見出し画像

商品価値が「社会的必要労働時間」である理由


マルクス理論では、商品価値は「社会的必要労働時間」、つまり「平均的労働量」によって決まる。翻って、商品価値は「個別具体的な労働時間」によって規定されない。それどころか、個別的労働時間は商品価値に対して一切の作用を及ぼさない。

しかし、現実の労働を見てみると、特定の商品を生産するのに、1時間の労働を費やす人もいれば、4時間の労働を費やす人もいる。
現実の労働は、すぐれて個別的具体的な行為であって、それこそ「人それぞれの努力程度」に帰着するのではないか。労働行為が千差万別であれば、商品もまた同様に「千差万別の価値」を持つということになる。ここから商品価値は「社会的必要労働時間」によって規定されない という現実的観察に基づく帰結が導かれる。

それゆえ、マルクス理論における「商品価値=社会的必要労働時間」という規定は「恣意的」に感じてしまう。
私たちはこの感覚にしたがって、「商品価値=社会的必要労働時間」が、現実とは異なる想定であって、いわばマルクスによる恣意的な、都合のいい「創作」だと疑心暗鬼する。
この時、私たちには資本主義のイデオロギーが待ち構えている。すなわち、労働価値説は否定の余地がなく誤りであって、マルクスの、リカードの、アダム=スミスの戯言から生み出された擬似経済学であって「限界効用説」こそ正しい。さあ、資本論なんか放り投げて、真の経済学の扉を開こう。

極めて性急で乱暴な結論である。
以上の議論は筋道も帰結も何もかも誤っている。というのも、マルクス理論を正しく把握していないからだ。
くどいようだが、商品価値は「社会的必要労働時間」によって規定される。この時「個別的労働時間」は度外視される。
このことは、マルクスが独自に設定した創作的なテーゼではなく、むしろ資本主義という社会システムを「根本的な成り立ち」から問い、分析することを通して論理的に記述できる。なぜなら、商品価値は「社会的必要労働時間」として現れるから…、というか、むしろ、そう現れることを強いるメカニズムが在るからである。
そのようなメカニズムを、マルクスは解明した。マルクスが経済を社会から把握したことを忘れてはならない。

本題に移る。
一体、どうして、商品価値は「個別的労働時間」ではなく「社会的必要労働時間」として現れる…現れざるをえないのか。
このことを理解するためには一つ一つの論理を辿っていく必要がある。

まず、マルクスのスタート地点は「社会の存立条件」にある。それも一時的に社会が存立すればいいのではなく、明日も、その明後日も、ずっとその先の未来にも、「繰り返し」存在し続けなくてはならない。

そのように社会が存立するためには、人々の衣食住をはじめとする社会的総欲求を絶えず満たさなくてはならない。
なぜなら、有機体である人間も自然史の過程の一部であり、他の動物と同じように食べ物を食べなくては栄養を摂取できず死んでしまう。
しかし、物質世界では人間が何もせずとも目の前に食べ物や住宅が生じてくるわけではない。人々は、牛や豚を家畜にしたり、作物を育てたり、料理をしたり、木々を切り、木材に加工して、住宅建設に利用したり、自然に対して働きかける「労働」を通して、人々の生存を、社会を、実現する。
社会の存立条件は「労働」である。

とはいえ、人々は無思考にがむしゃらに労働をすればいいわけではない。極端な話、社会の人々が食糧生産の労働を怠り、住宅生産に全労働を集中してしまったならば、食糧不足に陥り、人々は死に絶え、社会は存立できない。

人々の体力には限度がある。したがって労働量は資源と同じように有限である。有限な社会全体の総労働は、社会の再生産に必要とされる様々な生産部門に対して、適当なバランスで、配分されていかなければならない。

つまり、社会の存立の条件は、「総労働の社会的配分」が必要不可欠なのである。
これがマルクス理論の出発点である。

目的地に向けて議論を進める。

社会の存立には「労働の配分」が条件となっているが、この「配分の仕方」には、歴史的にさまざまな形が見出せる。そして、それは大きく分けて、二パターンの形に分類できる。

一つ目のパターンは、端的にいえば「共同体」である。共同体では、たとえば家族関係や身分関係といった、人々が直接的に人格的に結びついた社会関係を基盤にして、社会全体の労働を配分していく構造をともなっている。
もう一つのパターンは、共同体の結びつきを失った、いわば「他人同士の時の関係」である。
他人同士の関係では、共同体にあった家族関係や身分関係など人間と人間の「社会関係」を失い、これを基盤にして、労働を配分することはできなくなった構造を伴う。

前者を「共同体的生産関係」、後者を「商品生産関係」と呼ぶ。もう少し詳しく見ていこう。

前者の共同体的生産関係では、大家族のような人々同士が直接的に結びついた人格関係から、事前に社会的必要労働を感知することができる。「人間の意思決定」によって、社会全体の総労働を配分することができる。言い換えれば、具体的に、誰が、何を、どれだけ、欲しているのか、それを、市場なしに「事前に感知して」誰かが、その者(者たち)のために労働を実現する。家父長制に基づく大家族を考えてみると分かりやすい。父親は家族のために食料を調達して、母親は家族のために料理をする。兄は弟のために玩具を作る。妹は父親と母親のためにお手伝いをする。また、母親は父親の過労を案じて休むように言う。
ここでは商品も、貨幣も、交換も生じていないが、たしかに「有限な社会的総労働は均衡的に配分」されている。しかも、ひとりひとりの労働は「具体的な相手のための労働」という形態を取って社会的意義を伴っている。いわば、彼らの労働は、それ自体として「社会的必要労働」なのだ。
大家族や身分秩序といった人格関係に基づく生産関係は、「事前に(市場なしに)、社会的必要労働を感知して」また「人間の意思決定によって」社会的総労働が配分できる。

他方、後者の、資本主義の前提…商品生産関係では、大家族や身分制のような人格的関係をロストしている。各人は、ただの「他人」同士の関係になっている。つまり、各人は平等に私的個人である。したがって、誰が、何を、どれだけ、欲しているのかなんて分からず、事前に社会的必要労働は感知できない。必要労働を感知できない以上、人間の意思決定によって社会的総労働を適正に配分することもできない。
しかも、各人は自分がなるべく損しないように、つまり私的利害にしたがって労働・生産する。したがって、社会的意義のない「私的労働」である。しかし、このような生産関係では、社会の存立条件である「有限な総労働の社会的配分」は実現できないことになってしまう。言い換えれば、私的個人から成る生産関係と有限な総労働の社会的配分は矛盾する。

そこで、人間が無自覚に、間接的に、それと知らず「総労働を社会的に配分できる仕組み(≒市場)」が生まれてくる。そのメカニズムの第一機制と言えるのが「商品」である。( 要するに価値法則のことである。価値法則の詳説は別記事「W」で書いた)

事前に社会的必要労働が分からない以上、人々の労働形態は「私的労働」である。人々の労働は社会的に通用しない。しかし、かといって「社会全体の総労働の適当な配分」が達成されなくては、社会は再生産されない。
そこで、人々は、社会的意義がロストした労働行為の代わりに、労働生産物を価値という社会的意味を付与した商品とする。そして、その際に、価値は「有限な総労働から支出された労働量」という社会的意味を持って商品に内属している。こうして、人々は商品と商品(貨幣)の交換関係(≒市場)を取り結び、己が欲する使用価値を手に入れつつ、間接的には、この交換関係が「有限な社会的総労働が配分される媒介過程」を担う。

このことを踏まえれば、「商品価値=社会的必要労働時間」である理由が非常に明瞭になる。

商品生産関係においては、人間の行為と不可分である労働ではなく、人間の行為と分離している労働生産物が社会的意味を持つのだから、そこに対象化されるのは、量的には、決して「個別的労働量」ではなく、「社会的必要労働量」である。人間の手元から離脱して、市場で立ち並ぶ同じ商品群は、買い手がどれを取っても、「同じ価値量」でなくては「有限な総労働の社会的配分」が実現できない。さもなければ、例えば1時間で生産できる、ある商品に1000時間をかけて労力を費やした生産物が存在したら、たちまち「社会的総労働の配分関係」が崩壊してしまう。

マルクスが言うように、価値法則は、言語体系と同じく、「無意識のうちに実現する社会構造(≒社会関係)」であるから、有限な社会的総労働の配分のために生成する商品体系を構成する各商品群は質的には抽象的人間労働、量的には社会的必要労働時間が対象化されていなくてはならない。総労働の社会的配分のために、社会的に取り扱えるのは「労働」ではなく、「労働生産物」であるからだ。

このことは商品体系を、一つの言語体系に例えることができるだろう。経済言語として、労働生産物は「記号(シニフィアン)」に相当して、労働生産物に貼り付けられる価値は「意味内容(シニフィエ)」に相当する。

言語から考えてみる。「り ん ご」という文字記号に対応する意味内容は、社会一般で共有される「平均的りんご」である。平均的りんごは例えば、「赤くて、丸くて、甘くて、上部にヘタを備えた、小さな、果物」である。
しかし、実際のりんごは、青く未熟なものあれば、形が歪のものもザラにあり、酸っぱいものもあれば、あるいは、微細な違いを含めて見れば、現実のりんごは、千差万別の外見と内容をしている。形も、模様も、輪郭も、重さも、味も、何もかもが違う。同一の存在など、そこにはない。しかし、私たちが「りんご」と言葉を使用する時に、私たちは社会平均的りんごを指示している。だから、りんごと言われる時、私たちは瞬時に、赤くて、丸くて、甘くて、小さい、あの果物のことだと理解する。
もっとも、りんごが赤いのか、青いのか、形は丸いのか、四角いのか、重いのか、軽いのか、等々、そのような、りんごという平均的理念の構成条件は文化社会圏によって異なってくることは言うまでもない。

(※したがって、何が必要労働生産物で、何が不要労働生産物か。価値と価値量は、文化社会圏の作用を強く反映するだろう。例えば、「虫」が食糧になる文化社会圏もあれば、「虫」を忌避して駆除の対象と見る文化社会圏もある。両者の社会では「虫」に対する必要労働が質的にも量的にも全く異なっている。)

ともあれ、私たちが社会的な意思疎通を行うことを可能にする言語として、「りんご」は、個々の具体的りんごではなく、社会平均的りんごを指示している。むしろ、そうでなくては、社会的な意思疎通は行えず、ある者は、りんごを「青く、未熟な、まずい、果物」と解して、ある者は、りんごを「赤く、熟した、甘くて、おいしい果物」と解する。もしも、社会平均的理念としてりんごが喪失した世界線で、双方の人間が個人的言語としての「りんご」を用いるとしたら「意思疎通」は不可能である。それだから、社会一般において、「平均的りんご」が、「り・ん・ご」という文字記号に内包される必要がある。

これと同じ理屈で、労働生産物に「対象化」する価値もまた、個々の労働時間ではなく、「社会平均的必要労働時間」が対応しなくてはならない。そうでなくては、労働生産物は社会的に通用し得ず、したがって「有限な社会的総労働の配分」が達成できない。すると論理必然的に社会の物質的再生産は破綻してしまう。社会の存立条件を満たせないのだ。

価値法則は、社会の物質的再生産のため「社会的総労働の配分」を達成するべく、経済事物の背後から作用して、規制的に働くメカニズムである。価値法則は貫徹する。
有限な社会的総労働が配分する上で、労働それ自体には社会的意味がロストしてしまっているのだから、必然的に、労働生産物が社会的通用形態、すなわち「商品形態」に入る必要がある。つまり、質的には抽象的人間労働が、量的には、社会的必要労働時間が「価値」として、商品に内属する。こうして、ようやく、有限な社会的総労働の配分機制を構成する。

商品とは、社会が物質的に再生産するべく生成した経済言語である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?