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155/* リアリティってなんじゃろな

4Kテレビというものの出現から熱も冷めやらぬ間に、今では8Kテレビというものも出てきているらしい。テレビゲームの世界も、特にプレステ系のグラフィック技術の革新は目まぐるしくて、8bitのゲーム音楽が懐かしい時代もあっという間に遠ざかってしまう。

旅行先で、美術館を回っていた。イギリスの美術館の多くは無料で解放されていて、到底1日では回りきれないような遺産の数々を見ることができる。観光客もさることながら、絵画を志す学生や、社会学習にきた幼児たちが、所狭しと溢れている。映像やグラフィックやCGがどれだけ進化しても、リアルを求めてこれだけの人が集まるのだ。

もっというと、ここで多くの人の視線を集めているのは数百年単位で遡ることができる過去に作られたものたちだ。4Kはおろか、映像や写真という概念すらなかった時代に作られたとは考えにくい遺物ばかり。けれどそこには圧倒的なリアリティが宿っていて、数百年たった今でも人の心を揺さぶり続けているのだ。

僕は結構、ウォーホルに代表されるようなポップアートのビビットな表現が好きだ。抽象的な表現が持つ、違和感を伴ったリアリティは脳裏に焼き付いていて、フランシスベーコンの絵画をはじめて肉眼で見たときなんか、しばらくその場から動くことすらできなかった。

芸術に造形は深くないからあまり細かいことは言えないのだけれども、ああいった抽象性は誇張や排除から生まれているから、より一層生々しく、実感をもって表現が浮かび上がるような気がするのだ。

その一方で、純粋にリアリティを追求した芸術表現ももちろんある。ギリシアの彫刻の身体表現なんてピカイチで、絵が上手いとか手先が器用とか、そんなレベルを逸脱した審美眼や知識がなければ、生まれなかったであろう美術作品ばかりだった。

しかし当然、リアリティを追求した表現の中にも、あるがままをあるがままとして残すための誇張や排除は少なからずあるわけで、だからこそ真に迫るリアリティが生まれるんだろうとすら思うのであった。

そうすると、リアリティってなんだろうって疑問に行き当たってしまうのだ。僕からすると、4Kの技術をもって映し出された現実世界よりも、古代のギリシア彫刻のほうがよっぽどリアリティがあるように感じてしまったからだ。

解像度やCGの技術といった架空現実が、我々の世界に近づくにつれリアリティが薄れてしまっていくとすら、僕は思ってしまう。現代が目指しているリアリティの行く先は、価値の均質化に他ならなくて、あるがままの表現ではない気がするのだ。

僕らは同じものを見ているようで、全く別のものを見ている。それを無理やり、均質化しようとするところにリアリティはなくて、あるがままとして表現することにリアリティは宿るのではなかろうか。

回りくどい言い方ですけど、要するに先人たちの偉業は凄まじいという話でした。

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