから恥ずかしそうに顔を伏せて、ありがとう、お兄ちゃん、とオレにささやいたのだった。オレの中で妹への思いが膨らむ。どっと全身から汗が噴き出した。
「お兄ちゃんのケチ」
 妹はそう言うと、しばらく黙った。だが、しばらくすると海の話を始めた。
「今度海に行こうよ。お兄ちゃんも海を見たことないでしょ。あたしもない。みんなで海に行こうね」
 オレは泣きそうになった。海は遠い。歩いていける場所じゃない。でも乗り物に乗る金なんかない。金があっても一緒に行くことはできない。
「海はすごく大きいんだよね」
 妹のあどけない声が聞こえた。まだ見ぬ海の光景が頭の中に垣間見えた。見渡す限りの海原。真っ白な砂浜。そこにオレと妹が立ち、黙って遠くの空を見つめている。空の色は青。くすんだ茶色なんかじゃない。鮮やかできれいな青だ。オレたちは、ふたりぼっちでそこにいる。
「行けたらいいな」
 オレは低い声を絞り出した。
「どうしたの? お兄ちゃん、元気ないよ。え? 泣いてるの? あたしなにか悪いこと言った? ごめん、ごめんなさい」
 妹は、それからもしゃべり続けたが、オレはなにも答えることができなかった。

 市場に着いたのは昼すぎだった。見世物小屋に行くと、すでに行列ができていた。みな一様に興奮し、血走った目をしている。うんざりだ、と思ったがやめるわけにはいかない。今のオレはこれで口に糊しているのだ。
「お待ちしておりました!」
 甲高い声をあげて、小柄な男が駆け寄ってきた。ひと目で座長のマルオールだとわかる。背中から手が二本も生えているから間違えようがない。それにいつもタキシードに山高帽だ。
 マルオールは、肩から生えている両手でオレと握手し、背中の手で山高帽をひょいととってみせた。便利なものだ。新聞を手にタバコを吸いながらトイレで尻を拭くのを自慢にしているだけのことはある。
 オレとマルオールに気づいた客が騒ぎ出した。見世物小屋の前は異様な熱気に包まれた。
「ここはどこなの? 怖いよ、お兄ちゃん」
 かぼそく震える声が背嚢からもれた。それを耳にしたマルオールが眼を細める。
「背嚢はお預かりしましょう。こっちで準備しときます。旦那は身支度をお願いします」
 マルオールは四本の手でオレから背嚢を受け取った。妹のすすり泣きがかすかに聞こえたような気がして、オレは軽い目眩に襲われた。
 マルオールは、下卑た笑いを漏らしながら背嚢を持って行った。市場の乾いた地面にオレの影が長く落ちていた。オレは頭を振り、気分を切り替えた。

 控え室に行くと、いかにも魔導師といった感じのおおげさなマントと、真っ赤な詰め襟の服が用意されていた。
 この世には魔法なんてない。
 魔導師なんていない。
 でもどういうわけかガキっぽい幻想を捨てられない連中がいて、そいつらはこういうバカバカしい服を好むのだ。とはいえ理解できないこともない。なぜなら、悪魔のような生き物はいるからだ。人間の仲間だが、なにかの間違いでおかしくなった化け物ども。
 オレは魔導師に着替えた、道化になりきるために。

 舞台に立つと、観客は割れんばかりの拍手と口笛で迎えてくれたが、オレは逆に冷めていった。
 お前らは最低だ、と言ってやりたい。でもそんなことは言わない。オレの小芝居に金をくれる大事な金づるだ。
 舞台の中央に妹がいた。両手、両脚を広げた格好で二本の柱に縛り付けられている。恐怖におびえてぼろぼろ泣きじゃくったせいで、白いブラウスの胸はびっしょり濡れていた。オカッパ頭を小さく振りながら、助けてお兄ちゃんとつぶやいている。
 白くて細い手首、足首は金属の枷でしっかり止められ、さらに肘、膝、銅までしっかりと固定されている。もう逃げられない。動けない。
「お兄ちゃん!」
 妹はオレの姿に気づいて叫んだ。オレの頭の中に、妹と手をつないで歩いた光景が蘇る。やめろ、と頭の中で止める声がした。だが、オレはそれを無視して妹に近づき、その服を引き裂いた。
 妹は驚き、絶叫した。そして、再び、助けてお兄ちゃんと言った。
 オレは両手に持ったナイフで機械的に妹の指を一本ずつ切り落とした。ぼとり、ぼとりと小さな肉塊が舞台に落ちるたびに、観客は歓喜の声を上げ、妹は声にならない悲鳴をあげた。マルオールは、文字通り舞台の上を転げ回って器用に四本の手でそれぞれ指を拾い上げ、観客に向かって投げつけた。悲鳴、怒号、咆哮。誰ももう座っていなかった。半狂乱になり、なにかをわめきながら舞台の袖に殺到した。
 オレは、次に妹の四肢を切断した。鈍い音とともに妹の四肢は、肘と膝から床に転がった。一滴の血も出ない。妹は恐怖のあまりに痙攣をはじめた。
 見世物小屋が揺れた。観客は、もはや興奮した獣だった。喉がつぶれんばかりになにかを叫び、舞台の袖から手を伸ばしている。
 その手の先、真っ黒に塗られた舞台の床の上には、白く美しい妹の脚、腕がある。切り取られた幼い生が生々しく息づく様は、官能的ですらある。マルオールは、四本の手でそれぞれをつかむと、熱狂する観客に投げつけた。歓喜の声が上がり、客は妹の四肢を奪い合った。
 オレは最後の仕上げのために、妹の顔に自分の顔を近づけた。
「お兄ちゃん、なぜ、こんなことするの?」
 妹は、涙で濡れた顔でオレを見た。血の気が失せて真っ白になった肌。感情をなくした抜け殻のような表情。黒目の広がった目。
「お前は、妹じゃないし、釣りに行ったこともない。お前は昨日まで母親の胎内にいた。昨晩生まれたばかりの化け物だ」
 オレはそう言うと、妹の首をはねた。こいつはオレが見世物のために連れてきた化け物だ。オレを騙そうと精神に干渉して、存在しない思い出話をしてきたが、そんなものには惑わされない。もしかすると本当のことだったかもしれないが、どっちでも同じだ。オレには守るべき過去はない。
 マルオールが首を拾おうとすると、首の付け根から蜘蛛のような脚が生えてきて、そのまま走り出した。マルオールは、待て!と叫びながら追う。首は笑いだし、観客も滑稽な追いかけっこに爆笑した。
「天空の業火、リダバーグの鉄槌を受けよ!」
 オレが叫ぶと、首は燃え上がり一瞬で灰と化した。こんなバカなセリフは必要ない。これも演出だ。恥ずかしいことこの上ない。本当はもっと長ったらしいのだが、覚えられないからと言って短くしてもらった。
 観客はまだ騒いでいたが、オレは優雅に挨拶して控え室に引き上げた。ひどく疲れたし、自己嫌悪で死にそうだった。

 上機嫌のマルオールから分け前を受け取ると、オレは酒場でしこたま酒を呑んだ。そうでもしなきゃやってられない。
 酒が回る頃には、街はすっかり暗くなっていた。バーを出ると、血の滴るような赤い月が街路をなめまわしている。扇情的な服に身を包んだ街娼がオレに流し目をよこして寄ってくる。
「ねえ、あたしを買ってよ」
 耳元でささやく女もいるが、オレは無視してどぶ川の近くのテントに向かった。テントの周りには、死に損ないの魔物が何匹も寝転がっていた。最下層の街娼も寄りつかないゴミためだ。忌まわしき淫売の巣窟。
 そのうちの一匹を蹴飛ばすと、そいつはオレに顔を向けた。沼のような美貌の淫獣だった。
「オレと一緒に来い」
「殺してくれる?」
「そうだ。ひどくつらい死に方だ。それでもよければついてこい」
「死ねるならなんでもいいよ」
 ここにいる連中は、不死の罪を受けている。魔物の能力を奪われ、さらに片脚と片腕を切り落とされた上での不死だ。誰からも疎まれ、さげすまれるだけの生。人間の女に相手にされないヤツらが、穴だけを求めてここに来て、こいつらを弄んでいく。
 この連中は死ねるなら、なんでも言うことを聞く。そしてオレには、死を与える力がある。
 こいつを連れ帰ってはらませると、一ヶ月後ガキが内側から身体を食い破って生まれてくる。こいつは死に、オレはそのガキを連れて小芝居をする。その繰り返しが、オレの生活だ。
「旦那、もしかして箱士なの?」
 片脚で立ち上がった魔物は、妙に色っぽい目つきでオレを見た。
「そうだ。だが、期待するな。オレはなにもできない。ただ、お前を犯して殺すだけだ」
「それだけが望みです。うまく殺してくださいまし」
 化け物は、はにかむように笑い、オレは不覚にも少しだけ甘いうずきを覚えた。


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