【エッセイ】行きつけ
『行きつけ』の店
カッコいい〜
憧れるわぁ〜
一度でいいから言ってみたいわぁ〜
ふと、そんな感情を抱いた。
(言うだけならタダなんだけども、ちょっとそれは虚しすぎるし、嘘になるのでやめておこう笑)
今の段階で行きつけって言えるほど通っている場所なんてあったかな…?と考えてみる。
……図書館。笑
そりゃ返却期限もあるから一回借りたらもう一回は必ず行くけども!ってか店じゃないし!
他には
……100円均一。笑
いや、確かに既に行きつけだけども!めちゃくちゃお世話になってるけど!二店ほどあっていつもどっちもハシゴしちゃうけど!笑
行きつけの店として他人に披露できるジャンルではないかと…。
他には
……ない!!
そうだった!
私はだいたい食料品を買うスーパーか、既に挙げた図書館・100円均一以外、ほぼ外出しない人物だった!
超インドア&お家大好き人間だった!
『行きつけ』の店として思いつくカフェやお食事処、バー、居酒屋なんて滅多に行かない人だった…。
だからこそ『行きつけ』がなくて、一度は言ってみたいと感じるのか笑
だいたい『行きつけ』を語れるかっこいい人というと、一人暮らしの人か自分の時間をたっぷり持つ人、ハイスペックな人を想像するのだが(私の中の偏ったイメージ笑)、
特にやることがなかったり、ポッと空いた時間に時間を潰すのにふらりと出掛けたり、
もしくは、ご飯を食べる為に同じような時間に同じ店に一人でふらっと出掛けると『行きつけ』になるのかな?というイメージを私は持っている。
そしてそのイメージに私が適合するかといえば…NOだ。
今どき珍しいかもしれないが、私は一人暮らしの経験が一度もない。二人暮らしならある。
その頃、同居人の出張などで数日一人で過ごすことはあったから、一人暮らしの雰囲気は何となくだが想像は出来る。
しかし私のステータスにセットされているスキル『家大好き人間』が邪魔をして、たとえ一人の時間があったとしても、ふらりと出掛けることはなく、ここぞとばかりに家で一人の時間を満喫するような気がする…。
そういえば、席に座るタイプのお店に一人で入るという考え自体、持ち合わせいないかもしれない…。
もし食べ物を提供するお店に行くとして、そのお店のものを買うとしてもテイクアウト。家が好きすぎる為に、そのお店で食べようという考えが起こらない。
『一人鍋』や『一人焼肉』、『一人カラオケ』など、世にいう一人では難易度が高いものではなくとも、『一人カフェ』すらもほとんど経験がない。
(だいたいカフェは一人で行く場合が多いと思うので『一人カフェ』なんて言い方はしないと思うが…)
3年ほど前に一度だけ、遠くまで電車を乗り継いで朝早く健康診断を受けに行った帰り、どうしてもお腹が空いて倒れそうだったので、近くにあったスタバで遅い朝食(コーヒーとドーナツ)をとったことがあったが、それが最初で最後だ。
その時は、声には出さなかったが(漏れ出ていなければ笑)、
『コレがカフェかぁ!自分、カフェでお茶してるわぁ!』とだいぶテンションが上がってキョロキョロしたいような気がする笑
未だにカフェ自体にも、一人でなくても片手で数える程度しか行ったことがなく(…えっ笑)、雰囲気の良さに「これは長居するわ」とも思ったし、「ここに頻繁に通えたらカッコいいだろうなぁ」とも思った。
だが、金銭的な面や、行動範囲と移動手段の面などで続かないのだ。
(通勤はチャリで住宅街を移動。通り道にお店がなくはないが、自転車が置けるようなお店ではない。)
…ん?だいたいなんで『行きつけ』のお店が欲しいんだっけ?
あぁ、カッコいいからか笑
でも今回こうやって考えてみて、
それだけではないような気がしてきた。
自分は『行きつけ』のお店を持てるようなタチではなかったなということも再認識したけれど、
それに憧れる面(しかも一度や二度ではなく何度も)があるのも事実。
『行きつけ』を持つこととは対極にありそうな『家が好き』というベースの性格を持っていても、新たに獲得しようとする『行きつけ』の場所に出掛け、そこで体験できる今の自分にはない何かを味わってみたいという気持ちがあるという事実。気付かなかった自分の本心。
それを今、こうして書いているうちにハッキリと認識した。
それは新しい自分を見たい、まだ持っていない何かを獲得したいらという知的好奇心の一種だと思う。この歳になってまだ知的好奇心がうずくのは良いことだ。
今はまだ色々な制約があってすぐに実行するのは難しいかもしれないけれど、調べることだけは今からでもやろう。
『行きつけ』という響きから、ついつい『お店』を考えがちだけれど、その知的好奇心を満たしてくれる(家ではない別の)場所なら、お店でなくてもいいのかもしれない。
だから、図書館でも良いのかもしれない。
毎日でなくてもいい。
ある曜日の少しの時間だけでもいい。
ただ『カッコ良さ』を求める為ではなく、知的好奇心を満たし、新たな自分を獲得する為、自分という人間を高める為の活動に費やしたいな。
そういう時間を持つことで、自分の新たな一面を掘り下げられて、人生の豊かさにつながるような気がする。
どこに何をする為に行くのか。
場所や目的は数えきれないほどあるだろう。
読書や書き物をする為のカフェだったり、
楽器練習の為のレンタルルームだったり、
表現の仕方を学ぶ為の映画館だったり、
身体を鍛える為のジムだったり、
健康維持の為の河川敷だったり…。
調べてみると、
社会人サークルのような同じ目的を持つ集まりもあるようだ。
朝活の為にホテルのラウンジに集まったり、
読書会の為にオンライン上で集まったり、
ラジオの公開収録にzoomで集まったり、
技術習得のためにオンライン上で集まったり…。
後半に挙げたものは『行きつけ』というには私の認識から外れるようにも感じる。
しかし、そこで感じられるワクワクはきっと同じだ。
ただの『憧れ』では終わらせない。
自分はまだ高みに行きたがっている。
その高みは今よりどれだけ上に位置するのかは分からない。
ほんの数センチかもしれないし、階段数段分かもしれない。マンションの数階分に相当するかもしれないし、山一つ分かもしれない。
どれだけ高いのかは分からないけれど、認識してしまったからには夢を夢で終わらせたくない。
例え最終的に山の中腹までしか行けなくても、その中腹の景色を写真で見るのと自分の目で見るのとでは雲泥の差がある。
私が『行きつけ』に憧れる理由は、
自分にないものがそこにあるから。
そして『行きつけ』を持つ人が自由で有意義な過ごし方をしているというイメージを持っていて、それを自分も叶えたいと思っているから。
いつか自分も『行きつけ』と言える場所を持とう。自分を高みに連れて行ってくれる目的と共に。
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