見出し画像

ひとりが好きなくせに寂しがり屋なあなたへ



"ひとりが好きなくせに寂しがり屋"


CMが流れる度にドキッとする。

インスタのDMで「誕生日おめでとう」と言ってくれた彼女らは決まって「今度飲みに行こうね」と私を誘う。

私は「飲みに行こ〜!また休みになったら誘うね!」と返信して既読の♡を待つ。

彼女たちには会いたいが、会って何を話せばいいのかが思い浮かばず、また高校を卒業して就職した彼女たちと大学に進学して「働きたくない」と意味深な画像と共に投稿する私の間には既に溝ができているように感じて、それが不安で「会おうね」詐欺を繰り返す。もちろん、そんな詐欺師を誘う人など現れることもないのに心のどこかでまだ繋がれていると信じている私はただの馬鹿である。

だが、いざその子と誰かが遊んでいるストーリーを見ると寂しくて仕方がない。どうして何人かで集まっているのにそこに私を誘ってくれなかったのか、なぜか不安になり仲間外れにされた気分になり、何も手につかなくなる。「会おうね」詐欺で逃げようとした自分に、なぜ「いつ空いてるの?」が言えなかったのか、後悔ばかりが募る。


恥ずかしながら私には昔から妄想癖があった。
気を遣わずに話せる友達が少なかったから、彼氏がいなかったからだ。気を遣わずに話せる友達はいたが、その子が「親友」と書いたインスタの投稿には自分以外の、もう1人の気を遣わずに話せる友達しか写っておらず、彼女らにとって1番になれなかった悲しみと嫉妬に狂った挙句に変に気を遣うようになり、勝手に自分から線を引いてしまうのがいつものことである。


だから2次元のキャラクターや当時好きだったアイドルに独りぼっちの自分に言って欲しい誰かからの言葉を言わせることで、私は私で"ひとりが好きなくせに寂しがり屋"のまま、キラキラした赤の他人のストーリーに指を咥えつつもでも私はひとりが好きだから…と誤魔化し続けた。


"ひとりでも大丈夫だけど誰かに愛されたい"


私の好きなドラマに出てくる台詞だ。

ひとりは寂しいけど、誰かに寂しいって言えないからひとりでも大丈夫になりたい。誰かに分かってもらおうだなんて傲慢だし。

でもひとりは寂しい。愛されたい。

だけど、今更もう人を信じることができない私もいる。


"自分に優しくできるのは自分しかいない"


私は所謂"言葉フェチ"で、昔から素敵な言葉遣いや文章、台詞、短歌、ツイート、エッセイ、ポエムが好きだった。桜の花びらと共に目の前に風が通り抜けていかようなふんわりと温かい、背筋がそわそわして目がじわじわと熱くなるような感触がする言葉に心を打たれてきた。



"過去の自分が言って欲しかった言葉を、誰かに言えるようになることが大人になるということ"


ニュアンスで申し訳ないが、ある日ツイッターを眺めているとこのような言葉に出会った。

あの日救われなかった、ひとりで泣いていた自分を救えるのもまた、大人になった自分しかいないと思うと少し寂しくなくなったような気がした。

"ひとりが好きなくせに寂しがり屋"な私へ、誰も言ってくれなかったこと、言われたかったこと、言えなかったことを誰かに言えるようになることで私を救いたいと思った。



「ボロボロになるまで気づいてあげられなくてごめん」

「がんばらなくていいよ」



そんな、だれかに言われたくて言って貰えなかった言葉たちを今度は自分で自分に、そしてどこかの"ひとりが好きなくせに寂しがり屋"なあなたに届けられますように𓂃 𓈒𓏸𑁍‬



終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?