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パン屋日記 #17 用務員の木村さん〜カギ救出大作戦

あの夜の敗因は、閉店作業を終えて
(やっと家に帰れる)という

その一瞬の気のゆるみでした。


リュックの外ポケットから取り出そうとした
自転車のカギが

運悪く、駐車場の排水溝にまっさかさま。

分厚い鉄格子で閉じられた排水溝は
押しても引いても開かず、

中は真っ暗で、底が見えません。


こういうときに頼りになるのが、
用務員の木村さんです。

カギを失くした自転車を
自転車屋さんに持っていくために

本体のカギを叩き壊してもらえないか、
とお願いしに行くと

木村さんは、腕まくりをしました。

「ほんならそれ、
 落ちたカギの方を拾ったげよう」

わたしは言いました。

「えっ、無理!
 ぜーったい、無理!」

わたしの話をよそに、
今日も木村さんは現場に急行します。

何でも修理する用務員の木村さんの辞書に

「壊す」という文字は無いのです。


まず木村さんは、

ゴミ置き場に落ちていた針金を
鉄格子の穴から下ろし、
排水溝の水深を測りました。

次に鉄格子のふちを、
トンカチでカンカン叩いていきます。

すき間についた錆を叩き割ることで、
格子が鉄枠から離れるのだそうです。

次に、先をL字に曲げた丈夫な金属の棒で
格子を引っかけ

腰をいれて勢いよく、
がつんがつんと上に引き上げます。

木村さんは、もう74歳。
格子よりも先に腰の方が抜けてしまいそうです。

格子の四方が地面から3ミリほど浮き上がったところで

廃材の木と駐車場の車止めブロックでテコを作り、

テコと格子をワイヤーで結びつけた木村さん。

支点から離れた場所にその軽い軽い体重をかけ、

いとも簡単にパカッと
開かずの鉄格子を開けてしまったのでした。

「うそ……」


テコの台座に使った
駐車場の車止めブロックは、

ずっと前から割れていて
ほったらかしになっていたもの。

ワイヤーは、
裏口のゴミ缶の中にあった廃材でした。

木村さんはダンボールを敷いて地面に寝そべり、

地下の方へうんと手を伸ばして、
水の中を探ってくれました。

「ほーら、あったよ!」

廃材を総動員して、
鮮やかにカギを救出した木村さん。

わたしには一見
ゴミにしか見えないようなものが

木村さんには
道具やテコに見えたのだと思うと、

同じ世界を見ているとは思えない
不思議さがありました。


木村さんは言いました。

「いいかい、
 この世界にあるすべてのものはね、
 価値の無いものなんて、
 一つも無いけんね。

 物もそう、人もそう。
 役に立たん言うて、
 簡単に切り捨てたらいけんのんよ」

わたしはふと、新入社員の
バタ子さんのことを思い出しました。

そして、この74歳の用務員さんのことを
しみじみと見つめたのでした。

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