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40代からの心理系大学院合格への道

高校生の時、阪神大震災があって、「カウンセラー」という職業名が日本で知られるようになった。
私は職業紹介の雑誌にあった「人の心を科学する」というキャッチフレーズに惹かれ、カウンセラーになることを夢見るようになった。

あれから30年。
私は臨床心理士の入口に立った。第一種指定校の大学院に合格したのである。

大学では心理学を学んだが、そのまま院には進まずに社会人になった。
20年以上様々な職場で働いてきたけど、私の心の中には常に「カウンセラーになる」という片づけられない荷物が置いてあった気がする。

「カウンセラーにならなくったって、私は私で、人生としては上出来なのではないか、幸せに暮らしているじゃないか」

捨ててもよかったはずなのに捨てられず、ただただカビが生えたその荷物を見て見ぬふりして生きていた。だけど、死ぬまでここにあるというのも耐え難いものがあり、何とかしなければという気持ちが強くなっていた。

昨年末、その荷物を片づけるべく、大学院受験を決意し、退路を断つために、仕事を辞めた。

仕事を辞めても、私には子供がいて、夫がいて、母として、妻としての役割があって、受験なんてしなくても、自分が自分に説明できるだけの存在価値は十分にあった。
だから、4月から始まった管理されない日々をどう組み立てていいかわからずに、子どもが登校した後、やったようなやらなかったような勉強生活を続けていた。
それでも、研究室訪問や出願書類の準備など、結婚式同様にひとつずつ、受験に向けた手続きを進めていくと、もう受験しない理由がなかった。

「受験する自体が、荷物の弔いになる」
そう思うようになっていた。

試験3週間前になると、知識が積み重なっているのかわからない不安や手ごたえがないことによる絶望に打ちひしがれた。怖くてたまらなくなり、眠れない日々が続いて、精神的におかしくなりそうだったけど、余計なことが頭を閉めないように、とにかく勉強した。

受験当日は、自分で自分を最後まで応援してあげようという気持ちになり、昼食用にお弁当を作って持参した。甘い卵焼きが午後の試験への緊張を緩めてくれた。

私が合格できたのは、自己分析をして、ターゲットを一校に絞り、自分が求める価値と相手が求める価値(人物像)を一致させるために努力したからだと考えている。
私には、他の大学生が行うような、どの大学院受験にも通用するような汎用性のある学力を身に着けることは難しかったと思う。マーケティング的な戦略を取って受験に臨んだことは、30年を経て受験した大人の強みである。

マーケティング的思考がなかったら、私は合格していなかったかもしれない。

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